慶応二年(1866年2月15日〜1867年2月4日)
1月 24日 近藤、松平容保より再度の広島出張を下命される。

27日 近藤・伊東・篠原・尾形、広島へ出立。
2月 3日 近藤一行、広島到着。

5日 大石鍬次郎、松原通り東洞院にて芸藩士某を斬殺。

同日 大石の実弟大石造酒蔵、祇園にて今井祐三郎に斬殺されるというが、後日の土方の書簡には病死とある。

11日 伊東・篠原、老中小笠原長行および諸藩士と面会して勤王を説く。

12日 河合耆三郎、隊費の会計不算の責によって切腹する。

18日 小川信太郎、死亡。

同月中 新選組隊士、奈良に出張する。
3月 7日 伊東・篠原、諸藩士と面談する。

12日 近藤ら、別行動を取る伊東・篠原を残し、京都に到着する。

15日 佐藤安次郎、広島に入る。

18日 伊東・篠原、広島を出立する。

27日 伊東・篠原、帰京。

30日 夜、浪士捕縛に向かうが逃走される。
4月 1日 谷三十郎、死亡。

2日 朝彦親王、二月の奈良出張に対し哂30枚を下す。

3日 五条浄教寺に不穏隊士1名が潜伏する。

4日 五条浄教寺の隊士の元へ、和尚斬殺を唱えて同志が乱入し、翌日になって引き払う。

18日 伊勢方面に出張の隊士、商人より借金をする。
5月 12日 鈴木直人、魚棚烏丸西にて山井三位家来森某を斬殺し、自らも軽傷を負う。

同月中 隊士数、133名を数える。
6月 10日頃 柴田彦三郎、一橋家家臣原口某と金策し脱走。

15日頃 広島残留の山崎烝・吉村貫一郎、芸州口戦況の報告書を同志に託す。
同日 夜、柴田の脱走に伴い、内海次郎・松本喜次郎・三井丑之助・近藤芳助、追跡の為 出石へ向かう。

17日頃 一条家家来入江某・高松家家来某を捕縛。

19日 朝、出石藩役人が柴田を捕らえ、内海らに引き渡す。

23日 内海らに護送された柴田に切腹が命じられる。
7月 16日 幕臣志賀又四郎、新選組を市中警備から除外することを建言する。

20日 将軍家茂、大坂城に没す

25日 幕府より新選組・見廻組等に警備地域割付けの達しが下る。
8月 28日 夜、中井庄五郎ら三条制札場に掲げられた制札を川に投げ捨てる。
9月 2日 三条制札場に再び制札が立てられる。

3日 山崎・吉村の広島での活動が伝えられる。

5日 夜、再び制札が捨てられる。

7日 岩倉具視、新選組脱走隊士の高橋芳之助を召抱える。

10日 再び制札が立てられ、新選組に警備が命じられる。

12日 夜、土佐藩士8名が制札に手をかけ、見張りの新選組が出動。藤崎吉五郎を斬殺し、宮川助五郎を捕縛。 この時に、斥候役だった浅野藤太郎が臆した為、後に隊を追放される。

13日 早朝、出動の隊士ら帰隊。
同日 負傷した土佐の安藤謙次、藩邸で自刃する。

19日 土佐藩、祇園に近藤・土方・伊東・吉村貫一郎を招き、制札事件を落着させる。

26日 夜、伊東・篠原、近藤・土方と醒ヶ井妾宅にて時局論を戦わせる。

27日 篠原、近藤・土方と妾宅で激論するとされるが、両日の論戦は他日の可能性もある。
10月 7日 市橋鎌吉、死亡。

同月中 新選組、島田の名で富永村の元右衛門より五百両を借用する。

上旬 土方ら隊士数名、元見廻組の大沢源次郎を捕らえる。
12月 5日 一橋慶喜、十五代将軍に正式就任。

15日 中川宮、中村左馬を使いに立て、新選組へ銀二十枚を下す。

20日 三条制札事件の恩賞金が隊士27名に下される。

27日 孝明天皇没
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