幕 末 諸 隊 総 覧 弐

■所属、■結成の目的および時期、■総督、隊長名、隊員数、■主な戦歴、■解散時期。
朔方隊
さくほうたい
■庄内藩。
■慶応四年五月、蝦夷地派遣の帰還兵で組織。
■総督酒井兵庫、三小隊百五名。総督麾下の三番大隊に付属。
■慶応四年七月十三日、三崎付近の第一次戦闘に参加。同月二十五日、吹浦方面の防備につく。
■明治元年九月十七日、解散。
同 僕 隊
どうぼくたい
■庄内藩。「戊辰荘内戦争録」には「僕隊」とある。
■慶応四年六月ごろ結成か。
■隊長、員数とも不明。
■慶応四年七月十三日、舟形付近の戦闘参加をきっかけに転戦。
■明治元年九月十七日、解散。
亀 城 隊
きじょうたい
■庄内藩。酒田の守備隊。
■慶応四年夏、官軍の酒田上陸にそなえて徴募編成。別名、亀ヶ崎隊。酒田城の名にちなみ亀城隊と称す。
■隊長は新徴組取締時代、御用盗退治で鳴らした俣野一郎右衛門。総勢七百〜八百名で士族隊一小隊、卒隊四小隊、農町兵九小隊、合計十四小隊(十六小隊の説も)からなっている。
■明治元年九月九日、四番大隊の守備地域に増援と決まり、淀川を渡って豊島をめざし、雄物川河畔で戦闘に参加。二日後に糠塚山で戦って敗れ雄物川を渡って退却した。十五、十六日の両日、境と峰ノ山で反撃をこころみたが、いずれも敗れ、中淀川と本荘に退却した。
■庄内藩の降伏で解散。
御厩銃兵
おうまやじゅうへい
■庄内藩。中間隊。
■慶応四年七月ごろ結成か。
■隊長石沢清兵衛、総勢三十五名。中村の最上農兵隊と農兵大砲組。
■慶応元年八月十五日、藩境鼠ヶ関に出陣、二十一日、羽越国境を北上する官軍と戦う。
■明治元年九月十七日、解散。
新 整 隊
しんせいたい
■庄内藩。江戸市中取締りの警察隊。新整組という。
■文久三年五月、藩士の次男、三男で組織。
■取締上野織衛、朝比奈長十、石原数右衛門。総勢九十五名。
■新整組は創設早々、相棒の新徴組と不逞浪士の捕斬に活躍、慶応三年十二月二十五日朝の薩摩屋敷焼き払いでは、その先頭に立った。戊辰戦争中は新整隊と改称、秋田藩をはじめ来攻の官軍と戦った。とくに吹浦口、湯佐方面における活躍はめざましい。
武者筒組
むしゃづつくみ
■新庄藩。庄は荘とも書く。
■慶応四年四月〜五月ごろか。藩士の二、三男で組織。
■隊長名不詳、隊員五十人。
■のち洋銃で装備して藩正規軍の補完部隊となり、一番隊に編入、床内平野に転戦する。
■明治元年九月、解散。
螺 銃 隊
らじゅうたい
■羽州松山藩の施条銃隊。
■慶応四年四月、五月ごろ結成か。
■隊長永井丹治、隊員五十名。
■一隊十六人のライフル部隊で、慶応四年七月二十五日、吹浦方面に出陣し、秋田領赤倉および長浜方面の戦闘で活躍。
■慶応四年九月、解隊。
済 民 隊
さいみんたい
■米沢藩。
■慶応四年五月ごろ結成か。
■隊長仁科越中、隊士百五十名。
■慶応四年六月二十四日、久田、乙茂の戦闘に参加、同地に押し寄せた官兵(高田、金沢)と交戦、隊長は重傷を負って後方に退去するも、残存の兵士は遊軍となって戦闘をつづけ、のち長岡城奪還作戦に参加した。
■慶応四年九月三日、米沢藩の降伏で解散。
剛 士 隊
ごうしたい
■米沢藩。
■慶応四年五月、藩が徴募編成した農兵隊。
■北越方面の長岡軍救援と官軍の会津攻めにそなえて、藩の家老、色部長門が提案徴集したのので、農家の二、三男からなり総勢百十二人。総奉行色部長門。
■北越戦争は五月から七月下旬まで続くが、この戦いで戦死した米沢藩の農兵隊員は二百四十八人。藩士の戦死者二十三人にくらべると十倍の数で、いかに農民壮丁が最前線で、弾除け代わりにこき使われていたかが、これでわかる。
