幕末諸藩の戦歴 七

■居所、領地高■藩主■藩内状況、動向■主な戦歴■総出兵人数■死傷者数(士卒)■士卒属数
富 山 藩
とやまはん
■越中富山十万石、外様。
■前田利同(一八五六〜一九二一)則松。前田斉泰(加賀金沢藩)の九男。安政六年に四歳で襲封。のち淡路守、子爵。
■藩主幼少であったため加賀金沢藩が後見を務めていた。宗藩と同様に恭順した。
■慶応四年二月まで江戸寛永寺警衛を務めた。閏四月、北陸道軍に属し出兵した。高田から鯨波に進んだが敗退し、二十八日に柏崎に入った。五月六日、椎谷藩救援のため椎谷へ進駐。長岡軍を薬師峠、市坪、石地などに破り十五日、出雲崎に入った。六月に入ると雷塚、方丈山、福島、浦野と北進しながら同盟軍と転戦した。また分遣隊は与板の攻防戦に加わっている。八月末には鼠ヶ関、高畑、関川を経て庄内めざして北進し九月下旬には入小屋台場、又白沢、大芦などを転戦した。
■千四百二十四名。
■戦死十六名、戦傷五十一名。
■士族千二百五十九戸、卒族二千二百六十二戸。
豊 岡 藩
とよおかはん
■但馬豊岡一万五千石、外様。
■京極高厚(一八二九〜一九〇五)飛騨守。弘化四年襲封。維新後、子爵。
■藩論は勤皇派が優勢であった。二月に入京して恭順した。
■慶応四年正月、桂御所警衛。山陰道鎮撫使に属して生野に出兵。
■総出兵人数、不明。
■死傷者なし。
■士族八十三戸、卒族六十二戸。
苗 木 藩
なえぎはん
■美濃苗木一万石余、外様。
■遠山友禄(一八一九〜九四)美濃守。天保六年襲封。維新後、子爵。
■二月二十一日、藩主が帰藩し恭順した。
■東海道軍人馬兵食賄方。五月林軍進撃の報に甲府に出兵。六月まで。
■五十名。
■死傷者なし。
■士族百十二戸、卒族七十六戸。
長 岡 藩
ながおかはん
■越後長岡藩七万四千石、譜代。
■牧野忠訓(一八四四〜七五)駿河守。本庄宗秀(丹後宮津藩)の二男。慶応三年襲封。前藩主忠恭は藩政改革に力を尽すかたわら京都所司代、老中を歴任した。忠訓襲封後も藩政の実権を握っていた。
■慶応元年に軍制改革を行い、仏式銃隊八大隊を編成した。大政奉還後、忠訓は上京し「公武調和の建言」を議定所に提出した。同四年三月帰藩。藩論は恭順、抗戦二派に分れ容易に決しなかった。四月になって「独立特行」つまり中立を維持する方針が固められ、家老河井継之助を軍事総督とする軍事体制が固められた。五月二日、河井は小千谷の新政府軍本営を訪ね、軍監岩村精一郎と会見した。この席で長岡藩の藩是説明し、藩主の嘆願書を提出したが相手にされなかった。ここにおいて、ついに開戦を決意し奥羽越列藩同盟に加盟、北越戦争が始まった。
■@信濃川を挟んで防衛線をしき新政府軍と対峙した。A五月十日、榎木峠、朝日山で開戦、地の利で勝る同盟軍が勝利。B十六日、海道沿いに出雲崎に進んだ。新政府軍は信濃川河畔から長岡を臨む地点に到達した。長岡軍の主力は榎木峠攻防戦に出ていたため、この方面は老兵ばかりであったという。C十九日早朝、新政府軍による奇襲渡河作戦が成功し、長岡城は陥落、藩主親子は会津に脱出した。Dその後は加茂に本営を置き一進一退を繰り返した。E七月二十五日、奇襲により長岡城を奪還したが二十九日に奪い返された。このとき軍事総督河井継之助は重傷を負い長岡藩の戦意は一気に喪われたという。以後長岡軍は会津に敗退した。藩主忠訓は会津から仙台に移ったが、九月二十三日に降伏した。戦後処分で永蟄居、領地没収となったが、その後、養子忠穀に家名相続が赦され、二万四千石が長岡で与えられた。のち子爵。
