斎藤一
さいとう はじめ
副長助勤、三番隊組長。
 
天保十五年、御家人山口裕助の次男に生れる。父は明石藩の足軽で後に御家人株を買った
 
と言われるが真意は定かではない。斎藤は、江戸で試衛館の面々と認識があり、誤って人
 
を殺めてしまい、京に逃れている時に、佐伯ら四十人程が、京で募集したときに試衛館の
 
面々を尋ね隊に入隊し、残留組に残った、二十四人の一人である。池田屋事件の際には、
 
土方と行動し十七両の褒賞金を得た活躍をしている。陰の行動では、谷三十郎、武田観柳
 
斎の暗殺も伝えられている。だが、時期的に武田の暗殺は高台寺に分離の後であり、新選
 
組からの指示で篠原とともに動くとは考えられない。
 
伊東甲子太郎が入隊後、土方の命により伊東らに近づき監視を行う。御陵衛士を拝命し分
 
離しても、同調して離脱したのはその為である。油小路の変が起こる前に帰参し、伊東ら
 
が、近藤暗殺計画をしているのを報告。慶応三年十一月十八日油小路の変の当日、紀州三
 
浦休太郎の護衛をしていた斎藤は、山口二郎と称して新選組に戻る。
 
鳥羽伏見の戦いに参戦するが、惨敗し江戸に戻る。近藤らと共に甲州鎮撫隊に参戦するが
 
勝沼で敗れ江戸に敗走。近藤勇の指示を受けて、野州を転戦後、会津城下に入る。
 
怪我の土方の代わりに隊長を務め、新選組の指揮を執る。土方歳三と確執が生じ、喧嘩別
 
れして会津に残ったとされるが、事実は異なる。この時期に土方が会津公から指示を受け、
 
桑名公と松本良順を落とし、援軍を要請するために米沢に向かったのである。だが米沢に
 
入れなかった為、奥羽列藩同盟主である仙台に向かったという事情があり、この時点では
 
山口ら新選組は、土方が仙台に向かったのは知らないのである。
 
高久の戦いに出陣した島田魁らの留守に奇襲された山口らの本隊は四散し、島田魁らは、
 
大鳥軍に従い行動。虎口を脱した山口ら数名は会津城下で参戦するも会津藩が降伏、山口
 
らもこれに従った。西軍に囚われて新選組に戻る事が出来ず、斗南に配流。一戸伝八と称
 
し戦後、藤田五郎と称した。警視局に勤務し西南の役にも出征する。警視局退職後は、女
 
子高等師範学校に勤め、大正四年九月二十八日
 
 
口数の少ない物静かな剣客は今、永眠につく。
 

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