西郷吉之助 
 さいごう きちのすけ 

薩摩藩士
 
  文政10年12月7日、薩摩藩・鹿児島下加治屋町に、御小姓与勘定方小頭・西郷吉兵衛隆盛、  

  妻・満佐の長男に生まれる。幼名を小吉、16〜17歳頃に吉之介、父の死後は吉兵衛、後に  

  吉之助を名乗る。諱は隆永。隆盛は維新後(父と同名)。雅号を南洲。他に菊池(祖先は肥  

  後の菊池氏)源吾、大島吉之助、大島三右衛門、武村の吉、西郷三助などの変名がある。  

  吉之助(小吉)以下四男三女の子に祖父母を加えた11人の同居、軒は破れ雨漏りがひどく、  

  一つ布団に兄弟が足を突っ込んで寝る暮らしであったというが、西郷自身は体格に恵まれ  

  相撲が強く、後年は身長178cm、体重108sの巨漢となった。同じ町内に大久保一蔵(利通)  

  がおり、郷中制度の教育を受け藩校造士館に通い、剣術は神陰流、体捨流を習ったという  

  が負傷して武芸を断念、読書に目覚め、陽明学を学び、下加治屋町の下級武士らは藩主後  

  継争い(世子斉彬派対庶子久光派)では斉彬を支持、朱子「近思録」を読む会を作って質実  

  剛健を旨とし、後に「精忠組」と呼ばれ、西郷・大久保を中心に伊地知正治、吉井友美、  

  有村俊斎、村田新八、篠原国幹らが維新に活躍する。同地からは大山巌、西郷従道、東郷  

  平八郎ら明治の軍人、政治家を輩出した。  

  西郷は18歳で郡方書役助(農村監督指導部門の見習)に出仕。気骨ある郡奉行・迫田太次右  

  衛門や後任の相良角兵衛を上司に農政の現場で励む。嘉永5年に伊集院スガと結婚、同年  

  中に祖父、父母が相次いで亡くなり、同6年に家督を継ぎ善兵衛と改名、持高41石余りで  

  家族12人の戸主となった。薩摩藩の長い世継問題の末、島津斉彬がようやく新藩主になり  

  求めた藩政意見書から西郷が見出され、安政元年29歳の春、斉彬の江戸出府に際して庭方  

  に登用された。身分は低いが藩主の私的秘書に近い抜擢である。3月から小石川水戸邸に  

  大思想家の藤田東湖を度々訪ね時事を語り「清水を浴びるように清浄な心になり帰るのを  

  忘れる」という程に傾倒、翌年の安政大地震での圧死に強く落胆した。  

  同元年6月頃からは各藩士らと交わり、越前福井の政治顧問・橋本左内とも将軍継嗣問題  

  を通じて同志となる。安政3年4月からは斉彬に一対一で御前に召され、英明な主君から  

  直接の薫陶を受けた。7月に斉彬の密書を水戸徳川斉昭に届け、家老安島帯刀や武田耕雲  

  斎に面談。斉彬養女篤姫(後の天障院)の13代将軍家定への輿入れに奔走、同年末に鹿児島  

  に戻る。斉彬は将軍継嗣問題では一橋慶喜擁立に運動し、国元でも様々な改革を実行した  

  が、幕府大老井伊直弼が紀州慶福(家茂)を14代将軍に決定、勅許なしの日米修好条約を締  

  結、やがて反対派の大弾圧に移る。その矢先に斉彬が鹿児島で急病死し、西郷は絶望の淵  

  に落ちる。安政の大獄で旧同志は次々と粛清に遭い、西郷を頼って薩摩に入った京都の勤  

  王僧・月照も藩から受け入れられず、二人で錦江湾に入水自殺を図る。西郷のみが助かり、  

  幕府の後難を恐れた藩により菊池源吾と改名、奄美大島に隠棲。自らを「土中の死骨」と  

  自戒し「皇国の為に暫く生をむさぼりおり候」と書いている。3年間の島暮らしでアンゴ  

  (島女房)の愛加那に菊次郎、菊子をもうけるが帰藩命令により文久元年暮れ35歳で帰国。  