■総出兵人数、不明。
■戦死二百九十八名、失踪、殺害十四名、戦傷二百八十七名。
■士族六百七戸、卒族千百二十二戸。
長 島 藩
ながしまはん
■伊勢長島二万石、譜代。
■増山正修(一八一九〜六九)対馬守。酒井忠器(出羽庄内藩)の二男。天保十三年襲封。慶応二年に若年寄を務めた。維新後、子爵。
■藩論は佐幕派優勢であったが大勢に従い恭順した。
■慶応四年正月、東海道軍人馬兵食賄方担当。
■総出兵人数、なし。
■死傷者なし。
■士族百四十七戸、卒族百二十三戸、軽卒三十八戸。
中 津 藩
なかつはん
■豊前中津十万石、譜代。
■奥平昌服(一八三〇〜一九〇一)大膳大夫。天保十三年襲封。維新後、伯爵。
■慶応四年二月、恭順した。
■@慶応四年三月、三島警衛。四月に甲府へ移動した。閏四月、八王子屯集の賊徒甲府進撃につき甲斐白野、勝治へ出兵、のち石和に進駐した。A五月、箱根関門警衛。B五月、甲府、原村警衛。C六月九日江戸へ。D七月下野今市に移動し警衛に当る。八月、今市から日光口へ移動し、警衛に当った。
■百三十六名。
■戦死一名、戦傷四名。
■士卒雑人計千五百二十三戸。
長瀞(大網・竜ケ崎)藩
ながとろ(おおあみ・りゅうがさき)はん
■出羽長瀞一万一千石、譜代。
■米津政敏(一八五一〜九五)伊勢守。慶応元年襲封。維新後、子爵。
■前藩主政明は農兵隊を組織するなど軍備の充実に努め、自ら長瀞に移り住んでいる。慶応四年閏四月四日、庄内軍の攻撃により長瀞は陥落した。奥羽越列藩同盟には不参加。
■奥羽鎮撫軍より庄内追討の人馬兵食賄方を命じられる。九月、領分上総長南へ出張した。
■十四名。
■死傷者なし。
■士族六十一戸、卒族二十六戸。
中 村 藩
なかむらはん
■磐城中村六万石、譜代。
■相馬誠胤(一八五二〜九二)因幡守。慶応元年に十四歳で襲封。維新後、子爵。
■慶応四年四月、奥羽鎮撫府より会津征討を命ぜられ受諾した。その後、五月に奥羽越列藩同盟が結ばれるとこれに加盟した。藩主が幼少の上襲封直後のため藩政は保守派の門閥層に委ねられていた。このため、明確な藩論を形成することはなく大勢に順応するほかなかった。軍制も山鹿流による古式軍制で近代化の取組みは遅れていた。この点は仙台藩と同一である。新政府軍とは装備で劣るため平潟口軍上陸後は一方的に押しまくられ、八月六日に降伏、謝罪した。このとき軍資金一万両を献納し、藩の相続を図っている。以後中村には仙台藩攻略の本営が置かれた。
■@慶応四年四月十五日、奥羽鎮撫軍に属し、五小隊二百八十二名を二本松に派遣。玉乃井村に進軍。A二十三日、一部を高玉村へ分遣し中山口を応援した。まもなく解兵。B閏四月二十五日、同盟軍に属し出兵。一手を白河口に、一手を平潟〜小名浜間の海岸防御に派遣。C五月二十六日から六月十二日にかけての白河城攻防戦に参加したが敗退。D二十四日、新政府軍の棚倉城攻撃に郷戸で迎撃したが、須賀川に撤退。E六月十六日、平潟に新政府軍上陸。海岸線を防御していたが戦わずに撤退。F二十八、九日、上遠野、泉、湯長谷と北進する新政府軍と転戦した。。G七月七日、磐城平救援のため五小隊、戦士二十名を派遣、十三日、平城落城。さらに北進する新政府軍を広野、浪江で迎撃したが敗退。H八月二日、原町火薬庫爆発。I七日、新政府平潟口軍に属して出兵。大坪、椎木、駒ヶ嶺と転戦し仙台をめざした。
■千五百名余。
