三条実美
さんじょう さねとみ

公家
 
天保8年2月7日、三条実万の第四子として京都梨木町に生まれる。母は、
 
土佐藩主山内豊策の娘、紀子。幼名、福麿といった。三条家は、藤原北家の
 
分家で家業は笛であり、摂関家に次ぐ清華家の一つという名門であった。家
 
領四百六十九石のほか、議奏の役料三百石も得ていた。幼少時より三条家に
 
は桂小五郎、武市半平太、平野国臣ら勤王派の出入りが多く、尊攘派公卿と
 
しての素地が養われた。安政六年、父実万が安政の大獄に連座して隠居、出
 
家し、その年10月になくなった。
 
文久2年、長州藩尊攘派が京の政局を握ると、実美は尊攘派公卿の中心に立
 
った。そして、10月には、幕府への攘夷督促の勅使として姉小路公知ととも
 
に江戸へ向かう。帰京後、国事御用掛になると、尊攘派の志士が、実美の元
 
へ殺到した。
 
文久3年、長州と結んだ実美らの主張が通り、5月10日には攘夷が決行され、
 
京都守衛御用掛であった実美はその総帥となったが、朝廷内部の中川宮らと、
 
会津、薩摩が同盟を結び、朝議は急転、すなわち、八.一八の政変で局面は
 
一変した。実美は、三条西季知、沢宣嘉、東久世通禧、四条高隆謌、錦小路
 
頼徳、壬生基修ら公卿とともに長州に落ちた。七卿落ちである。長州では、
 
三田尻(防府)招賢閣で、中岡慎太郎らの日本浪人軍に守られた。のち太宰府
 
に送られたが、王政復古後許されて帰京。同時に、議定に任じられる。
 
新政府では、関東監察使、副総裁、外国事務取調掛、右大臣などの要職につ
 
き、太政大臣となり、明治4年11月、岩倉使節団を送り出す。
 
明治6年10月18日、征韓論をめぐる閣議の意見対立処置の最中昏倒、実
 
美は、辞表を出し、右大臣岩倉具視に上奏を依頼したため、勅命により岩倉
 
が代理となり、参議西郷隆盛の征韓論は敗れ、西郷らは下野した。
 
明治18年、内閣制度実施により内大臣に転じ、明治22年、黒田内閣退
 
陣の際は、一時首相を兼任した。
 
明治24年2月18日、病没。享年55才。
 
 
 

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