幕末諸藩の戦歴 八

■居所、領地高■藩主■藩内状況、動向■主な戦歴■総出兵人数■死傷者数(士卒)■士卒属数
人 吉 藩
ひとよしはん
■肥後人吉二万二千石余、外様。
■相良頼基(一八四一〜八五)遠江守。安政二年襲封。維新後、子爵。
■文久二年、軍制改革をめぐって洋式化を主張する佐幕派と反対する勤皇派との抗争事件が起き、勤皇派が勝利。大政奉還後、恭順した。
■慶応四年五月、駿府鎮撫使に属して江戸へ出兵。七月、江戸市中、今市、ついで日光口警衛担当。八月、関山から若松へと進軍。
■五十八名。
■戦死二名、戦傷四名。
■士族七百二十一戸、卒族三千四百十七戸。
姫 路 藩
ひめじはん
■播磨姫路十五万石、譜代。
■酒井忠惇(一八三九〜一九〇七)雅楽頭。旗本酒井忠誨の四男。旗本家を相続後、慶応三年襲封。十二月に大阪に入り、老中首座を命じられている。維新後、子爵。
■鳥羽伏見戦役には大津に布陣した。戦後、忠惇は慶喜に従って江戸に戻った。藩主不在のなか姫路には征討軍が派遣されることになり重臣一同協議の末、正月十五日に岡山藩に開城降伏した。藩主蟄居。家名存続の代償として軍費三十七万五千両が支払われたと言う。
■戦歴なし。
■総出兵人数なし。
■死傷者なし。
■士族七百六戸、卒族千四百二戸、水主所々定番二百七十三戸、中間雇百十八戸。
平 戸 藩
ひらどはん
■肥前平戸六万一千石余、外様。
■松浦詮(一八四〇〜一九〇八)肥前守。安政五年襲封。のち伯爵。
■藩主詮は公武合体派の大名として活動した。慶応三年には京市中の巡邏を担当している。
■慶応四年正月鳥羽戦後、大津に進駐。その後、二月まで大和峠、奈良警衛に当った。八月、海路秋田土崎港に上陸。盛岡めざして進軍し、南楢岡、神宮寺、角館、北ノ目、刈和野を転戦した。
■四百七名。
■戦死十六名、戦傷二十八名。
■士族五百七十二戸、卒族三千三十一戸、陪卒脇間九千九戸。
平戸新田藩
ひらどしんでんはん
■肥前平戸新田一万石、外様。
■松浦脩(一八三二〜一九〇六)左近将監。嘉永三年襲封。のち子爵。
■肥前平戸藩の支藩。宗藩に従った。
■戦歴なし。
■総出兵人数なし。
■死傷者なし。
■士族百二十八戸、卒族百十二戸。
弘 前 藩
ひろさきはん
■陸奥弘前十万石、外様。
■津軽承昭(一八四〇〜一九一六)越中守。細川斉護(肥後熊本藩)の四男。安政六年襲封。のち伯爵。
■慶応三年三月、恭順し奥羽鎮撫府の庄内征討令を受諾。五月、奥羽越列藩同盟が結ばれると加盟し、藩境の警衛に専念。七月、、京留守居役西館兵馬が朝廷の令書と近衛家の教書を携えて帰藩したことにより、藩論は勤皇へと傾き列藩同盟を離脱。
■@慶応四年四月、奥羽鎮撫軍に属し秋田へ二中隊派兵。分れて新庄と本庄に達したが五月に解兵した。A七月、再度秋田へ五小隊を派遣。塩越峠の守備に当った。その後、小砂川口軍の敗退により、本庄へ撤退。八月、奥羽鎮撫軍の盛岡征討令により、出兵三大隊。碇ヶ関口、早瀬野口、野辺地口に分れて進軍。B八月、秋田藩十二所口援兵として一小隊派遣。盛岡軍と交戦の後、大館に移動。その後、盛岡軍の猛攻に綴子へ敗退。C九月、碇ヶ関口隊、片山で新政府軍に合流した。D野辺地口隊、野辺地に進撃、刈場沢に撤退。E十月、箱館府援兵として四小隊出兵。敗れて青森に脱出。F明治二年四月、箱館追討軍先鋒と第三軍に分属して乙部村に上陸し江差に進撃。福山、木古内、矢不来と転戦。G五月、箱館降伏後、二中隊で同地方の警衛に当った。H五月、降兵六百十二名を青森に護送した。
