幕 末 諸 隊 総 覧 壱
■所属、■結成の目的および時期、■総督、隊長名、隊員数、■主な戦歴、■解散時期。
| 遊 軍 隊 ゆうぐんたい |
| ■蝦夷松前藩館新城下の義勇軍。 |
| ■明治元年十月、旧幕軍榎本艦隊の来航に備えて急遽、藩主松前徳広が徴募。 |
| ■隊長は氏家丹宮。隊士は館、鶉、江差地区の農民有志からなり、猟銃や刀槍で武装。総勢百五十人。 |
| ■榎本軍の館新城攻略の際、福山に通じる本道方面で優勢な敵と遭遇した遊軍隊は、大滝山に布陣して奮戦したが、隊長以下多くの戦死者を出して敗走、生き残った兵は各地に潜伏してゲリラ戦を展開した。 |
| ■この前後、箱館守備の官軍は秋田、津軽の兵に松前、福山を合わせて二百名足らず。この為、藩主松前徳弘は、十一月十九日、船で本土へ脱出、遊軍隊も同日をもって自然解散となった。 |
| ■ |
| 箱館・在住隊 はこだて・ざいじゅうたい |
| ■箱館開港地を戦禍から守る為、町内有志で組織された義勇隊。 |
| ■旧幕軍榎本艦隊の来攻に備え、明治元年秋に結成。 |
| ■隊長黒沢伝之丞、三村平太郎以下、総勢八十名。 |
| ■一部の隊士は、新政府軍に徴用されて、艦船乗り組を命ぜられ、多くの戦死者を出している。また、明治二年五月二日には不破一学の率いる一隊が、七重浜付近で榎本軍と壮絶な戦いを繰りひろげられた。 |
| ■明治二年五月中旬、戦火の終焉により、解散。 |
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| 凾 衛 隊 かんえいたい |
| ■箱館府知事清水谷公考直属の府兵。箱館府兵ともいう。 |
| ■慶応四年五月結成。 |
| ■総督和田権之助、隊長有地志津馬、隊員約百七十名。 |
| ■当初は清水谷知事のもとで開港地箱館及びその周辺の警備にあたっていたが、榎本軍の来攻で戦列に参加、各地に転戦する。文献では、明治二年八月から凾衛隊と呼ばれる。 |
| ■明治三年春、解散。 |
| ■ |
| 正 議 隊 せいぎたい |
| ■蝦夷松前藩で組織された勤皇派の軍隊。 |
| ■慶応四年春、藩主松前徳広の要請により、同藩家老下国安芸が組織した勤皇隊。 |
| ■軍事奉行を兼ねた家老の下国が統括し、幹部は新田千里ら七名。隊士三百名を三隊に分け訓練した。 |
| ■明治元年十月二十二日、正議隊は長州、津軽の諸藩兵とともに進攻の榎本軍を迎え撃ち、散々苦戦を強いられる。 |
| ■明治二年十一月の藩政改革で常備軍に編入され、解散。 |
| ■ |
| 遊 軍 隊 ゆうぐんたい |
| ■箱館市民による、官軍側ゲリラ。 |
| ■明治元年十月二十五日、箱館府知事清水谷公考の要請を受け、箱館府軍事局詰の村山次郎(播州)が徴募編成した。その後、榎本軍の来攻で村山が本土に逃れ、藤井民部が後任の隊長となる。 |
| ■隊士は箱館在住の役人、武士、神官、医師、農町民など五十余名。のち百二十名近くになる。 |
| ■遊軍隊の任務は探索活動。隊士が身分を偽って榎本軍に入隊し、内部攪乱と情報集めに奔走し、その他、五稜郭の看護兵、器械方に、また某隊士は守兵となって火門に釘を打ち込んだり、水道を切断したり攪乱した。 |
| ■明治二年五月二十五日、南部の降伏で解散。 |
| ■ |
| 発 機 隊 ほつきたい |
| ■南部藩の農町民兵 |
| ■慶応四年七月、南部藩家老楢山佐渡の肝入りで組織された佐幕派の軍隊。 |
| ■隊長は竹林由太郎、隊員およそ六百人(十二小隊、別手備)藩士子弟他一般徴募。装備和洋混合。 |
| ■八月八日、十二所口から秋田領内に攻め込み、雪沢、扇田、坊沢の戦闘に参加、破竹の勢いで進撃したが、久我道久を総督とする東北遊撃軍が到着してからは次第に攻めあぐみ、神明堂の戦いで惨敗。竹林は戦死。 |
| ■九月二十五日、南部の降伏で解散。 |
| ■ |
| 天 象 隊 てんしょうたい |