■同年九月三日、米沢藩の降伏で解散。
有 志 隊
ゆうしたい
■米沢藩の農兵隊。
■慶応四年五月、伊佐沢村有志で結成。
■隊長池上小伝次、隊士七十三名。
■調練後、越後小栗山、栃尾、長岡方面に出戦。常に最前線で戦う。
■同年九月三日、米沢藩の降伏で解散
和 銃 隊
わじゅうたい
■米沢藩。
■慶応四年五月結成。
■隊長高梨類蔵か。隊員百五十〜二百名
■淀川、寒河江、椿台方面で活躍。
■慶応四年九月三日、米沢藩の降伏で解散。
三春・奇兵隊
みはる・きへいたい
■三春藩内の有志によって組織された郷士隊。
■慶応四年五月結成。
■隊長河野広中、隊士八十名。
■隊長の河野は二十歳で藩論を勤皇に統一し、人を介して奥羽征討軍の参謀板垣退助に接近、官軍先鋒を願い出て許された。郷士、町人、百姓からなる一隊をつくり、みずから奇兵隊と称して会津攻略戦に参加した。
■明治元年十一月、奥羽の戦乱終結で解散。その後河野は板垣との関係で東日本最初の政治結社(三師社)を創設し、奇兵隊時代の同志を引き連れて東北民権運動のリーダーとなって活躍した。
二本松少年隊
にほんまつしょうねんたい
■二本松藩の藩士子弟よりなる少年隊。
■慶応四年七月下旬、官軍の来攻にそなえ、留守家老、丹羽一学の提唱で城内残留の少年をもって組織。
■隊長木村銃太郎(藩砲術師範役木村貫治の長男)隊士は門下生三十六名で編成。以下副隊長二階堂守衛、隊士久保豊三郎(12)上田孫三郎(13)大島七郎(13)後藤鈔太(13)小川安次郎(13)徳田鉄之介(13)遊佐辰弥(13)岡山篤次郎(13)高橋辰治(13)渡辺駒之助(14)大桶勝三(14)中村久次郎(14)馬場定治(14)宗形幸吉(14)金田熊吉(14)水野進(14)武谷剛介(14)三浦行蔵(15)成田虎治(15)奥田牛之助(16)根来梶之助(16)上崎鉄蔵(16)ら。
■同月二十九日、城外大壇口で官軍と交戦。
■この日の戦闘で隊長以下十五名が戦死、少年隊は壊滅した。
誠 心 隊
せいしんたい
■棚倉藩。
■慶応四年四月ごろ結成。
■隊長平田弾右衛門、隊士十五名。彼らの名前は「戊辰白河口戦争記」にある。
■レンジャー部隊で、彼らの神出鬼没ぶりには官軍も悩まされ、当時、兵士のあいだで「細谷からすと十六ささげ、無けりゃ官軍高枕」という歌が流行った。「十六ささげ」とは、白河地方で栽培される大角豆の一種。彼らの服装は忍者古来のもので、短槍と弓矢を武器とし、その敏速果敢な戦いぶりが「十六ささげ」と恐がられた。
■慶応四年六月、棚倉藩の帰順で解散。
遊 軍 隊
ゆうぐんたい
■官軍草莽隊。
■慶応四年五〜六月、京都か新潟で結成か。
■隊長名不詳、隊員二小隊百名。
■八十里派遣隊となり、慶応四年八月から九月にかけて行動。八月二十九日、鞍掛峠付近の会津藩偵察、九月八日叶津に着き、四日後の十二日には喰丸峠を攻撃、その夜には博士峠に野営して翌日小谷ヶ地方面で戦闘、この地を占領している。
■明治三年解散。
継 述 隊
けいじゅつたい
■福島。
■慶応四年九月、会津落城前後、靖兵隊の永倉新八が組織した一隊か。
■隊長永倉新八、隊士は旧新選組およびその縁故者二十余名。蝦夷へ渡る予定で奔走するが、その後の行動は不明。
■戦歴不詳。
■解散月日も不詳。
白 虎 隊
びゃっこたい
■会津藩の少年隊。
■慶応四年三月十日結成。
■隊士は十五歳から十七歳までの少年で、隊長は日向内記。隊員は上士編成の士中、中級藩士子弟の寄合、下級藩士からなる足軽など各三隊あり、総勢三百名。