■四千百八十八名(分家家臣の分を含む)。
■戦死四十三名。戦傷三十三名。
■二千六十六戸、卒族二千二百六十一戸。
広 島 藩
ひろしまはん
■安芸広島四十二万六千石、外様。
■浅野長訓(一八一二〜七二)安芸守。浅野長懋(安芸広島藩一門)の五男。安芸広島新田藩の当主から安政五年襲封。のち、侯爵。
■文久二年に藩政改革によって、軍備の洋式化、農兵隊の編成などを行う。二度の長州征討には広島が征長軍の基地となって混乱した。このとき長訓は和平に向けて朝幕間の周旋に努める。慶応三年、土佐藩とともに幕府に大政奉還を働きかけ実現。一方では薩長倒幕派とも盟約を結ぶという複雑な動きを見せている。
■@慶応四年正月、鳥羽戦に御所諸門の警衛担当。同月、大阪市中巡邏。A同月、北陸道軍に属して江戸へ二百五十名派遣。四月、江戸市中警衛担当。B五月、第二陣江戸到着。上野戦争に備え忍に進駐。のち甲府へ転進。六月に江戸に帰還。C六月、第三陣四百十九名江戸に到着。日光に派遣。八月、下野笹尾、富士見峠、横川、倉谷を転戦、火玉峠をへて会津若松に進軍した。七月、平潟口軍に属し、海路、平潟へ。浜街道を北進し、久ノ浜、広野、浪江、駒ヶ嶺と転戦、仙台へ進軍。七月、越後口軍に属し、二小隊を派遣。新発田へ進撃。赤坂、小松関門、坪穴を転戦、津川口より会津若松をめざした。同月、東北遊撃軍に属し、海路新潟へ出兵。新発田から村上口を庄内へ進軍。十月、平潟口軍に属し、陸奥亘理に出兵し進駐。水戸藩の藩内抗争に備えた。
■二千二百七十二名。
■戦死七十二名、戦傷百二十二名。
■士族千七百八十戸、卒族四千七百三十戸。
広島新田藩
ひろしましんでんはん
■安芸広島新田三万石、外様。
■浅野長厚(一八四三〜七三)近江守。浅野懋積(安芸広島藩一門)の四男。文久元年襲封。維新後、子爵。
■安芸広島藩の支藩。宗藩と行動をともにした。
■戦歴なし。
■総出兵人数なし。
■死傷者なし。
■士卒族数、不明。
広 瀬 藩
ひろせはん
■出雲広瀬三万石、親藩。
■松平直巳(一八三二〜一九一七)佐渡守。文久元年襲封。維新後、子爵。
■出雲松江藩の支藩。慶応四年正月、山陰道鎮撫使に恭順した。その後は宗藩に従った。
■戦歴なし。
■総出兵人数なし。
■死傷者なし。
■士族百五十二戸、卒族二百十戸。
吹 上 藩
ふきあげはん
■下野吹上一万石、譜代。
■有馬氏弘(一八五〇〜不詳)兵庫頭。旗本有馬則篤の二男。文久二年襲封。維新後、子爵。
■慶応四年三月、恭順した。
■慶応四年四月、在江戸の藩士で一隊を編成し鳥取藩に付属させ、下野壬生に進駐。同時に吹上からも出兵し、壬生で合流した。四月、下野安塚で大鳥軍を邀撃した。ついで宇都宮城奪還に参加。大鳥軍を追い、日光へ。瀬川村の戦闘。閏四月、今市をへて江戸へ帰還。五月、江戸城諸門を警衛した。九月、下野鉢石へ出兵。藤原口の警衛に当った。
■六十五名。
■戦死四名、戦傷八名。
■士族百六戸、卒族七十戸。
福 井 藩
ふくいはん
■越前福井三十二万石、親藩。
■松平茂昭(一八三六〜九〇)越前守。松平直春の長男。安政五年襲封。維新後、伯爵、のち侯爵。前藩主、慶永は御三卿田安斉匡の子に生れ、嘉永、安政期に藩政改革を進め、洋式兵制の導入や軍備の充実に努めた。かたわら、対外的には一橋派の中心として活動したため、安政五年に永蟄居を命じられた。文久二年、赦されて政界に復帰し、幕府の政治総裁職に就任、さらに公儀政体論に基づく新たな政権構想の実現に向けて京都を舞台に活動した。王政復古後はもっぱら徳川宗家の救解と存続に力を尽している。
