芹沢 鴨
せりざわ かも

新選組局長首座
 
文政十年(1827)常州芹沢城城主の後裔芹沢貞幹の三男として生まれる。名は光幹と
 
いうが、幼名を龍寿といった。木村継次や下村継次の別称も伝えられているが、近藤勇の
 
書簡では、水府脱藩士下村嗣司改芹沢鴨と記載されている。
 
安政六年、勅書返納事件の際には、長岡で阻止運動を起こした、天狗党の一員であった。
 
その中で牢獄に投ぜられ、後に斬殺になった一人に下村継次がいる。恐らく下村とは芹沢
 
鴨の騙りではないだろうか。
 
文久三年、浪士上洛の際に浪士組の三番小頭となって土方歳三や沖田総司ら、天然理心流
 
の面々を引率したのである。江戸出立の三日目の本庄泊りとなるのだが、先番宿割りの任
 
についていた近藤勇が、芹沢らの宿割りを落としてしまい、芹沢が激怒。道路いっぱいに
 
焚火をする事件を引き起こす。芹沢は、この事件で小頭を罷免されるが、持ち前の押しで
 
取締並出役手附となってしまう。入洛直後の清河八郎の帰府に同調せずに、近藤勇の天然
 
理心流一門とともに、芹沢鴨は水戸一派を率いて京残留を決める。水府藩公用方の、兄の
 
取り成しで会津藩と接触し、新選組の母体となる壬生浪士隊を結成し、筆頭局長となる。
 
八月十八日の政変の際は、御所に出動したが、会津藩兵に行軍を止められて、先鋒の近藤
 
が戸惑っているのを見るや、突きつけられた槍を鉄扇で叩き落とし「会津中将御預り壬生
 
浪士隊である。公用方の命により御花畑までまかりとおる」と一閃し浪士隊の評価を高め
 
た。だが、酒乱の芹沢は、島原角屋で狼藉におよび、主人に七日間の営業停止を命じたり
 
大阪鴻池に談じ込み二百両を強要し借財した。六月には大阪力士との乱闘を起こしており、
 
挙げ句は、大和屋に借財を断られて激怒し大和屋を打ち壊したり、粗暴な振る舞いに業を
 
煮やした松平肥後守容保の命により、近藤、土方らの手により、文久三年九月十六日八木
 
邸で寝込みを襲われて、平山五郎とともに暗殺される。葬儀は十八日である。
 
 
雪霜に 色よく花の魁けて
散りても後に匂ふ梅が香
 
 

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