■同盟軍側の戦死八十四名、戦傷二名。事故死八名、負傷二名。新政府軍側の戦死三十七名、戦傷十三名。
■士族千九百三十七戸、卒族五百五十四戸。
名古屋藩
なごやはん
■尾張名古屋六十一万九千石余、親藩。
■徳川徳成(一八五八〜七五)元千代。文久三年襲封。維新後、侯爵。
■実父慶勝は一橋派の大名として活動し、安政の大獄に永蟄居の処罰を受けた。文久三年に復権。公武合体を主張し、朝幕の周旋に尽力。大政奉還後、議定として山内容堂らと公議政体論を進めるが倒幕派に押し切られた。鳥羽伏見戦後、藩内佐幕派を処分し藩論を倒幕にまとめた。
■@慶応四年正月、鳥羽戦に御所諸門警衛。戦後、二条城接収。A正月、福島関門管理、信濃地方管掌。B正月 伊勢桑名藩城地管理。C二月、東海道軍に属して江戸へ。江戸城諸門の警衛や市中の巡邏欣候、賊徒捕縛に当る。D三月から四月まで相模鎌倉警衛。E四月、衝鋒隊の信濃飯山進出に出張。閏四月撤兵。F閏四月越後新井へ出兵。芋坂、雪峠で会津軍と交戦。五月に小千谷に駐屯。榎木峠で同盟軍と交戦。十九日、長岡城攻略。六月から七月にかけ今町、栃尾を転戦。G五月、江戸上野戦争にあたり団子坂に出張。H五月、林軍進撃の報に甲府に出張。六月まで。I七月、白河口軍に属し、芦野、須賀川を警衛。J八月、三春から平潟口軍に分遣。駒ヶ嶺、旗巻峠で仙台軍と交戦。K九月、一部を会津口に分遣し、後峯攻略。L八月、練馬屯集の賊徒鎮撫に出張。M八月、下総船橋屯集の賊徒鎮撫に出張。
■四千二百六十九名。
■戦死十七名、戦傷二十九名。
■士族二千五百二十戸、卒族六千百三十戸。
七日市藩
なのかいちはん
■上野七日市一万石、外様。
■前田利豁(一八二三〜七七)丹後守。前田利幹(越中富山藩)の八男。天保十一年襲封。維新後、子爵。
■加賀金沢藩の支藩。慶応二年の後家騒動の影響を脱しきれなかった。
■閏四月、沼田応援の為出兵。三国峠で会津軍と交戦、越後六日町へ追走した。沼田帰還後、岩鼻を警衛した。五月、沼田から戸倉口へ出張。八月にも再出張した。
■百十名。
■死傷者なし。
■士卒族数、不明。
成 羽 藩
なりわはん
■備中成羽一万二千石余、交替寄合。
■山崎治正(一八二一〜七六)主税助。旗本平野長興の二男。天保六年襲封。維新後、男爵。
■慶応四年六月、高直り立藩した。
■戦歴なし。
■総出兵者人数なし。
■死傷者なし。
■士族八十一戸、卒族六十九戸。
新 見 藩
にいみはん
■備中新見一万八千石、外様。
■関長克(一八四〇〜七七)伊勢守。一門関長吉の長男。安政五年襲封。維新後、子爵。
■慶応四年二月上京し恭順した。
■慶応四年正月、備中松山へ出張した。
■二百三十一名
■死傷者なし。
■士族百二十四戸、卒族二百十七戸。
新 谷 藩
にいやはん
■伊予新谷一万石、外様。
■加藤泰令(一八三八〜一九〇三)出雲守。文久二年襲封。維新後、子爵。
■伊予大洲藩の支藩。文久二年に農兵隊を編成し軍備の充実を図った。慶応四年正月に上京し恭順した。
■@慶応四年正月〜二月、鳥羽戦に御所諸門警衛担当。A正月、伊予松山に出張した。
■七十一名。
■死傷者なし。
■士族七十三戸、卒族百二十八戸。
西 尾 藩
にしおはん
■三河西尾六万石、譜代。
■松平(小給)乗秩(一八三九〜七三)和泉守。文久二年襲封。維新後、子爵。
■藩論は二分し結論は出ず、二月末に乗秩が江戸より帰り恭順した。
■慶応四年二月、東海道軍に従軍した。二月、京御所警衛を担当。
■総出兵数、不明。
■死傷者なし。