■徳川一門として討幕には積極的ではなかった。当初、新政府も慶永の立場に配慮して藩兵の徴兵を免じたため、北陸道鎮撫軍は福井を通過したにとどまった。しかし、北越戦争が激化するにつれ、新政府による諸藩兵の動員数も増加の一途を辿り、そのなかで大藩の福井藩が一兵も参加しないわけにはいかなくなった。五月に朝廷の特旨をもって出兵を命じられたが、茂昭の病気を理由になかなか腰があがらない。徳川一族として消極的な態度を隠そうともしなかった。漸く七月に入って申訳けばかりの藩兵百五十名を柏崎に派遣した頃、すでに北越戦争は終盤にさしかかっていた。
■慶応四年正月、鳥羽戦に御所を警衛。七月二十四日、柏崎に到着。出雲崎に転進。与板河岸、柿木山、笠脱山、阿弥陀山、与板山等を転戦。分遣隊は与板から見立山、村山、鼠ヶ関、高畑を転戦し、庄内に進軍した。
■二千三十四名。
■戦死十名、戦傷三十二名。
■士族八百八十七戸、卒族千四百三十九戸。
福 江 藩
ふくえはん
■肥前福江一万二千石余、外様。
■五島盛徳(一八四〇〜七五)飛騨守。安政五年襲封、維新後、子爵。
■外国船の海岸防御を担当。
■戦歴なし。
■総出兵人数なし。
■死傷者なし。
■士族三百十六戸、卒族二百八十五戸。
福 岡 藩
ふくおかはん
■筑前福岡五十二万石、外様。
■黒田長溥(一八一一〜八七)美濃守。島津重豪(薩摩鹿児島藩)の九男。天保五年襲封。維新後、侯爵。父の影響から洋学を好み、開明派の大名として知られた。ペリー来航後は積極的開港論を展開、文久期には世子の長知を代わりに上京させて、公武合体の実現に尽力した。文久の政変以後は、長州藩と朝幕間の赦免や周旋を働きかけている。
■嘉永期以降、軍艦や銃器を購入し、洋式銃隊調練を実施するなど、軍備の充実に努める。慶応元年正月、長州に脱走した尊攘派公卿五名の身柄を預り太宰府に移した。これを契機に藩内に勤皇派が台頭。長州藩と幕府間の周旋を目的とした藩の方針は幕府から長州藩と密かに同調しているとの嫌疑を受けた。このため、長溥は勤皇派を処罰し、一掃して疑いを晴らした。以後、藩論は佐幕派優勢であったが、大政奉還後、勤皇派が力をえて、藩内不統一のまま明治維新をむかえた。
■@慶応四年正月、長崎の警衛を命じられる。同月、御所諸門の警衛を担当。A三月、奥羽鎮撫軍に属し五十八名派遣。京より海路、陸奥東名浜に上陸し仙台入り。五月、奥羽越列藩同盟の成立により行き場を失い転々とした後六月十二日に秋田藩に迎えられた。B三月頃、江戸に出兵。四月、両国回向院警衛。四月末、脱走軍鎮撫のため下総に出張。市川、行徳、船橋と転戦し、閏四月六日、両国警衛強化のため召還した。ほか江戸城諸門、市中警衛に当る。五月、江戸上野戦争に備えて古河に出張。ついで飯能に集結した振武軍の鎮撫に当る。C六月、佐賀へ出張。D七月、平潟口軍に属し四百四十二名、海路平潟に上陸、小名浜へ進駐。八月にかけて北進し、新田原、広野、浪江、駒ヶ嶺を転戦とした。E七月、奥羽鎮撫軍に属し久保田から小砂川口を庄内へ進軍。亀田、本庄をへて矢島に分遣。及位、祓川などに駐屯した。八月、庄内軍の反抗に敗退を重ね雄物川を挟んで対陣、川口、椿台、刈和野を転戦。Fほか、伏見警衛、西京二階町警衛、大阪表警衛を担当。
■二千二百六十一名。
■戦死五十七名、戦傷八十四名。