| ■南部藩。 |
| ■慶応四年七月結成。 |
| ■総督は楢山佐渡、上士編成からなる藩正規軍。二小隊百名。 |
| ■十二所口総督の親衛隊として、楢山兵団麾下の二番小隊、四番小隊、六番小隊とともに、秋田領内各地に転戦。 |
| ■明治元年九月二十五日、南部藩の投降により、解隊。 |
| ■ |
| 杜 稜 隊 とりょうたい |
| ■南部藩。 |
| ■慶応四年七月秋田進攻にそなえて組織。 |
| ■隊長は同藩頭取改役の伊藤善次で隊員七十四名。 |
| ■慶応四年八月、秋田領内に攻め込み各地で戦い、仙台藩の降伏を機に脱藩して蝦夷へ渡り、榎本軍に投じて、五稜郭の警備にあたった。のち有川付近で進攻の官軍と戦う。 |
| ■杜稜隊は明治元年九月、仙台藩の降伏直後に解散。 |
| ■ |
| 地 儀 隊 ちぎたい |
| ■南部藩。 |
| ■慶応四年七月結成。 |
| ■総督楢山佐渡、六小隊三百人。 |
| ■慶応四年八月二十九日、秋田領防沢の戦闘を機に岩瀬西南方の高地に進出、激戦を展開。その勇猛ぶりは敵味方のあいだに知れ渡った。 |
| ■明治元年九月下旬、南部藩の降伏により、解散。 |
| ■ |
| 聖 武 隊 せいぶたい |
| ■南部藩の槍隊。照武隊かも。 |
| ■慶応四年月日不詳、採用。 |
| ■総督楢山佐渡、槍の練達者百名で編成。 |
| ■一番隊は向井兵団麾下、二番鉄槍動隊は楢山兵団に属して、十二所、雪沢、坊沢方面の戦闘で活躍。 |
| ■明治元年九月二十五日、南部藩の降伏で消滅。 |
| ■ |
| 烏 蛇 隊 うじゃたい |
| ■南部藩。隊名は二人の隊長の姓名からその頭文字をとってつけられた。 |
| ■慶応四年秋、徴募編成。 |
| ■総督楢山佐渡、隊長は烏谷部弓太、蛇口重治、三浦長太。隊員六百名、十二小隊。 |
| ■十二番小隊は楢山総督指揮のもと十二所口に出戦。二番小隊は向井総督指揮下で毛馬内へ、九番小隊は三浦兵団に付属して新沢口で秋田軍と交戦した。 |
| ■明治元年九月二十五日、南部藩の降伏で解散。 |
| ■ |
| 煙 山 隊 えんざんたい |
| ■南部藩。 |
| ■慶応四年八月ごろ組織。 |
| ■隊長は佐藤熊之助、一戸謙治ほか一名。隊士百五十名、三小隊編成。 |
| ■同年九月二日、岩瀬餅田付近の戦闘に参加。以後各地に転戦。 |
| ■明治元年九月二十五日、解散。 |
| ■ |
| 風 雪 隊 ふうせつたい |
| ■南部藩。 |
| ■慶応四年夏に結成。 |
| ■隊長村木忠右衛門、金田一吉太郎。二小隊百名。 |
| ■明治元年九月中旬、神明堂、大館、十二所、葛原方面に出戦、野辺地、雫石の戦闘で勇名を馳せる。 |
| ■明治元年九月二十五日、解散。 |
| ■ |
| 僧 兵 隊 そうへいたい |
| ■秋田藩。 |
| ■慶応四年夏ごろ組織。僧侶の有志で編成。 |
| ■隊長小野寺主水、総勢六十名。 |
| ■慶応四年八月十八日、盛岡方面の大滝、軽井沢の戦闘に参加。このあと扇田、前山でも戦う。九月二日には板沢へ転進「勇戦して敵九人を仆す」と隊の記録にある。四日後には敵手に落ちた大館奪還戦に加わり、勇名を馳せた。 |
| ■明治元年十一月、奥羽の戦後処理がすすんだ段階で解隊。 |
| ■ |
| 有 志 隊 ゆうしたい |
| ■秋田藩。 |
| ■慶応四年六月、吉川忠行、忠安父子の西洋砲術所員有志で編成されたイギリス式部隊。 |
| ■総督佐藤日向、隊士二小隊九十人。秋田藩の洋式化に伴い近代化の代表的な隊である。 |
| ■明治元年七月六日、新屋口に進撃した同隊は十三日から十六日にかけて、遊撃隊とともに三崎峠付近の第二次戦闘に参加、観音森を占拠した。のち海道軍の先鋒をつとめ、中野沢から長浜付近に進出して北上する庄内軍の出鼻を挫き、その前進拠点羽川を奪還して海道方面の戦勢を逆転させた。 |
| ■奥羽の戦乱鎮定で明治元年十一月解隊。 |