■士族三百十七戸、卒族六百四十三戸。
西大平藩
にしおおひらはん
■三河西大平一万石、譜代。
■大岡忠敬(一八二八〜八七)越前守。安政四年襲封。維新後、子爵。
■慶応四年二月、江戸より帰藩して恭順した。
■慶応四年二月、東海道軍人馬兵食賄方担当。四月、領内の豊川村に出張した。
■四十名。
■死傷者なし。
■士族六十一戸、卒族十戸。
西 端 藩
にしばたはん
■三河西端一万石余、譜代。
■本多忠鵬(一八五七〜九六)修理。慶応三年襲封。のち美作守。維新後、子爵。
■定府大名。元治元年に加増と高直しにより立藩した。
■会津藩征討のため出兵の内示を得たが実現しなかった。
■総出兵人数なし。
■死傷者なし。
■士族八十三戸、卒族五十戸。
西大路(仁正寺)藩
にしようじはん
■近江仁正寺一万七千石、外様。
■市橋長義(一八二一〜八二)下総守。酒井忠器(出羽庄内藩)の子。弘化元年襲封。維新後、子爵。
■京に近く、大政奉還後、たびたび入京し各所の警衛を担当した。
■慶応四年正月、三上藩領管理。二月東山道軍人馬兵食賄方。二月、東山道軍に属し出兵。六月、白河口軍兵食賄方を務めた。
■百四名。
■戦死二名、戦傷一名。
■士族八十五戸、卒族百二十五戸。
二本松藩
にほんまつはん
■陸奥二本松十万石余、外様。
■丹羽長国(一八三四〜一九〇四)左京大夫。安政五年襲封。のち子爵。
■藩論は二分し明確さを欠いた。このため四月、奥羽鎮撫府から会津征討の命が下ると受諾し、また五月に奥羽越列藩同盟が結ばれると大勢に順応して加盟するほかなかった。和銃ばかりで装備の劣る二本松軍は開戦とともに敗退し続け、七月二十九日に降伏した。戦後処分で長国の隠居謹慎と五万石減封になった。
■@慶応四年四月十七日、奥羽鎮撫軍に属し土湯口、嶽湯口に出兵。十九日会津軍と戦闘、敗退して、嶽湯村を守備した。A閏四月、白河入城、まもなく解兵。B閏四月二十五日、同盟軍に属し白河口へ出兵。六月にかけて白河城攻防戦、羅漢山、大村、川原田村と転戦した。C六月、平潟に新政府軍上陸。海岸線を防御していたが戦わずに撤退。七月二十五日、三春藩降伏。小野町、谷田川方面守備隊は壊乱した。D二十七日、新政府軍は、二本松軍の虚をつき三春から二手に分れて本営を一気に占拠した。E二十九日、二本松城下攻防戦に敗退し降伏。家老丹羽一学が引責自刃した。F一部の藩士は逃れて会津石筵で戦った。
■総出兵人数、不明。
■戦死(士百五十二名、卒四十一名、陪臣十五名、農兵、夫卒九十名、少年隊十五名、遊撃隊六名)、戦傷士四名、刑死一名、自刃六名。
■士族四百八十九戸、卒族五百五十六戸。
庭 瀬 藩
にわせはん
■備中庭瀬二万石、譜代。
■板倉勝弘(一八三七〜一九〇九)摂津守。板倉勝俊(陸奥福島藩)の三男。安政五年襲封。維新後、子爵。
■藩論は佐幕派優勢であったが、大勢に応じて恭順した。
■@慶応四年正月、美作福渡へ出張した。二月帰郷。A五月、脱藩士が純忠隊に加わり上野戦争に参加した。
■七十八名、ほか脱走者十八名。
■死傷者なし、脱走者は不明。
■士族百六十二戸、卒族百六十八戸。
沼 田 藩
ぬまたはん
■上野沼田三万五千石、譜代。
■土岐頼知(一八四八〜一九一一)隼人正。慶応三年襲封。のち子爵。
■藩論は佐幕派優勢であったが四月に頼知が入京して恭順した。戸倉口で会津若松藩領に接するため、上野諸藩兵が駐屯し警衛に当っている。
■閏四月、東山道軍分遣隊が沼田に進駐した。四月、戸倉関門に出兵、五月下旬、向戸倉沢十二之森において砲戦した。
