橋本左内
はしもと さない

福井藩士
 
天保5年3月11日、越前福井城下常盤町に生まれる。
 
名は綱紀、雅号を景岳という。のち桃井伊織、亮太郎などの変名
 
を持つ。父は福井藩の奥外科医、橋本長綱、母は梅尾。
 
はじめ吉田東篁に学んだが、秀才の誉れ高く、嘉永元年15歳の
 
とき、稚心を去る(親や他人に対する依頼心を捨てる)、気を振る
 
う(士気を奮い立てる)、志を立てる、勉学、交友を択ぶ(良い友
 
には学び、悪い友には教え、友を大切にする)の五つの骨子から
 
なる「啓発録」を著し、その早熟に周りは驚いたといわれる。
 
翌2年、大坂に出て緒方洪庵に入門、蘭学を学ぶ。
 
洪庵は左内を「地中の蚊龍」と呼んだという。大坂では梅田雲浜、
 
横井小楠と交友を重ねる。
 
嘉永5年、十九歳で家督を継ぎ、藩医となる。その後江戸で学んで
 
藤田東湖、西郷隆盛らと交友、中根雪江らの推挙により、松平慶永
 
に認められ、藩校明道館学監となり蘭学を教え、また洋書習学所を
 
設立し、西欧文明を取り入れることに尽力した。
 
将軍継承問題では、藩主を補佐して一橋慶喜の擁立に努め、また、
 
藩政の改革を断行し、全国統一国家を目指そうと考えていた。
 
安政6年10月7日、安政の大獄で江戸で捕らえられ、「公儀をはば
 
からざるいたし方、右始末不届きに付」という理由で即日斬罪に
 
処せられた。取調べにあたり左内は、終始「御根本御手厚」つまり、
 
幕府権力の再確立のために自分は働いたと主張したが、認められ
 
なかった。
 
享年26歳。
 
墓所は、福井市善慶寺、また、東京都墨田区回向院。
 
 
 

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