■隊長日向内記、隊士有賀織之助(16)林八十治(16)石田和助(16)井深茂太郎(16)西川勝太郎(16)長瀬雄次(16)池上新太郎(16)鈴木源吉(17)津川喜代美(17)伊藤俊彦(17)簗瀬勝三郎(17)石山虎之助(17)津田捨三(17)野村駒四郎(17)篠田儀三郎(17)伊東悌次郎(17)簗田武治(17)間瀬源七郎(17)以上飯盛山で自決。飯沼貞吉(16)自決したが、助かる。 隊長春日和泉、隊士樋口勇四郎(16)鈴木平助(16)遠藤嘉竜次(16)小松八太郎(16)藤森八太郎(16)安恵助三郎(16)高崎駒之助(16)好川滝三郎(16)若林八次郎(16)星勇八(16)坂井源吾(16)鈴木五郎(17)関原重太郎(17)百瀬外次郎(17)岸彦三郎(17)青山重之進(17)山本太郎(17)星八弥(17)佐久間直記(17)西村四郎(17)以上越後口で戦死。
■白虎隊は官軍の会津進攻にそなえ、軍制改革で藩兵の予備軍として誕生、旧幕士官たる大川正太郎、沼間慎次郎にフランス式調練をうけ、戦況の激化にともなって、戦闘部隊として越後口や戸ノ口原方面に出動した。
■明治元年九月二十二日、会津藩の降伏により解隊。
幼 少 隊
ようしょうたい
■会津藩の予備隊。
■慶応四年八月ごろ結成。
■隊長安部井登。隊員は白虎隊よりさらに若い少年で百名前後。
■会津城下の戦闘が激化するにつれ城の内外で戦死。
■会津藩の降伏で解散。
婦 女 隊
ふじょたい
■会津藩の婦人部隊。
■慶応四年八月二十五日、一隊を組織。それまでは城下にあって戦傷者の手当てや炊出しなどに従事していた。
■隊長は才媛の中野竹子。判明せる隊士は竹子の妹蝶子、岡村すま子、神保園子、依田某ら総勢二十余名。
■武器は薙刀が主で柳橋に押寄せてきた長州兵の中へ斬り込むなど、朱雀、青竜、奇勝、敢死、新練の会津諸隊ともども華々しく戦った。
■この日の戦いで竹子と園子は戦死。婦女隊は多くの死傷者を出して、同夜解散した。
朱 雀 隊
すざくたい
■会津の洋式軍隊。
■慶応四年三月十日編成。
■総督佐川官兵衛。その隷下は朱雀士中隊一番から四番までの隊。この他、同番隊の朱雀寄合隊、計千二百名の隊員がいた。隊士の年齢は十八歳から三十五歳まで。各隊はこれを分けて二小隊とし、小隊をさらに分けて分隊とした。幹部として中隊頭、小隊頭、半隊頭をおき、中隊頭には番頭対席、小隊頭には奏者番打込、半隊頭には目付打込の者が任ぜられた。
■会津藩戦力の中核をなす。軍事奉行の直属下で会津戦争中、もっとも勇敢に戦った。八月二十九日、長命寺における戦いでは、勇将佐川官兵衛のもと奮戦し、朱雀三番士中隊は融通寺町門で突撃して官兵を撃退し、朱雀一番士中隊は大垣兵を撃ち破って敵将を仆し、軍旗を奪っている。
■中隊も死傷者続出し、九月二十二日の開城以前に朱雀隊は壊滅した。
青 竜 隊
せいりゅうたい
■会津藩。
■慶応四年三月十日、藩の軍制改革で取立。鳥羽伏見の戦訓にもとづき、会津藩では洋式軍制を採用、藩境警備の部隊として新たに青竜隊を組織した。
■総督、軍事奉行黒河内式部、隊長杉村忠右衛門、蜷川友次郎、横山伝蔵、有賀左司馬、総勢九百〜千名。
■隊士は三十六歳から四十九歳までの藩士を選び、士中三隊、寄合組二隊、足軽四隊に編成して元幕府歩兵士官らがフランス式調練を施した。かくて青竜隊は農町民や地方下人(郷士)で編成された諸隊とともに津川、浜崎、三代、田島方面の防備についた。そして会津攻防の前哨戦から落城まで、おもにこの付近で戦争に明け暮れる。
■会津城下の市街戦がはじまる八月下旬ごろ壊滅。
玄 武 隊
げんぶたい
■会津藩。
