幕 末 諸 隊 総 覧 三
■所属、■結成の目的および時期、■総督、隊長名、隊員数、■主な戦歴、■解散時期。
歩 兵 隊 ほへいたい |
■会津藩。 |
■慶応四年三月、結成。 |
■隊長辰野源左衛門、隊員八十名。 |
■九月以降、城下市街戦で活躍、融通寺口では官軍前哨地の備前兵と激戦を展開、数度にわたって撃退した。 |
■明治元年九月二十二日、会津藩の降伏で解散。 |
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敢 死 隊 かんしたい |
■会津藩民兵。 |
■慶応四年七月、同藩土屋鉄之助(新練隊隊長)の献策により結成。これより前、官軍の会津攻めに備え、同藩は身体強健な百姓町人二千七百人を徴募、これを地域別、職種別に分けて猟師隊、修験隊、奇勝隊などを組織した。ところが実戦にのぞんで、これら諸隊があまりふるわないのを、土屋は身分差別にあるとして藩要路に上申し、敢死隊結成の許可を得た。「敢死ノ士御募リ、町在ノ者タリトモ士中ニ御取リ立テ、御知行百石・・・・」とある。 |
■千人近い応募者の中から二百五十人が選ばれ、敢死隊が創設された。隊長小原信之助、隊士は勇猛果敢な地方下人や百姓である。 |
■敢死隊は藩老西郷頼母に属して冬坂方面に出動し、赤井、笹山方面で激突。この戦闘で小原信之助以下各隊長が死んだ。 |
■以後、敢死隊は先任の小隊頭、川崎尚之助が指揮をとり、八月二十五日小田山をめぐる攻防戦で全滅した。 |
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義 勇 隊 ぎゆうたい |
■会津藩。 |
■慶応四年六月、諸隊に取り立て。 |
■隊長秋月新十郎、隊員八十名。 |
■慶応四年九月一日、大内峠に布陣し、六石山で芸州、宇都宮、大田原の藩兵と交戦。 |
■明治元年九月二十二日、会津藩の降伏で解散。 |
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別 撰 組 べっせんぐみ |
■会津藩。 |
■元治元年、斬込み隊として、佐川官兵衛が組織。 |
■藩士の中から刀槍の使い手を選抜してこれにあてる。会津戦争時、隊長春日佐久良、隊員四十名。 |
■鳥羽伏見の戦いのあと再編成され、会津城下の戦いでも勇戦健闘す。 |
■会津落城以前に死傷者あいつぎ壊滅する。 |
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書 生 組 しょせいぐみ |
■会津藩。 |
■元治元年、日新館の書生で組織。 |
■隊長相馬孫市、隊士七十名。 |
■慶応四年一月三日より始まった鳥羽伏見の戦いでは、別撰組とともに勇戦して名をあげる。 |
■徳川方の敗走後、解散か。会津戦争ではその名が見えない。 |
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神青龍隊 しんせいりゅうたい |
■会津藩。 |
■慶応四年の会津戦末期に徴募編成。 |
■隊頭、五十嵐喜平太か?隊員百四十名。 |
■民兵ゲリラで活躍状況不明。 |
■明治元年九月十五日、仙台藩の降伏とともに一部投降して四散。 |
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力 士 隊 りきしたい |
■会津藩。 |
■慶応四年二月、藩内の力士を徴募して取り立て。 |
■頭取田中源之進、隊員百五十名。田中は同藩の猪苗代城代。 |
■慶応四年三月から四月にかけ、保成峠、天狗角力取山(通称石筵口)に出撃、のち赤谷へ五十名を派遣するも、八月十四日の戦闘で組頭赤埴平八が戦死、苦戦を強いられる。 |
■会津落城で降伏。 |
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鎮 将 隊 ちんしょうたい |
■会津藩。 |
■慶応四年四月中旬ごろ結成。 |
■隊長菅野右兵衛、隊士約二百名。 |
■慶応四年五月三日、水戸の結城党と組んで、房総の片貝戦に参加、以後各地に転戦するも、隊士の三割以上が戦死。四割方が傷ついて戦闘能力を喪失。 |
■慶応四年八月、壊滅。 |
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会 義 隊 かいぎたい |
■会津藩。 |
■慶応元年四月に徴募編成。 |
■隊長野田進、隊士七十名。 |
■同隊前半は義集隊と同じ。慶応四年八月二十五日払暁、坂二番新隊とともに天寧寺および正法寺方面で、薩摩、佐土原藩兵と死闘を展開する。 |