■百四十八名。
■戦傷一名。
■士族二百八十戸、卒族二百二十九戸。
沼津(菊間)藩
ぬまづ(きくま)はん
■駿河沼津五万石、譜代。
■水野忠敬(一八五一〜一九〇七)出羽守。旗本水野忠明の二男。旗本水野家相続の後、慶応二年に養子相続した。維新後、子爵。
■慶応四年二月、新政府に恭順。駿府城立藩のため上総菊間に移封となった。
■@慶応四年二月、旧幕府の命で駿府城を守衛した。三月、東海道軍人馬兵食賄方を担当した。A二月、甲府城代に任命。三月、藩主自ら警衛に当った。B沼津周辺の警衛を担当。四月、衝鋒隊の信濃飯山進出に援兵として出張した。C閏四月十五日、八王子屯集の賊徒甲府進撃につき白野、勝治へ出兵。二十二日、石和駅に進駐。五月、林軍箱根へ出兵し警衛強化。二十一日、沼津藩内通の風評に甲府城代罷免。木瀬川の警衛強化。二十八日鎮撫のため箱根に進軍した。六月二十日、三島関門警衛。七月まで。越後分領五泉陣屋詰の兵で一隊を編成し、越後口軍に属して会津若松城の攻防戦に参加した。
■四百十四名。
■死傷者なし。
■士族百三十一戸、准士百九十一戸、卒族三百二十九戸。
延 岡 藩
のべおかはん
■日向延岡七万石、譜代。
■内藤政挙(一八五二〜一九二七)備後守。太田資始(遠江掛川藩)の三男。文久二年襲封。維新後、子爵。
■鳥羽伏見戦役に旧幕軍側で加わり「朝敵」の嫌疑を受けた。嘆願の末、藩主謹慎のうえ恭順が認められた。五月に赦されている。
■鳥羽戦に野田口警衛。六月、甲府警衛。七月、飯能警衛。江戸城諸門警衛。
■百六十九名。
■死傷者なし。
■士族四百九十戸、卒族九百四十四戸。
伯 太 藩
はかたはん
■和泉伯太一万三千石余。譜代。
■渡辺章綱(一八三三〜九四)丹後守。弘化四年襲封。維新後、子爵。
■藩論は勤皇派で固められ、早くに恭順している。
■慶応四年二月まで和泉海岸防御。正月、和泉旧幕領などの管理を務めた。
■総出兵人数、なし。
■死傷者なし。
■士族八十六戸、卒族六十三戸。
蓮 池 藩
はすのいけはん
■肥前蓮池五万二千石余、外様。
■鍋島直紀(一八二六〜九一)甲斐守。弘化二年襲封。維新後、子爵。
■肥前佐賀藩の支藩。嘉永頃より軍備の充実を心がけ大砲や小銃の製作を行っている。宗藩とともに行動した。
■慶応四年十月、海路出羽へ。庄内酒田港に進駐した。
■五百七名。
■死傷者なし。
■士族三百五十四戸、卒族六百七十九戸。
八 戸 藩
はちのへはん
■陸奥八戸二万石、外様。
■南部信順(一八一三〜七二)遠江守。島津重豪(薩摩鹿児島藩)の五男。天保十三年襲封。維新後、子爵。
■陸奥盛岡藩の支藩。閏四月に恭順したが、五月に奥羽越列藩同盟が結成されるとやむなく加盟した。かたわら新政府軍に通じる姿勢も見せており曖昧な態度をとり続けた。藩主の出自から処分は免れている。
■@慶応四年閏四月、奥羽鎮撫軍に属して新庄へ出兵。五月解兵。A九月同盟軍に属し野辺地で弘前軍と交戦。B十月、箱館派遣軍兵食賄方。
■総出兵人数、不明。
■死傷者なし。
■士族三百七十戸、卒族二百戸。
浜松(鶴舞)藩
はままつ(つるまい)はん
■遠江浜松六万石、譜代。
■井上正直(一八三七〜一九〇四)河内守。弘化四年襲封。慶応三年まで寺社奉行や老中を歴任した。維新後、子爵。
■慶応四年二月、新政府に恭順。八月、駿府藩立藩の為、上総鶴舞に移封となった。