■士族千七百四十九名、卒族五千百七十一戸。
福島(重原)藩
ふくしま(しげはら)はん
■陸奥福島三万石、譜代。
■板倉勝尚(一八五一〜一九二四)甲斐守。慶応二年襲封。のち子爵。
■慶応四年三月、勝尚は帰藩。藩論は不統一であったが、二月に三河重原分領が東海道軍に恭順、ついで四月に福島藩も奥羽鎮撫使に恭順した。五月、奥羽越列藩同盟が成立すると、大勢に応じて福島藩も加盟、重原分領はそのまま恭順したので一藩両属の形となった。七月に入り、二本松藩が降伏すると、藩主を米沢に退去させ新政府軍の攻撃に備えたが、もともと戦意が薄いため九月十五日に謝罪、降伏した。戦後、藩主隠居謹慎のうえ、二千石の減封となっている。
■慶応四年五月、同盟軍に属し白河城攻防戦に参加した。七月、江戸詰八十名余で一隊を編成し、新政府軍に参加した。
■総出兵人数、不明。
■戦死七名、戦傷四名、他農兵、小者戦死四名。
■士族二百三十三戸、卒族百七戸。
福知山藩
ふくちやまはん
■丹波福知山三万二千石、譜代。
■朽木為綱(一八四五〜八三)近江守。慶応三年襲封。維新後、子爵。
■慶応三年から大阪安治川の警衛を担当。鳥羽伏見戦のさなか、たまたま上陸してきた鹿児島藩兵を捕らえ大阪奉行所に送った。のちに山陰道鎮撫使に帰順したがこの事件を咎められ、謹慎処分を受けている。
■慶応四年正月、鳥羽戦に旧幕軍側で出兵、途中で引き返した。同月、山陰道鎮撫使に属し丹後久美浜に進駐。周辺の旧幕領、小給知行所の管理担当。七月、越後口軍に属し柏崎へ。そこから海路、新発田へ派遣。萩島、佐々木を転戦し庄内へ進軍した。
■六十名。
■戦死二名、戦傷一名。
■士族二百七十六戸、卒族二百八十四戸。
福 本 藩
ふくもとはん
■播磨福本一万一千石余、交替寄合。
■池田喜通(一八二八〜六八)弾正。天保七年襲封。維新後、男爵。
■慶応四年正月、入京して恭順した。六月、高直しと鳥取藩からの蔵米を得て立藩した。
■@慶応四年正月、播磨姫路へ出張。A播磨殿原の百姓一揆の鎮撫に出張。
■二小隊百名。
■死傷者なし。
■士族九十六戸、卒族八十戸。
福 山 藩
ふくやまはん
■備後福山十一万石、譜代。
■阿部正方(一八四八〜六七)主計頭。文久元年襲封。維新後、伯爵。
■安政期に軍制改革を行い、洋式銃隊の編成や大砲の鋳造を行った。慶応三年、第二次征長のさなか、正方は病死、翌年正月新政府軍の進駐を受け、喪を秘したまま恭順した。
■慶応四年正月、伊予松山征討に出兵。十月、箱館府援兵として蝦夷に出兵。敗れて青森へ脱出した。明治二年四月、箱館追討軍先鋒と第三軍に分属して乙部村に上陸し、江差、福山、木古内、矢不来と転戦し、箱館めざした。
■五百十五名。
■戦死十名、戦傷八名。他、第二次箱館戦の戦死三十一名。
■士族七百九十七戸、卒族千五百四十六戸。
府内(大分)藩
ふない(おおいた)はん
■豊後府内二万一千石余、譜代。
■松平(大給)近説(一八二八〜八六)左衛門尉。松平定永(伊勢桑名藩)の七男。天保十二年襲封。元治元年より寺社奉行、若年寄を務めた。維新後、子爵。
■安政期より洋式調練を行い、農兵隊を編成するなど軍備充実に努めた。慶応四年三月、近説は若年寄を辞し上洛したが、駿府で引き止められ大総督府に出頭した。しかし、なかなか恭順は認められず豊後岡藩中川久昭の周旋でようやく事なきを得た。
■戦歴なし。
■総出兵人数なし。
■死傷者なし。
■士族二百三十八戸、卒族二百三十三戸。
