佐川官兵衛
さがわ かんべえ

会津藩士
 
天保2年9月5日、会津若松城下五軒町に住む三百石取り物頭、佐川幸右衛
 
門直道の嫡男に生まれる。幼名、勝、長じて直清。号は残月。物頭は足軽二
 
十人、小頭一人の長であり、いざ合戦というときには味方の先頭を疾駆する
 
べき役職である。身体が大きく、腕力に優れて俊敏、勇敢だったので人望を
 
集めたと言われる。会津藩では三百石以上の嫡子は、人の上に立つ者として
 
四書五経から春秋左氏伝、蒙求、十八史略までもの学問を修めねばならず、
 
武芸においても弓馬槍刀銃の諸芸のうち一芸以上は免許を得ねばならなかっ
 
た。官兵衛についての詳細は残されていないが、文武においてはこのような
 
修業を積んでいたと思われ、特に会津藩独特の一刀流溝口派の剣術に優れて
 
いたと思われる。父の隠居により家禄を継いだ官兵衛は、安政の頃、江戸詰
 
めの火消し頭をつとめていたが、その際些細なことの喧嘩で幕府火消し役の
 
内藤某を斬ってしまう。相手方が不祥事のために事を内々に済ましたため、
 
官兵衛は百石減禄の上、国許で謹慎でおさまった。この間、更に文武の修業
 
をつんだ。
 
文久2年、藩主松平容保が京都守護職に就任し、千名もの藩士を従えて上洛
 
したが、官兵衛は謹慎中であったため、慶応2年半ばに召されて上京した。
 
直ちに旧禄三百石に復され、物頭となり、京都日新館の学校奉行を兼ねた。
 
次いで、弓馬刀槍四芸のうち二芸以上に免許を得た精鋭で結成された別選組
 
の隊長、若い学生たちからなる諸生組の隊長を兼務した。
 
慶応4年正月、鳥羽伏見の戦いでは別選組を率い、依田源治、小櫃守左衛門
 
の二人の組頭に諸生組他を率い出陣し薩摩軍と応戦するが、刀槍を携えた官
 
兵衛らの軍備と薩摩の銃器類との優劣の差は著しく、組頭の依田は戦死し、
 
多くの死傷者を出した。官兵衛は伏見街道にあって、佐川隊で最後まで力戦
 
したが、右目を負傷する。大坂城に入ると、徳川慶喜に呼ばれ、歩兵頭並に
 
任命されるが時すでに遅く、敗北は決定的であった。そして慶喜の、大坂城
 
からの敵前逃亡により幕軍は瓦解し、官兵衛らが大坂から陸路和歌山へ抜け
 
海路江戸へ帰ったのは1月下旬、若松へ戻ったのは、3月12日であった。
 
4月19日官兵衛は、朱雀士中四番隊中隊頭として越後水原戦線に出陣する。
 
当時会津藩は、官軍との決戦にそなえて、軍政改革を行っており、全藩士を
 
白虎(16、7歳)、朱雀(18〜35歳)、青龍(36〜49歳)、玄武
 
(50歳以上)の四隊に再編制して、更にこの四隊を所属する隊士の身分によ
 
り、士中、寄合、足軽の三種に分けていた。官兵衛率いる朱雀四番士中隊が
 
このうちの最強を誇っていたことが語り継がれている。
 
はじめ武装中立を考えていた長岡藩家老河井継之助と談判し、長岡藩を奥羽
 
列藩同盟に加わらせ、河井や桑名藩山際十太夫と協議して長岡攻防戦に善戦
 
した。物資供給が不十分であったが、軍事奉行頭取となって三条口の東軍を
 
指揮した。その官兵衛のもとに藩主容保から急使があり、8月9日急遽会津
 
に戻り、後任には町野源之助がついた。鶴ヶ城に入った官兵衛は、四百石の
 
加増で若年寄に任じられ、次いで三百石を加えられて、千石高の家老に昇進
 
し、城外諸兵の総指揮をとって防戦した。8月29日、長命寺裏の戦いで
 
は、総督として城から出陣したが、この戦いでも会津には銃器が乏しい故に
 
戦況悪く、官兵衛は父直道を失う。戦死、負傷者も多く、やむなく退去する
 
が、官兵衛は再入城せず、生き残りの佐川隊を率い、一ノ堰村あるいは高田
 
田島に転戦し、城中への糧道を確保し、糧食を送ることにつとめるが、城内
 
ではすでに降伏開城の議が進められており、9月22日ついに降伏した。
 
官兵衛は南会津で善戦中で、降伏を承諾せず、藩主の特使を受けてやむなく
 
戦いをやめた。
 
官兵衛は、会津藩の戦争責任者として藩主親子に代わって自らの処断を懇請
 
したが、首謀者として処分に決まったのは、先任家老の萱野権兵衛であった。
 
越後高田で禁固されていたが、明治3年、斗南藩の立藩と共に許され、斗南
 
に移住していたが、明治6年頃には若松へ帰っていた。
 
明治7年、旧藩士たちの生計の道を開くため、招請のあった警視庁に三百名
 
旧藩士を率いて大警部として奉職した。明治10年2月、西南の役では豊後口
 
警視隊の一番小隊長兼副指揮長として九州に渡り、3月18日、熊本県阿蘇
 
郡の二重峠付近において薩軍と激戦に及び、官兵衛は銃弾をあびて壮烈な戦
 
死を遂げる。享年47歳。
 
戦死の地、熊本県黒川村に碑が建ち、大分県松栄山護国神社裏に墓があり、
 
また、若松秀長寺にも歌碑が建つ。
 
■ 御 家 紋 ■
 

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