■明治元年九月二十二日、解散。 |
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遊 撃 隊 ゆうげきたい |
■会津藩。 |
■慶応四年二月結成。副総督横山主税麾下。 |
■隊長遠山伊右衛門、隊員百八十名。 |
■慶応四年三月から四月にかけ、追分峠、鶏峠に出戦。七月、赤谷口で官兵と交戦。八月十四日、中隊頭三宅小左衛門戦死。九月十五日、仙台藩の降伏で、隊中旧幕出身者の諏訪常吉ら七十名、蝦夷へ脱走。 |
■残余は会津藩の降伏で九月二十二日、解散。 |
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新 練 隊 しんれんたい |
■会津藩。 |
■慶応四年閏四月結成。 |
■隊長土屋矢之助、隊員数三百八十人。隊士は、ほとんどが地方下人の子弟で二十歳から四十歳まで。 |
■任務は国境の警備。のち官軍が大挙して奥羽進攻を開始するや遊撃部隊となり、日光、白河口方面に出撃。七月、まず三斗小屋、中山峠方面で日光口の官兵と戦う。その支隊は中山口の官軍別働隊と銃火を交えた。日光口の関山では優勢な敵を一手に引き受け、兵員の三分の一を失っている。同隊は、官軍の会津城下突入後も城外にあって戦い、その補給路を絶つなど、ゲリラ戦を展開した。 |
■明治元年九月二十二日、解散。 |
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順 風 隊 じゅんぷうたい |
■会津藩。 |
■慶応四年五月、官軍の来攻に備え、急ぎ藩の有志で組織された一隊。 |
■隊長舟橋捨蔵、隊士百五十名。 |
■八月二十九日、長命寺の戦いで幹部の殆どが戦死。 |
■残余の兵士で相談して同日、隊を解散。 |
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狙 撃 隊 そげきたい |
■会津藩。 |
■慶応四年六月取り立てか。 |
■隊長竹村幸之進、隊士二十五名。総督山川大蔵に付属。 |
■守城中、本丸に待機、時折り出戦して敵の指揮官等を射殺する。 |
■会津落城で解散。 |
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護 衛 隊 ごえいたい |
■会津藩。 |
■慶応四年四〜五月ごろ取り立てか。 |
■隊長西郷寧太郎、隊士約五十名。 |
■白虎隊と異なり、その活躍は詳かでない。 |
■明治元年九月二十二日、解散。 |
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別伝習隊 べつでんしゅうたい |
■会津藩。 |
■慶応四年一月ごろ組織。 |
■隊長工藤衛守、隊士七十〜八十名、うち農兵五十人とある。 |
■会津藩士および農兵で別伝習を受けた隊。慶応四年四月十一、二日、江戸より鴻之台へ脱走、旧幕陸軍士官大鳥圭介の率いる、これまた脱走部隊の後軍として日光に向かい、九月三〜四日両日の関山第二次戦闘に参加。 |
■会津落城で隊士は四散。 |
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赤 心 隊 せきしんたい |
■会津藩。 |
■会津戦争末期に誕生した神青竜隊分隊の改称か。 |
■隊長仁科勇八、隊員約四十名。 |
■ゲリラ部隊として藩境で戦い、明治元年九月十五日、仙台藩降伏の際、隊士三名がこれに便乗して投降する。 |
■明治元年九月二十二日、解散。 |
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信 意 隊 しんいたい |
■会津藩。 |
■慶応四年五月、上野彰義隊の支援隊として組織。のち会津戦争に参加。 |
■頭取武川兵部、隊士約八十名。 |
■五月十五日、上野黒門口で戦い、そのまま会津へ走って国境および城下の戦いで奮戦する。 |
■明治元年九月二十二日、一部の隊士は降伏するも、残余の者は同月十五日以前に、石巻より蝦夷箱館をめざす。 |
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別 楯 隊 べつたてたい |
■会津藩。 |
■慶応四年六月頃結成か。 |
■隊頭関清之進、隊士七十名。会津藩寄合組有志で組織。 |
■同年八月五日、阿賀野川左岸で官兵と交戦したのを皮切りに、各方面で戦う。 |
■明治元年九月二十二日、解散。 |
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猟 師 隊 りょうしたい |