府中(厳原)藩
ふちゅう(いずはら)はん
■対馬府中十万石格、外様。
■宗重正(一八四七〜一九〇二)対馬守。文久二年襲封。のち伯爵。
■万延元年、英軍艦の対馬測量事件、文久元年、露軍艦の芋崎占領事件の二つの対外問題の処理をめぐり、藩内では攘夷論が高揚し海防の充実が求められた。これにより藩政を担当する佐幕派との間に抗争が相次ぎ、統一をみないまま維新をむかえた。
■戦歴なし。
■総出兵人数なし。
■死傷者なし。
■士族千八百三十七戸、卒族千八十二戸。
府中(石岡)藩
ふちゅう(いしおか)はん
■常陸府中二万石、親藩。
■松平頼縄(一八〇五〜八四)掃部頭。天保四年襲封。維新後、子爵。
■常陸水戸藩の支藩。水戸藩徳川慶篤の後見を務めた。藩論は二分したが慶応四年三月に恭順した。
■慶応四年八月、分領陸奥長沼陣屋詰で一隊を編成し、勢至堂、赤井駅を守衛した。十月二日、水戸の藩内抗争激化に備えて藩主自ら出陣したが途中で引き返した。
■百八十名。
■死傷者なし。
■士族百九十八戸、卒族百九戸。
本 庄 藩
ほんじょうはん
■出羽本庄二万石余、外様。
■六郷政鑑(一八四八〜一九〇七)兵庫頭。文久元年襲封。のち子爵。
■慶応四年三月に恭順した。その後奥羽越列藩同盟が結ばれるといったんは加盟し、さらに七月に脱盟、恭順している。これにより庄内軍の攻撃を受け、藩主は久保田に脱出した。以後、秋田領内の防衛戦に加わり、九月二十九日に本庄を奪回した。戦後、一万石を加増されている。
■慶応四年七月、新政府軍に属し、小砂川、三崎に侵攻し、庄内軍と戦った。八月一日、本庄に撤退。六日、本庄城陥落。以後、玉坂、上野、小種、椿台、白熊沢と転戦した。
■四百七十七名。
■戦死十二名、戦傷十二名。
■士族三百四十二戸、卒族三百十四戸。
前橋(厩橋)藩
まえばし(まやばし)はん
■上野前橋十七万石、親藩。
■松平直克(一八四〇〜九七)大和守。有馬頼徳(筑後久留米藩)の五男。文久元年襲封。文久三年から一年間、政治総裁職。維新後、伯爵。
■慶応三年、前橋城を修復し川越から移封した。翌年三月に入京し、徳川宗家の存続を願い出ている。
■@慶応四年三月、東山道軍人馬兵食賄方。A閏四月、沼田警衛。戸倉関門付近の鎮撫に当った。B閏四月、会津軍と三国峠で戦闘し、越後六日町まで追走。C五月、戸倉口土出村へ斥候役。D五月六日、上野鎮撫を命ぜられる。E六月四日、上総飛領富津陣屋詰より横田村、佐貫、八幡へ出張した。F五月、脱走者は遊撃隊に加わり、箱館占領を企てた。
■六百四十四名、他に脱走者六名。
■自刃二名、脱走者(戦死三名、殺害一名、不明二名)。
■士族数四千六百五十六名(男二千三百十五名)、卒族数五千五百六名(男二千七百七十四名)。
松 江 藩
まつえはん
■出雲松江十八万六千石、親藩。
■松平定安(一八三五〜八二)出羽守。松平斉孝(美作津山藩)の七男。嘉永六年襲封。維新後、伯爵。
■慶応四年正月に入京し恭順した。
■慶応四年二月、京山崎関門警衛。九月、出兵し酒田港に駐屯した。
■四百名。
■死傷者なし。
■士族九百五十一戸、卒族千二百五十六戸。
松岡(手綱)藩
まつおか(たづな)はん
■常陸松岡二万五千石、付家老。
■中山信徴(一八四六〜一九一七)備中守。文久元年襲封。のち男爵。
■常陸水戸藩の付家老であったが慶応四年正月、松岡藩の立藩が認められた。水戸の取締を務めた。
■慶応四年十月二日、水戸の藩内抗争激化に備えて大津浜へ出兵した。