| ■ |
| 遊 撃 隊 ゆうげきたい |
| ■秋田藩。 |
| ■慶応二年、吉川忠行、忠安父子の西洋砲術所で組織されたイギリス式部隊。 |
| ■隊長荒川久太郎、銃士約八十名、のち二小隊百二十名に増員。 |
| ■慶応四年閏四月十九日、遊撃隊は女鹿の火の手を合図に舟艇移動で吹浦、三崎峠の南西四キロにある庄内軍の陣地に突入、四日後には庄内国境に達し、逃げる敵を追って二十九日、本荘に攻め込んでいる。 |
| ■明治二年五月、解散。 |
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| 猟 夫 隊 りょうふたい |
| ■秋田藩。 |
| ■参政茂木筑後の献策により、慶応四年六〜七月にかけて徴募。 |
| ■隊長不明、隊員七十名。 |
| ■一種の狙撃兵で、ゲリラ的なレンジャー部隊。明治元年九月十五日、靄の森争奪戦で活躍。 |
| ■明治元年十月に解隊。 |
| ■ |
| 衝 撃 隊 しょうげきたい |
| ■仙台藩。別名からす組。 |
| ■慶応四年閏四月、仙台藩士細谷十太夫が組織。 |
| ■隊士は侠客、博徒、農民からなり、黒装束をまとっていたので「からす組」と呼ばれた。幹部は隊長細谷十太夫、一番隊長武藤鬼一、二番隊長渡辺武兵衛、三番隊長新妻新兵衛、四番隊長蓬田仁蔵、五番隊長笠原安治。隊士は六十八名。 |
| ■間謀専門の細作部隊として発足したが、白河口の戦闘以後、戦局の激化にともない戦兵として活躍する。この時期、官軍将兵のあいだに「細谷鴉と十六ささげ無けりゃ官軍高枕」という歌が流行ったほどである。 |
| ■明治元年九月十五日、仙台藩の降伏で藩命により解散。 |
| ■ |
| 額 兵 隊 がくへいたい |
| ■仙台藩の洋式銃隊。(楽兵隊)とも書く。太鼓や笛のリズムに合わせて調練していたからだろう。 |
| ■慶応四年閏四月編成。 |
| ■隊長星恂太郎(ある時期但木左近)隊士は家長及び長男を除く藩士子弟からなり、砲兵百五十人、土坑兵二百人の他は全て戦兵。幹部は他二十四名。 |
| ■隊長の星は米国ウェンリードから兵学と砲術を学び、仙台藩屈指の洋兵家と目された人物。反薩長である。奥羽方面の戦闘において特筆すべき戦功はない。 |
| ■仙台藩は明治元年九月十五日に投降するが、これより前に額兵隊は石巻から榎本艦隊に従い蝦夷に渡り、各地を転戦したのち、明治二年五月十八日、官軍に投降した。 |
| ■ |
| 見 国 隊 みくにたい |
| ■仙台領石巻で組織された一旗組の雑軍。 |
| ■明治元年十二月結成。藩士の次男、三男や浮浪の徒が中心。 |
| ■隊長二関源治、隊員は四百八十人とも三百五十人ともいわれ、頭取横尾治兵衛他九名、指図役四名、嚮導役十六名、以下兵士となる。 |
| ■隊の目的は蝦夷において官軍に抵抗することで、近郷近在の富豪や富農から軍資金を掻き集め、明治二年四月八日、英国の商船で蝦夷地に上陸。本道方面の前衛部隊として官軍と戦った。 |
| ■五月十八日、箱館五稜郭の陥落で投降、解散。 |
| ■ |
| 飛 行 隊 ひこうたい |
| ■仙台藩。 |
| ■慶応四年五月、徴募編成。 |
| ■隊長梅村信太夫、隊員は三小隊九十名。 |
| ■全員修験者。慶応四年五月中旬〜七月までに訓練を受けた即成部隊。宙返りや断崖飛翔などを軽くやってのけたので、この名がある。 |
| ■訓練終了後の八月十日、福島方面に配備され、同月十八日には二本松城奪還戦に参加、梅村隊長以下十名が戦死している。 |
| ■明治元年九月十五日、仙台藩の降伏で解散。 |
| 聚義隊 しゅうぎたい |
| ■仙台藩。 |
| ■慶応四年五月、坂兵団の補完部隊として結成。 |
| ■総督坂英力、隊長不明、二小隊七十名。 |
| ■伊達安芸の手兵三小隊、小島勇記の一小隊、真田喜平太の手兵一小隊、それに投機隊などと須賀川方面の戦闘に参加、敗戦後、八月十八日から始まった二本松城奪還戦で勇戦するも奪還成らず。 |