■会津藩。 |
■慶応四年四月二十四日、宇都宮の奪還戦後、今市で組織。 |
■隊長松田英之助、隊員約百二十名。 |
■和銃で武装し、山岳戦を得意とし、地理を利用して官兵を射撃した。同年閏四月十九日、栗原、板倉付近の戦闘に参加。五月一日には茶臼山付近に布陣して、六日には今市界隅の第二次戦闘に加わり、七月二十八日には宝珠山を占領、赤谷口へも一隊を派遣するなど、めざましい働きをみせている。が、やがて勝ち戦も終わり、敗走の日がつづく。 |
■明治元年九月二十二日、解散。 |
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遊 軍 隊 ゆうぐんたい |
■会津藩。 |
■慶応四年三月、取り立て。正規軍の補完部隊。 |
■隊長山室金吾左衛門、武井柯亭。隊士百五十名。 |
■同年十月、八十里越、田島方面に出戦後、会津城下戦では佐川官兵衛の支隊として活躍、随所で暴れまわる。 |
■明治元年九月二十二日、解散。 |
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新遊撃隊 しんゆうげきたい |
■会津藩の傭兵か。 |
■慶応四年二月中旬ごろ結成。 |
■隊長佐藤織之進、隊員百名。正規兵でなく訓練も未熟。 |
■同年三月越後方面に参加、八月二十七日には只見川付近の戦闘に出かけ、陣ヶ峰に布陣して戦った。九月二日に長州兵と交戦して敗走する。この為、四日早朝には陣替えして、大谷東側高地、館ノ原付近に布陣した。同月二十四日、かねて通じていた結城党と組んで水戸城に突入し、反撃されて逃れ、銚子で十五名の隊員が官軍の軍門に降った。 |
■自余の者は北に逃れ、降伏後の仙台藩にたどり着いたところを同地駐留の官兵に捕らえられ、新遊撃隊は壊滅した。 |
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築 城 隊 ちくじょうたい |
■会津藩。 |
■慶応四年月日不詳創設。 |
■隊頭阿部意寿太郎、隊員二百名。 |
■詳細は不明だが、陣地構築専門の土工兵と思われる。 |
■会津藩の降伏で解散か。 |
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報 国 隊 ほうこくたい |
■会津藩。 |
■慶応四年七月頃結成か。 |
■隊長名不詳、隊士六十名。 |
■同年九月一日、大内峠の戦闘に義勇隊と参加。峠の西には六石山があり、芸州、宇都宮、大田原の兵と交戦。 |
■明治元年九月二十二日、解散。 |
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誠 志 隊 せいしたい |
■会津藩。 |
■慶応四年五月結成か。 |
■隊長坂平三郎、隊員百八十名。 |
■東部藩境でゲリラ戦に従事。戦意無く、逃亡者があいついだ。 |
■明治元年九月十五日、仙台藩の降伏に便乗して隊士三十九名が降伏、隊は壊滅した。 |
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敬 身 隊 けいしんたい |
■会津藩。神青竜隊分隊の改称。 |
■慶応四年月日不詳。 |
■隊長二瓶左内、隊士三十五名。 |
■行動は神青竜隊と同じ。東部の藩境で戦う。 |
■仙台藩の降伏とともに隊士七名が投降、隊は壊滅する。 |
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衝 鋒 隊 しょうほうたい |
■旧幕臣による反革命部隊。 |
■慶応四年四月初旬、結成。 |
■元幕府歩兵連隊の指南役頭取古屋佐久左衛門と元京都見廻組の今井信郎が組織したもので、主旨は新潟を軍事占領し、越後諸藩を従えて徹底抗戦を試みるにあった。総督古屋佐久左衛門、頭並隊長今井信郎、隊長内田庄司、参謀楠山兼三郎。フランス調練を受けた旧幕歩兵四百余と帰順部隊三百五十、脱藩者百の計八百五十名。士官七十一名で大砲四門を有する大部隊であった。 |
■同隊は三月九日、下野簗田の戦闘で百人以上が戦死し、そのあと補充した兵士は百姓、町人、あぶれ者の集りで強姦略奪を事とし、行く先々で鼻つまみとなった。しかし、装備だけは優秀で、官軍の北越進攻に際しては、機先を制して飯山城を攻撃し、長岡城陥落後は会津方面に転進して越後口に戦い、このときの差図役改役梶原雄之助の奮戦は特に有名である。頭並隊長の今井は見廻組時代、京都で坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺した男としてのちに話題の人となるが、名代の剣客としても知られた男。同隊は仙台藩の降伏直後、榎本艦隊に投じ、蝦夷の箱館で官軍と戦った。 |