■三百名。
■戦死一名、戦傷三名。
■士族百二十一戸、卒族百五戸。
松 代 藩
まつしろはん
■信濃松代十万石、外様。
■真田幸民(一八五〇〜一九〇三)信濃守。伊達宗城(伊予宇和島藩)の二男。慶応二年襲封。のち伯爵。
■前々藩主幸貫は佐久間象山を初めとする人材登用を行い、藩政改革を進め軍備の充実を図った。幕末期の松代藩では公武合体を主張する真田党と尊皇攘夷を掲げる恩田党の派閥抗争があり、佐久間象山の暗殺などにより次第に尊攘派が優勢となるなかで維新をむかえた。
■@慶応四年二月、東山道軍人馬兵食賄方。東山道軍の甲州口嚮導と甲府城守衛。四月、撤兵。A閏四月、衝鋒隊の信濃飯山進出に援兵として出張。越後新井へ追撃。C閏四月、東山道軍岩村隊に属し、越後新井へ進軍、北陸道軍と合流し魚沼郡をへて長岡をめざした。芋坂、雪峠をへて五月に小千谷に駐屯。三仏生村から信濃川を隔てて長岡軍と交戦。十九日長岡城落城。D閏四月、八王子屯集の賊徒甲府進撃の応援出兵。五月に甲府城代を命じられる。六月まで。E五月、林軍進撃の報に二十八日に箱根に進駐。F六月、越後口軍に属し、同盟軍と森立峠で交戦。七月にかけ新発田から鳥井峠を越え会津若松へ進軍。九月〜十月まで甲府城番に任命。
■三千二百七十一名。
■戦死五十二名、戦傷八十三名。
■士族四百三十六戸、准士族二百六十八戸、卒族千六百七十九戸、浪人四十一戸。
松前(館)藩
まつまえ(たて)はん
■蝦夷地松前三万石、外様。
■松前徳広(一八四四〜六八)志摩守。慶応二年襲封。維新後、子爵。
■藩主は病弱でしかも襲封直後のため藩政は重臣に委ねられていた。このため、藩論も佐幕派優勢で、五月に奥羽越列藩同盟が結成されると家老を派遣し意見を交換している。このなかで七月に下級藩士達が決起し、徳広に迫って重臣たちを処分し、藩論を勤皇に定めた。しかし、十月に榎本軍が鷲ノ木に上陸し箱館府を攻撃し、ついで松前藩に来襲すると松前城は落城し、青森に脱出した。この混乱のなか徳広は弘前で病死している。翌明治二年正月、五歳の修広が襲封した。四月、箱館追討軍が乙部村に上陸し反攻を開始、五月九日にようやく修弘は松前に戻ることができた。
■@慶応四年十月十九日、箱館府に属し蝦夷地を警衛する。第一陣五十名出兵。峠下の戦闘で敗退後二手に分れて七重口と大野口を守備し防衛線を整えた。二十五日、箱館府知事は青森へ脱出。二十七日、第二陣二小隊、福島村へ出兵。藩主は福山城から館村の新砦に移った。十一月に入り、知内村、福島領と敗退し、五日に福山城落城。藩主は江差に移り、二股口、松前口に防衛線をしいた。十五日、松前陥落。藩主は陸奥平館に脱出した。A明治二年四月九日、箱館追討軍先鋒として乙部村に上陸し、江差口と鶉村口、熊石村口の三手に分れて進軍した。江差陥落後、侵攻軍は松前口と木古内口に分れ、五方面から進撃した。B十五日、第二陣が箱館追討第三軍に所属し江差に進発。さらに松前口と安野呂口に分れて進撃した。十七日、福山城陥落。二十二日、木古内陥落。木古内口隊は松前口隊と合流し、三石村へ進撃。矢不来戦をへて、五月二十日、七重、大野村で諸口の部隊が合流し、箱館に向けて進撃。十八日、箱館軍降伏。
■総出兵人数 第一次戦 二大隊(士八百六十五、卒三百二十五)遊撃隊(神官三十、僧侶七十五、町兵三百八十九)。第二次戦 一大隊五小隊(士八百四十一、卒三百、夫二百七十五)、遊兵(士百十五、卒八十五、夫四十)。