  大島三右衛門と名乗る。鹿児島では朋友の大久保が新藩主実父の島津久光の重用を受ける  

  事に成功し、その建言で復帰を許されたのであったが、西郷は先君斉彬に比較して久光を  

  軽侮し互いに反発、文久2年徳之島へ流刑を受け愛加那母子との再会も束の間、更に沖永  

  良部島へ遠島処分。同地で囚人生活を送るが土地の者たちから次第に敬愛されて学問三昧  

  の日を過ごし天という言葉を重んじ、「万民の心が即ち天の心なれば、民心を一様に揃え  

  立つれば天意に随うと申すものに御座候」と書き、「敬天愛人」の思想を育んだ。  

  元治元年3月、時勢が急になり再び召還され上京。軍賦役兼諸藩士の応接掛に任命された  

  後の活動は凄まじく、同年の禁門の変に長州藩と戦い第一次長州征伐の大義を主張。総督  

  尾張徳川慶勝の信任を得て参謀となり長州入りし、三家老切腹その他の条件を提示し長州  

  恭順の名目を唱え両陣営を説得、不戦のまま終結した。西郷は幕臣勝海舟から倒幕の教唆  

  を受け驚くが、以後薩摩藩は幕末ギリギリの段階まで公武合体派の筆頭雄藩でありながら  

  西郷自ら、土佐坂本竜馬を仲介に長州桂小五郎を京都藩邸に招き、薩長同盟の密約を結び  

  倒幕路線へと転換、第二次長州征伐には参戦を拒み、結果として幕軍の敗退、将軍家茂、  

  孝明天皇の死、が続き幕府の権威失墜は露呈した。  

  慶応元年37歳の時には最後の妻イト21歳と結婚、寅太郎、午二郎、酉三という干支にちな  

  んだ名の三人の男子を設ける。鹿児島の家には坂本竜馬も訪れイトに「一番古いふんどし」  

  を貸して下さらんか、と言われその通りにしたところ、帰宅した西郷がそれを聞いて妻を  

  叱り、一番新しい褌に替えてやれ、と命じたという、家庭人として細やかな所もあった。  

  が、この時期の西郷は鉄の意志を以って奔走。京都では公卿岩倉具視と結び、大久保利通  

  とはかって、慶応3年末、遂に王政復古のクーデターに成功する。武力倒幕回避の為に先  

  手を打って大政奉還を奏上し次の新天皇国政にも当然参画するはずであった徳川慶喜と旧  

  幕府の大勢力を排除するのは容易ではなく、小御会議に於いては徳川の納地辞官に対して  

  土佐山内容堂、越前松平春嶽ら守旧派の難色にあうが、岩倉が別室に戻り相談すると西郷  

  は懐の短刀で相手と刺し違える覚悟を示唆したという。一方、首脳留守中の江戸に浪士達  

  を放ちゲリラ活動を起こさせ幕臣の怒りを煽り、遂に激昂した幕府側による薩摩江戸藩邸  

  焼き討ちが起こる。続いて「討薩表」奏上の為の幕軍武装上洛、鳥羽伏見で戦端が開かれ  

  た時の砲声は「百万の味方を得た」程に嬉しかったという。慶喜が大政奉還で道を譲った  

  「功臣」から「朝敵」へと墜落する瞬間であり、西郷・大久保の叩き上げの底力というべ  

  きであった。鳥羽伏見戦は辛勝、その後の西郷は東征軍大参謀として進軍、前交渉に出向  

  いた幕臣山岡鉄舟との会見では幕府側に厳しい処分を主張したが、「もし勝敗が逆で島津  

  公を敵に差し出せと言われたら貴方は従えるか」という山岡の説得に感銘し、慶喜の寛大  

  な処置を約束。勝海舟との会談で江戸無血開城を決した話は有名である。  

  戊辰戦争最大の戦功者として西郷の勇名は轟き、明治2年、新政府の要請に応じず日当山  

  温泉に湯治中、薩摩藩主島津忠義の来訪で藩参政に就任。王政復古と東征の功績で政府か  