■@慶応四年二月、駿府城守衛。A四月まで気賀関所警衛。B三月、甲斐勝沼に出張。凱旋後、池上本門寺の守衛担当。C三月、柳原副総督を守衛して再度、甲州出張。D五月、江戸に出兵。E閏四月、柳原副総督に随行し総房野地方に出張。五月、副総督に従い三度甲府へ出張した。F五月、林軍鎮撫のため箱根に進軍。G六月、甲斐石和警衛。
■五百三十一名。
■死傷者なし。
■士族二百十九戸、卒族五百五十七戸。
林 田 藩
はやしだはん
■播磨林田一万石、外様。
■建部政世(一八五四〜七七)三二郎。文久三年襲封。維新後、子爵。
■鳥羽伏見戦役時には藩主が入京中で大勢に応じて恭順した。
■慶応四年正月、征討府の命により応援として姫路へ出張した。
■百名。
■死傷者なし。
■士族百二十八戸、卒族百三十戸。
彦 根 藩
ひこねはん
■近江彦根二十五万石、譜代。
■井伊直憲(一八四八〜一九〇四)掃部頭。万延元年襲封。のち伯爵。
■三十万石を領していたが、文久二年、桜田門外の変の処分として二十万石に減封された。以後は藩領の回復が悲願となった。大和天誅組の変、禁門の変に出兵。この功により慶応元年に五万石を回復した。大政奉還後、藩論を次第に勤皇へと転換させている。慶応三年十二月に上京。鳥羽伏見戦役には京四塚関門の警衛を務めた。
■@慶応四年正月一日、大津に駐屯。その後、桑名追討の先鋒を務めた。二月撤兵。A二月、東山道軍に属し八百九名出兵。三月、江戸到着。巣鴨に分遣進駐した。B四月、下野宇都宮へ分遣出張。北進する大鳥軍を小山で迎撃。敗退。十九日に古河に退却。C古河に援兵到着。前隊と交替。鹿沼から日光へ進軍。前隊は江戸市中警衛に当った。D閏四月、大鳥軍と藤原口栗原、大桑村で戦闘。E閏四月、第二陣一中隊四百名余江戸到着。日光へ。一部を宇都宮に分遣。F五月、鉢石、今市の戦闘参加。G六月、甲府警衛のため第三陣四百七十六名到着。H七月、甲府駐屯兵の一部を白河口に、八月、一部を越後口に転進。残る兵を二分し一隊を谷村駐屯、一隊を諸村巡邏とした。I七月、白河口分遣隊は今市駐屯隊と合流し、浅川、釜子、深入、二本柳と転戦し、九月に会津若松に進軍。J越後口軍は新発田へと北進した。
■千七百六十名。
■戦死二十九名、戦傷三十三名。
■上等士族八百十七戸、下等士族四百三十四戸、卒族二千七百七戸。
久 居 藩
ひさいはん
■伊勢久居五万三千石、外様。
■藤堂高邦(一八四六〜一九〇二)佐渡守。藤堂長徳(伊勢安濃津藩一門)の二男。文久三年襲封。維新後、子爵。
■伊勢安濃津藩の支藩。宗藩と行動をともにした。
■@慶応四年五月、駿府に出兵し、清水港の警衛担当。A七月、江戸城諸門警衛担当。B九月、宗藩に付属して白河口に転進し、今泉で戦闘。輪王寺宮を守衛して上洛。
■百名余。
■死傷者なし。
■士族に百九十七戸、卒族百五十五戸。
日 出 藩
ひじはん
■豊後日出二万五千石、外様。
■木下俊愿(一八三七〜八〇)大和守。慶応三年襲封。のち子爵。
■慶応四年正月、老臣の反対を押し切って上京し恭順した。
■戦歴なし。
■総出兵人数なし。
■死傷者なし。
■士族百九十五戸、卒族二百六十一戸。


参考 新人物往来社 三百藩諸隊始末

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The music produced byDR(零式)さん





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