■五稜郭陥落の数日前、古屋は銃創がもとで死亡し、生き残った隊員は明治二年五月十八日、全員が官軍の軍門に降った。 |
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新田官軍 にったかんぐん |
■上州の草奔隊。 |
■慶応元年三月十二日、上州新田、山田両郡の郷士を中心に結成。中心人物は新田義貞の末裔と云われる新田満次郎(俊純)。きっかけは東山道鎮撫総督府が新田一統に与えた令書であった。「新田満次郎、その方儀、祖先左中将(新田貞義)の意志を継ぎ、国家の為忠勤仕りたき趣、再三歎願に及び候に付き、中軍(東山道官軍)に随従申し付け候条、無用の冗兵を除き、精選の士を率い、勉励尽力候べき事」結成に奔走した有志は、郷士の桑原五郎、大館兼三郎、橋本多賀之助、佐々木英之助、石川熊武らで、側面から薩摩藩の中井弘蔵らが尽力した。 |
■隊長新田満次郎、隊員八百名。隊士は「新田陣営班」と「江戸御本営御玄関番」とに分け、陣営班の屯所を上州太田の大光院に置いた。 |
■三月十八日、新田官軍は東山道総督府から上州一帯の百姓一揆の鎮撫を命ぜられて出動、使命を果たした。そして江戸に到着後、因州屋敷で大隊旗を授与され、このあと会津攻めの別働隊として上州戸倉口へ赴き。この方面で奥羽越同盟軍と戦った。八月、江戸に帰還、市中の警備にあたり、十月十三日、明治天皇の東京行幸に際しては沿道の警固役を拝命し、「隊士一同感激・・・」と隊の記録にある。 |
■明治元年十二月解散。 |
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誠 心 隊 せいしんたい |
■足利藩の民兵。 |
■慶応三年三月、戸田長門守忠行の命により、勤皇絵師田崎草雲が徴募編成した。本営は藩の陣屋内。 |
■差図役(指揮官)田崎草雲、隊士百五十余名。調練は隊士を二組に分けて英国式に行われた。武器、服装など装備一切、隊員の負担で採用者はその日から士分格の待遇が与えられた。隊費は草雲の絵を代償とする納金でまかなわれたという。 |
■この隊は元来、脱藩者を慰撫するためにつくられた「誠心組」が母体で、主たる任務は藩内の治安維持にあった。戦闘部隊というよりは警察隊に近い。慶応四年二月幕府脱走兵の出没で北関東の治安が極度に乱れると、草雲は隊士を引き連れて土匪討伐に奔走、三月九日には東山道官軍の一翼となって下野簗田の戦闘に参加し、古屋佐久左衛門の衛鋒隊と戦って大勝した。 |
■明治三年春、解散。 |
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利 鎌 隊 とがまたい |
■壬生藩の草奔隊。 |
■慶応四年四月、下野、壬生に誕生。戊辰戦争中の治安維持、ならびに王政復古の精神を領民に徹底させるのが狙いで神職を中心に編成された。 |
■隊長は神主の黒川豊麿。隊士は下野一帯の神職で総勢五十六人。幹部は黒川豊前、菱沼紀伊、林和泉、刑部善十郎、青木条右衛門ら。 |
■利鎌隊は編成後、付近一帯の治安維持と住民への啓蒙宣撫に奔走したが、同年十二月、新政府の方針を汲んで隊号を廃止した。 |
■明治三年正月五日、自発的に解散。 |
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天 勇 隊 てんゆうたい |
■水戸藩。 |
■元治元年四月、水戸天狗党の挙兵時に編成された戦闘部隊の主力。天狗党は幕府に攘夷の決行と政治改革をせまって筑波山に挙兵したが、このとき、総帥田丸稲之衛門は天勇隊の他に地勇、竜勇、虎勇の三隊をも結成、中軍に藤田小四郎の神衛隊を加えて、大いに気勢をあげた。 |
■隊長水戸藩士須藤敬之進、総勢二百名。隊士は大半が脱藩者や草奔の志士。応援部隊として上州隊などが参加した。 |
■四月三日、天勇隊などの諸隊は山を下り、幕府および水戸藩の鎮圧軍、諸生党の軍と戦って、これを破り、その後各地に転戦、途中で武田耕雲斎、山国兵部の隊と合流して西上したが、行く先々で諸藩の抵抗をうけ、美濃路から逆に北上して加賀藩の軍門に降った。 |
■降伏時、八百人以上いた隊士のうち、三百五十三人は翌元治二年二月十五日から慶応元年二月二十三日にかけて斬られ、残る四百六十五人は遠島や追放、水戸渡しなどになり、天狗党諸隊、本隊をはじめ、地勇、竜勇、虎勇はここに壊滅した。 |
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