  ら賞典禄2000石を受け、正三位に叙せられたが固辞。翌3年、藩参事に任命。年末に勅使  

  の岩倉と大久保が鹿児島を訪れて勅命を伝えられ、4年に上京して新政府の参議となる。  

  西郷は中央政府軍=親兵の必要を感じ、帰国して5000人の兵を連れ、山口・高知とあわせ  

  8000人の御親兵が創設される。最大の難関であった「廃藩置県」という大事業を抱えた新  

  政府には、旧敵地ですら人気を博した巨人・西郷隆盛の威望が不可欠であったが、藩の力  

  なくして成り立たなかった討幕を実現した後で大名や武士を廃止するのであるから、旧主  

  の島津久光は「憎むべきは西郷と大久保」とし、彼らが不忠であると罵ったという。廃藩  

  置県後、大久保・岩倉・木戸孝允(桂小五郎)ら政府首脳は米・欧への長期視察に立ち、  

  留守政府は西郷に任される。西郷は宮中改革を行い、先の山岡ら武骨な士族を天皇側近に  

  送りこみ、官制・軍制・警察の確立に努力。留守政府は土地永代売買禁止を解き、陸軍省・  

  海軍省、近衛兵・四鎮台を設置、学制頒布、鉄道開業、国立銀行条例等、矢継ぎ早の改革  

  を行う。明治6年、徴兵令の実施で西郷は元帥から唯一の陸軍「大将」となる。朝鮮問題  

  が閣議に上ると、西郷は外交問題解決の特使として自らが派遣される事を希望するが、大  

  久保・岩倉ら帰国組と「征韓論」を巡り衝突。遂に西郷が辞職・下野して鹿児島に戻る。  

  心酔した島津斉彬の薫陶を受け困難な倒幕を実現した後で、士族の困窮や、理想とは違う  

  新政府の堕落に思想家でもある西郷が失望し、先進国を見聞し現実に徹する政治家・大久  

  保との決別であった。国難に備えるとして作られた「私学校」は篠原国幹を主宰者とする  

  銃隊学校と村田新八を主宰者とする砲隊学校から成り、桐野利秋(中村半次郎)を幹事長格  

  とする士官養成校=私設軍隊であり、西郷を思慕する軍人・官吏・士族らによって次第に  

  巨大化、一大勢力をなし、その存在を危険視する政府の挑発にあい、遂に私学校を中心と  

  する人びとが反乱を決起。西郷は「この体はおまんさァたちに差し上げもんそ」と答えた。  

  明治10年、鹿児島に50年ぶりの大雪が降る2月15日、1万5千の将兵が熊本に進発。兵数  

  は2万を超えて膨れ上がり、国内戦最後の「西南の役」は熊本城、田原坂の攻防他、激戦  

  七ヶ月。西郷軍は次第に敗退するが、西郷が自ら戦闘指揮をする事はなく、陣地に戻る将  

  兵に「オヤットサァ(お疲れ様)でごわした」と声をかけて労い、自身も三田井、鬼神野、  

  米良等の山中を南下。9月24日、鹿児島の郷里・下加治町から程近い城山の台地に最後の  

  戦闘を迎えた。城山に立て篭もる西郷軍300余名を官軍6万名が取り囲む総攻撃に及び、  

  巨躯で持病を抱える西郷も、自ら一兵卒となって突撃するも大腿を銃弾が貫き地に倒れる。  

  西郷は傍らに付き従う別府晋介に「晋どん、もうここらでよか……。」と自刃を告げ、別  

  府は「ごめんなってたも」と言いざま師の首を刎ねる。巨星は天に帰り、後々も「西郷星」  

  という巷間の伝説を呼んだ。享年51歳。  

  明治23年の特赦で罪は解かれ正三位を追贈。墓所は鹿児島市浄光明寺。  

■ 御 家 紋 ■




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