浪士組 |
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天保十三年生まれ。元対馬藩士。江戸で、北辰一刀流を玄武館道場で学ぶ。阿比原、阿比 |
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類、栄三郎、栄三良、栄之介とも云われている。文久三年二月、浪士隊に加わって、上洛 |
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するが、浪士隊本隊の江戸への帰還が決定すると、三月十日には芹沢鴨、近藤勇らに同調 |
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して、京都残留を希望し、十二日会津藩御預かり浪士組の一員となるが、病の為、十五日 |
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の会津藩邸訪問に欠席している。二十五日に壬生に訪れた会津藩士本多四郎は、阿比留に |
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ついて「大病につき」として近々、江戸に戻ることになっていると記しているところから、 |
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上洛中より体調を崩していた可能性がある。翌四月六日、二十二歳で病死する。永倉新八 |
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は「同志連名記」で副長助勤とするが、この頃に、副長助勤職が制定されていた様子は、 |
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うかがえない。壬生寺に連刻の墓碑があり、新選組慰霊碑にも名前を連ねている。 |
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浪士組 |
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天保十年、伊勢松坂の小林清右衛門の次男として生まれ、母あきの弟である、家里悠然に |
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養われる。同年五月二十日京都で暗殺される。儒者家里新太郎の義弟であり、従弟でもあ |
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った。安政四年には、新太郎の家で暮らしていたが、やがて江戸に出て、文久三年二月に |
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浪士隊に加盟して上洛する。浪士隊本隊の江戸帰還が決定すると、浪士取扱の鵜殿甚左衛 |
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門より殿内義雄とともに、京都残留希望者の取りまとめを命じられ、数人の同志を得た。 |
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三月十五日の会津藩邸には同行したが、芹沢鴨、近藤勇らとは方向性が異なり、互いに同 |
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志としての認識は無かった。主導権をめぐって、芹沢鴨、近藤勇らと対立した結果、殿内 |
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は、二十五日に暗殺され、根岸らの同志も京都を去る。この間、同志を求めて近国を遊説 |
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していたものと思われ、四月下旬に大阪に姿を現したところ、将軍警護の為に、下坂中の |
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芹沢鴨らに詰め寄られ、四月二十四日に芹沢らの宿舎であった常安橋会所で、切腹させら |
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れた。井上源三郎の兄で、千人同心として上洛中だった、井上松五郎の日記に「家里次郎 |
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殿、少々切腹いたし、浅きず」と記されている。 |
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副長助勤 |
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斉木とも、亦三郎とも云われている。長州出身とされるが、江戸とも云われている。文久 |
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三年三月、芹沢鴨、近藤勇らの京都残留を知って同志となる。残留を知った長州の久坂が |
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内情を探るための間者として潜入させたと考えられる。十日には同調して京都残留を希望 |
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し、十二日には、会津藩御預かり壬生浪士隊の一員となり、十五日に会津藩邸を訪問し、 |
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二十二日提出の老中板倉勝静への建白書にも連名している。四月には、近藤らと屯所の八 |
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木関係者の葬儀にも参列し、同志が増加した六月頃に副長助勤となる。 |
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佐々木愛次郎の恋人あぐりに横恋慕した芹沢の意を汲んで、佐々木斬殺したが、同月十日 |
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には朱雀千本で殺害された。間者として潜入させたが意に従わぬので、長州の久坂玄瑞の |
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指令で殺害されたとも、芹沢鴨愛用の根付けを盗んだ為の報復とも伝えられている。 |
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新選組慰霊碑に名が連ねられている。 |
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浪士組 |
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文化六年十一月二十七日、武州大里郡甲山の豪農根岸信保の長男として生まれる。伴七、 |
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信輔とも云われている。学問を芳川波山、剣術を北辰一刀流千葉周作に学んだ。自宅に、 |
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剣術道場降武所と私塾三余堂を開き、長州、その他、尊王攘夷家と交わり来客が絶えなか |
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ったと云われている。文久三年一月に浪士募集を知り、門人らを率いて浪士隊に加盟し、 |
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一番組小頭となって上洛するが、浪士隊本隊が江戸帰還が決定すると京都残留を希望し、 |
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三月十五日の会津藩邸を訪れている。同月下旬、遠藤丈庵、清水五一らとともに、京都を |
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脱して江戸に戻り、浪士組の後身である新徴組に入隊して取締付から世話役となったが、 |
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九月頃に脱退し帰郷した。以後、討幕への意志を固め、慶応四年一月の鳥羽伏見の戦いに |
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幕府が敗北すると祝宴を張ったという。維新後は政治活動から離れ、明治二十三年十二月 |
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三日に八十八歳で他界した。 |
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■ 御 家 紋 ■ |
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