| ■明治元年九月十五日、仙台藩の降伏により解散。 |
| ■ |
| 涌谷隊 ゆうこくたい |
| ■仙台藩。 |
| ■慶応四年五月結成。 |
| ■隊長佐藤大三郎か、二小隊六十名。 |
| ■福島方面に配備され、二本松城奪還戦には、先鋒となって戦った。 |
| ■明治元年九月十五日、仙台藩の降伏により解散。 |
| ■ |
| 別 手 隊 べってたい |
| ■仙台藩。 |
| ■慶応四年四月結成か。「仙台戊辰戦史」に「列手隊」とあるのは「別手隊」の間違いであろう。 |
| ■隊長坂本大炊、隊員百名、三小隊編成。 |
| ■戦歴は飛行隊とおなじ。 |
| ■明治元年九月十五日、仙台藩の降伏により解散。 |
| ■ |
| 御武頭 おぶがしら |
| ■仙台藩。 |
| ■慶応四年四〜五月結成か。 |
| ■隊長鈴木源三郎、笠原久米之進。六小隊百八十名。 |
| ■「仙台戊辰戦史」に散見されるのみで戦歴は不明。 |
| ■明治元年九月十五日、仙台藩の降伏により解散。 |
| ■ |
| 投 機 隊 とうきたい |
| ■仙台藩。 |
| ■慶応四年五月ごろ、藩の重臣坂英力麾下の一隊として取り立て。 |
| ■隊長桜田敬助、参謀真田喜平太、総勢二百名。 |
| ■同年六月ごろ、大隊長深川播磨の指揮する一隊と諸組四組、それに砲隊を合わせた部隊と新荘へ出張。総勢五百五十人。十一日、及位、金山付近の戦闘に参加、この戦闘で大隊長深川と軍監五十嵐戦死。十四日須賀川で戦闘中の仙台兵、二本松兵と白河城を攻撃し、敗れて須賀川へ退く。 |
| ■明治元年九月十五日、仙台藩の降伏により解散。 |
| ■ |
| 新 徴 組 しんちょうぐみ |
| ■庄内藩。江戸治安の警察隊。 |
| ■文久三年四月十七日、江戸で結成。前身は幕府浪士組。清河八郎の横死後、勤皇色を一掃して、庄内藩主酒井左衛門尉忠篤の預かりとなる。 |
| ■人数は二百人前後、戊辰戦争前には大半が庄内へ引き揚げ、新しく新徴隊として官軍と戦った。 |
| ■結成当初。取締俣野一郎左衛門、幹部根岸友山他十名。新徴隊になってからは中村又太郎他十四名。 |
| ■戊辰戦争では新徴隊として各地に転戦するが、明治元年九月十八日庄内藩の降伏で解散。 |
| ■ |
| 奇 銃 隊 きじゅうたい |
| ■庄内藩の洋式銃隊。 |
| ■慶応四年閏四月編成。 |
| ■頭取北原守弥、安藤定右衛門。隊士十数名。 |
| ■官軍の攻勢が激化するにつれ、七月九日坂本口で戦ったのを皮切りに各方面へ転戦した。 |
| ■明治元年九月十八日庄内藩の降伏で解散。 |
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| 集 合 隊 しゅうごうたい |
| ■庄内藩の有志で組織した戦闘部隊。 |
| ■慶応四年七月編成。 |
| ■頭取北楯小八。隊士は藩士子弟、郷士、農町民からなり、和銃、刀槍で武装。総勢六十八名。 |
| ■当初、酒田方面の警備にあたったが、のち北境に出撃、南下する秋田軍を迎え撃った。 |
| ■明治元年九月下旬、解散。 |
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| 銃 兵 隊 じゅうへいたい |
| ■庄内藩が誇る洋式調練部隊。 |
| ■慶応二年春ごろ編成か。 |
| ■隊長阿部藤蔵、隊員五十名。阿部は慶応三年十二月下旬、幕府が薩摩屋敷の焼き討ちを決行した折り、薩摩側と犯人引渡し交渉をした人物として有名。 |
| ■慶応四年閏四月十二日払暁には長駆して志津に達し、のち庄内本道寺方面の戦闘に参加、大活躍をしている。 |
| ■明治元年九月十八日庄内藩の降伏で解散。 |
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