■慶応四年三月十日、五十歳以上の藩士で組織。
■総督黒河内式部。隊員四百名。白虎隊諸隊と同時に取立てられた。
■城の内外で勇戦健闘した。
■明治元年九月二十二日、藩の降伏により解隊。
奇 勝 隊
きしょうたい
■会津藩の民兵部隊。
■慶応四年三月十日の軍制改革が行われ、藩正規軍の改組の他、一般から二十歳〜四十歳までの百姓町人が徴募され、これを職種別に編成して数隊をつくった。奇勝隊は僧侶出身の隊で他に修験隊などがある。
■隊長上田新八郎、隊員は二百五十名、小頭には各村方の郷頭、帳書、肝煎がなり、その上に藩士である代官、支配役をおいた。
■八月二十二日、官軍の猪苗代進攻で奇勝隊は白虎、回天、敢死、誠忠の諸隊と十六橋を守り、隊長上田の指揮で善戦、さらに赤井、笹山方面の戦闘では同隊小頭の坂内が八十名の隊員を率いて戦った。
■二十三日、上田戦死。二十九日城下長命寺の戦闘をきっかけに展開された市街戦で奇勝隊は先頭に立って奮戦し、会津落城までのあいだに隊士の半数以上を失って隊は事実上壊滅した。
正 奇 隊
せいきたい
■会津藩の農兵隊。
■慶応四年四月ごろ結成か。
■隊長相馬直登、隊士八十名。屈強な百姓を選りすぐった一隊。
■大内峠、青木関山付近で侵攻の官兵と交戦。
■明治元年九月二十二日、藩の降伏により解散、帰郷。
義 集 隊
ぎしゅうたい
■会津藩。
■慶応四年四月結成。
■隊長辰野源左衛門、隊員八十名。このうち三十名は本隊より分かれて強清水方面で戦う。
■辰野本隊は閏四月二十日真名子より白河を攻撃、五月三日、金田百太郎の分遺隊は長駆して片貝方面の戦闘に参加し、明治元年十月四日、銚子で降伏している。水戸の結城党と行動をともにし、記録によると分遺隊の人数は士分三、夫卒八とある。
■本隊は会津の落城とともに解散。
勇 義 隊
ゆうぎたい
■会津藩。
■慶応四年七月結成。
■隊長佐藤義之助、隊士五十名。主将内藤介右衛門麾下八隊のうち一隊。
■慶応四年八月二十日ごろ、白河口勢至堂に配備され、以後各地に転戦する。
■明治元年九月二十二日、藩の降伏により解散。
新 隊
しんたい
■会津藩。
■慶応四年四月ごろ徴募編成か。
■隊頭坂平三郎。一番隊から八番隊まで、総勢二百名。
■主に遊撃戦兵として活躍、殊に会津城の攻防戦で勇戦健闘した。
■明治元年九月二十二日、藩の降伏により解散。
奇 正 隊
きせいたい
■会津藩の郷士隊。
■慶応四年四月に結成か。
■陣将原田対馬、隊長杉浦大右衛門。隊士約百五十名。
■領内の地方郷士(地方下人)で組織され、神保原から会津城下戦に活躍、土佐の郷士隊同様、その強さは藩正規軍を凌ぐものがあった。
■明治元年九月二十二日、藩の降伏により解散。
修 験 隊
しゅけんたい
■会津藩。
■慶応四年二月、領内の山伏で組織。
■隊長町野源之助、隊員およそ八十名。
■三月中旬、越後口の藩境を警備。故あって朱雀四番中隊付属となる。
■明治元年九月二十二日、藩の降伏により解散。
新 撃 隊
しんげきたい
■会津藩の民兵。
■慶応四年六月、徴募編成。
■隊長天野由次郎、隊員七十名。
■慶応四年九月四日、阿賀野川北側山地、長窪ー大谷間で官兵と交戦、敗走。
■明治元年九月二十二日、藩の降伏により解散。


参考 新人物往来社 三百藩諸隊始末

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The music produced byDR(零式)さん





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