■第一次戦 戦死(士二十四、卒二十五、遊撃隊四)、戦傷(士二十四、卒十一、遊撃隊四)。第二次戦 戦死(士十四、卒二十一、夫三)、戦傷(士三十一、卒三十四、夫三)。
■士族八百八戸、卒族八百四十八戸。
松 本 藩
まつもとはん
■信濃松本六万石、譜代。
■松平(戸田)光則(一八二八〜九二)丹波守。弘化二年襲封。維新後、子爵。
■慶応四年二月、恭順した。
■@慶応四年正月〜五月まで碓氷関門警衛。A四月、江戸詰藩士が鳥取藩に付属して出兵。壬生に進駐し、下野安塚で大鳥軍を邀撃した。その後、宇都宮城攻防戦にも参加した。B四月、壬生から日光へ進駐。閏四月撤兵。C衝鋒隊の信濃飯山進出に援兵として出張。D閏四月、越後新井へ出兵し、魚沼郡をへて長岡をめざした。六月、同盟軍と半蔵金、森立峠で交戦。九月に会津高田へ進軍し、若松城攻撃に参加した。
■四百十名。
■戦死三名、戦傷四名。
■士族三百十三名、卒族七百七戸、軽卒四百九十一戸。
松 山 藩
まつやまはん
■伊予松山十五万石、親藩。
■松平(久松)定昭、伊予守。藤堂高猷(伊勢安濃津藩)の五男。慶応三年襲封。三日後、老中首座に抜擢されたが大政奉還後まもなく辞任している。維新後、伯爵。
■徳川一門として藩論は佐幕派で固められ、二度の長州征討では先鋒となって戦った。鳥羽伏見戦役では大阪梅田の警衛を担当したが、この点と定昭の経歴が災いして「朝敵」とされた。伊予松山征討軍が編成され、二十八日、開城降伏した。戦後処分で定昭は隠居謹慎となり、軍費十五万両を献納することで赦された。
■戦歴なし。
■総出兵人数、なし。
■死傷者なし。
■士族八百三十三戸、准士徒士族八百五十戸、卒族二千八百六十八戸。
松山(高梁)藩
まつやま(たかはし)はん
■備中松山五万石、譜代。
■板倉勝静(一八二三〜八九)伊賀守。松平定永(伊勢桑名藩)の八男。嘉永二年襲封。文久二年に老中となったが、意見が合わずに辞任した。慶応元年に再び老中となり、慶喜の将軍就任に尽力した。鳥羽伏見戦後、新政府は勝静の官位を剥奪したため世子勝全が襲封した。二月、勝静親子は日光山南照院に移り、四月には降伏して宇都宮城に幽閉された。その後大鳥軍によって解放されると、最後まで新政府に抵抗した。維新後、子爵。
■慶応四年正月十四日、岡山藩により降伏開城した。
■戦歴なし。
■総出兵人数、なし。他に勝静親子随行者五十名以上。
■死傷者なし。
■士族三百六十九戸、卒族三百七十二戸。
松山(松嶺)藩
まつやま(まつみね)はん
■出羽松山一万五千石、譜代。
■酒井忠良(一八三一〜八四)紀伊守。弘化二年に襲封。維新後、子爵。
■出羽庄内藩の支藩。宗藩とともに新政府に抵抗した。
■庄内藩と同様。
■総出兵人数、不明。
■戦死六名、農・町兵戦死二名、戦傷八名。
■士族百十八戸、卒族三百三十六戸。
丸 岡 藩
まるおかはん
■越前丸岡五万石、外様。
■有馬道純(一八三七〜一九〇三)遠江守。本多忠鄰(播磨山崎藩)の二男に生れ、安政二年襲封。文久二年から元治元年まで寺社奉行、若年寄、老中を歴任。維新後、子爵。
■慶応四年正月、恭順した。
■@慶応三年四月、二条城警衛を担当。A五月、北陸道軍に弾薬の製造配給を命じられる。B敦賀港警衛。
■百六十名。
■死傷者なし。
■士族二百四十九戸、卒族四百四十七戸。


参考 新人物往来社 三百藩諸隊始末

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