島津斉彬
しまづ なりあきら

薩摩藩主
 
文化6年9月28日、薩摩藩主島津斉興の長子として江戸、芝の薩摩藩邸に生まれる。母は
 
鳥取藩主池田治道の姫で正室の周子。幼名を邦丸、文政4年3月に元服し又三郎忠方。文
 
政7年11月に斉彬と改め、天保3年5月豊後守、14年修理大夫となる。号を惟敬、麟洲。
 
曽祖父の重豪は開明的藩主として中国、オランダの文物に目を向け、「成形図説」編纂や
 
藩黌造士館の創建につとめ、オランダ医シーボルトが江戸を訪れた時は82歳の高齢ながら
 
自ら18歳の斉彬を伴って出迎えに行った事がある。25歳で曽祖父の死を迎えるまで、斉彬
 
もその向学心に大きな影響を受け、宇田川榕庵、緒方洪庵、渡辺崋山、高野長英、箕作阮
 
甫、戸塚静海、石川確太郎、松木弘庵、その他当代一流の蘭学者やオランダ通詞、幕府天
 
文方とも交流し、洋書の翻訳、科学の実験を行い、彼自身もオランダ語を学んだ。まだ世
 
子(藩主の後継ぎ)の身分でありながら、老中阿部正弘や水戸の徳川斉昭、越前の松平慶
 
永(春嶽)、尾張の徳川慶勝、土佐の山内豊信(容堂)、宇和島の伊達宗城などの開明派
 
諸大名とも親交を結んで海外情報の交換を計る等、早くから見識や人格を賞賛され、大藩
 
薩摩の当主となる事を嘱望されていた。世子時代から江戸幕府の内意を受けて藩地に下り、
 
琉球の英仏米軍艦来航問題の処理にあたり、(後年、安政元年6月に米国、同2年10月仏
 
国と通商条約を締結)外交的手腕を発揮した。しかし、先々代重豪の「蘭癖(=外国かぶ
 
れ)」の為に500万両に及ぶ藩債を生んだ父斉興や家老調所広郷らは、斉彬の代になれば
 
同じ浪費をもたらすのではと懸念し、斉興の側室お由羅の一派が、斉彬には異腹の弟であ
 
るお由羅の子久光の襲封を謀る。これに激怒した斉彬擁立派の高崎五郎右衛門温恭らが、
 
お由羅と久光らの暗殺を企てた事が露見し、一味の者は前代未聞の鋸引、磔刑、切腹、遠
 
島、慎などの断罪が下され、これを高崎崩れ・お由羅騒動と呼ぶが、家老調所が自殺する
 
等、薩摩藩主継嗣問題は様々に紛糾したのである。斉彬も自ら藩主襲名に不退転の決意を
 
見せ、老中阿部や伊達宗城、大叔父にあたる黒田斉溥ら、斉彬に好意を持つ諸侯の周旋に
 
より斉興は隠居となり、嘉永4年2月、43歳にして漸く斉彬の襲封が実現した。斉彬はこ
 
の時反対派の人々も罪せずに用いて藩力の分裂を避けた。
 
薩摩藩は表高77万石、日本最南端の僻地藩とはいっても、支配下の琉球を手始めに清国と
 
の密貿易、奄美大島他の砂糖キビを独占して大坂で売買し、貨幣鋳造権を利用して琉球通
 
宝や天保銭を盛んに鋳造する等、莫大な利益を蓄積してきたといわれる。その経済性の上
 
に新藩主となった斉彬は、満を持して藩の近代化政策に乗り出した。
 
佐賀藩から「ギートウェーセル」の翻訳書をもらい受け、製錬所で実験に取りかかり、数
 
々の失敗の末嘉永6年には大規模な反射炉を落成。花園精錬所(理化学研究所)や集成館
 
という工場群を築き、そこでは、鉄や銅の精錬から大砲、ガラス、陶磁器、アルコール、
 
火薬の製造から電信、電気、ガスの実験までが行われ、最盛時には1200もの職工がいた。
 
初歩的な工場ではあっても、薩摩切子と呼ばれるガラス器の技術は世界屈指の技術の高さ
 
を誇り、これが後に板ガラスの製造技術に繋がった。
 
斉彬は琉球問題で学んだ海上からの外圧に備え、造船事業にも力を入れ、安政2年には藩
 
の技術で製造した蒸気機関を積載した国産初の蒸気船「雲行丸」の試運転に成功、幕府に
 
永年の国禁であった大船建造を解禁させ、初の国産蒸気軍艦「昇平丸」製造にも着手した。
 
政治的には、斉彬が既に過去の交流による情報から予見していたペリー来航の後、日本で
 
は攘夷、開国を巡っての外交問題が急務となり、同時に13代将軍家定の後継者問題が起き
 
る。水戸斉昭の7男で英明を謳われた一橋慶喜擁立派対、大老井伊直弼が推す紀州藩主の
 
徳川慶福擁立派の両派閥の対立である。斉彬は他の雄藩大名らと共に一橋派に与し、将軍
 
家定の正室となっている養女篤姫(後に天璋院)を通じて大奥工作を図り、18歳の少年の
 
頃から登用し薫陶してきた腹心の西郷吉之助(隆盛)を松平慶永の謀臣橋本左内と連携で
 
朝廷工作に奔走させた。斉彬自身は安政4年5月以降、藩地の鹿児島にいて江戸、京都の
 
政局からは遠かったが、事態は暗転し、大老井伊は勅許を得ず日米修好通商条約を締結、
 
将軍後嗣に慶福を決定(14代家茂)、反対派の一橋派を大獄の大弾圧に処する。斉彬は憤
 
り、自ら兵を率いて上京し「公武一和」を計ろうと考えるが、これが実現すれば薩摩にと
 
っても日本にとっても容易ならざる事態となる。安政5年7月8日、斉彬は鹿児島の城南
 
にある天保山調練場で城下諸隊の大演習を指揮していたが、その翌日から俄に病を発し、
 
発熱性下痢が激しく、16日に死去。当時流行のコレラかと言われていたが、後年、症状よ
 
り赤痢との診断がある。藩の保守派が率兵上京策を阻止する為の毒殺説も挙げられている。
 
享年50歳。法名、順聖院殿英徳良雄大居士。
 
同志であった松平慶永から「英明は近世第一、水戸の烈公、土佐の山内容堂、佐賀の鍋島
 
閑叟などは遥かに及ばない。実に英雄と称すべき」と言われた斉彬の急死は井伊の一時的
 
な保守勢力回復に繋がったが、その遺志は「順聖院様御深意」として、弟の島津久光ら藩
 
首脳部や、西郷隆盛ら藩士に色濃く反映され、やがて薩摩が倒幕維新に転換していく行動
 
原理となった。
 
■ 御 家 紋 ■
 

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