幕 末 諸 隊 総 覧 四

■所属、■結成の目的および時期、■総督、隊長名、隊員数、■主な戦歴、■解散時期。
大 発 勢
だいはつぜい
■水戸藩。
■元治元年三月、筑波挙兵直前に結成。
■総元締山国兵部、隊士約千名。
■天狗党鎮派と呼ばれる穏健派。那珂湊の合戦で筑波勢と合流、以後、行動を共にし、途中田沼玄番頭の幕府追討軍を撃破したりして、東山道から雪の美濃路を北上、力尽きて加賀藩の軍門に降った。鎮派として藤田小四郎の筑波挙兵を諫めるつもりが、彼らの熱誠に動かされて、ついに同調する羽目になったのだ。
■元治元年十二月十八日、加賀藩への投降の段階で隊を解く。
神 衛 隊
しんえいたい
■水戸藩。
■元治元年三月、結成。
■総督藤田小四郎、隊員三百人。
■天狗党諸隊の中軍。筑波に挙兵しておおいに尊攘の気勢をあげ、討伐にきた諸生軍や幕府追討軍を迎えて奮戦。
■元治元年十二月十八日、加賀藩への投降により、隊は消滅。
諸 生 軍
しょせいぐん
■水戸藩。安政六年、密勅返還問題を契機に分裂した水戸藩改革派の一部。藩校、弘道館の書生をひきいて一軍を編成、天狗征伐の側にまわったので、この名がある。
■元治元年三月四日の天狗党挙兵前に結成か。中心人物は“三太夫”といわれた佐藤図書、朝比奈弥太郎、市川三左衛門で、いずれも家老格の家柄。彼らは城代家老、鈴木石見守を中心に、天狗党にたいする一大勢力を形成した。
■陳将市川三左衛門、隊士三百〜五百人。主な幹部は前記四名のほか、十数名。
■元治元年春の天狗党挙兵では、幕府討伐隊に協力してこれを討ち、戊辰戦争では市川三左衛門を将として官軍に抗戦、北越、奥羽北関東方面で暴れまわった。慶応四年七月二十八日、天狗党の余類が藩政を掌握した水戸藩では、十月一日、市川勢を城に迎えて、おおいにこれを打ち破った。
■諸生軍は壊滅し、三左衛門は江戸へ逃げた。彼が水戸の捕吏に捕まったのが明治二年の二月二十六日。身柄はただちに水戸表へ護送され、長岡原で生きながらの逆磔となった。
上 州 隊
じょうしゅうたい
■水戸藩。天狗党諸隊の分流。
■元治元年五月末〜六月にかけ、結成。
■隊長田中愿蔵、隊士は上州の博徒など約二百名。
■六月上旬、野洲、栃木宿に本陣をおいた愿蔵は戸田家の陣屋に武器弾薬の提供を申し入れ、断られると町に火をつけ、強奪と殺戮をほしいままにして、さんざん暴れまわった。また七月二十一日には水戸街道の寺井坂から土浦城に大砲を射ちこむなど、その暴状は目に余るものがあった。
■九月二十四日、助川城の攻防戦で敗れた愿蔵は、奥州街道を棚倉の近くまで逃げたところを塙村の代官、森喜八郎の手に捕まり、その場で首を刎ねられ、ここに上州隊は壊滅した。
武 田 隊
たけだたい
■水戸藩。
■慶応四年一月中旬、結成。「今般、復旧仰せ付けられ候については、源烈(徳川斉昭)の遺志を継ぎ、奸徒を掃除し、反正の実行相顕わし、藩屏の任きっと相立ち候よう尽力致すべく候事」――これは岩倉具視が武田一統に与えた激励の書。
■隊長武田金次郎、隊士百三十名(のち三百名)。武田金次郎は越前敦賀で斬首された天狗党の大幹部、武田耕雲斎の嫡孫。その他の隊士もほとんどが越前・敦賀における天狗党殉難者の縁故者たちであった。
■四月、江戸に着いた一行は、小石川藩邸における諸生党の面々に報復の刃を加え、その足で水戸へ急いだ。着くとわらじの紐を解くひまもなく、諸生党につながる面々を屋敷に襲い、天誅の刃を加えた。大寄合頭の芦川市兵衛、矢倉奉行の秋山長太郎、勘定奉行の岡田左次衛門らが次々と殺された。
■めざす市川三左衛門が処刑されたのは、それからずっとのちの明治二年二月も末近いころである。武田隊はこの時点で解散した。報復の鬼と化した武田金次郎の晩年は哀れで、伊香保温泉の風呂番をしていたという。
至 誠 隊
しせいたい
■水戸藩。
■慶応四年三月、結成か。
■肝煎市川三左衛門・朝比奈弥太郎。諸隊長名不詳。隊員六百名。
■会津や越後出雲崎、寺泊方面まで出撃。九月十五日ごろ隊士は半数に激減。また八日市場方面さいごの戦闘にも参加し、『多古藩記』にも「水戸至誠隊、百人ほど……」といった記録がある。
■明治元年十月、奥羽方面の戦争終息で解散か。
真 忠 組
しんちゅうぐみ
■房総九十九里の中央部にある片貝の浪士隊。
■文久三年秋、結成。一統が山辺郡片貝村寄場大惣代中にあてた文書によると、「われらは報国赤心同盟の義士であり……万民の困窮を救うのが目的」で「そのためには悪徳役人を駆遂して、近郷村々の憂いを除去したい」と述べている。
■リーダー格は三浦帯刀と楠音次郎。隊員百八十七人のうち、首謀格七人は村方に住みついた浪人で、他は無宿者や百姓の二〜三男、鍛冶屋、紺屋などの徒弟であった。
■彼らは本拠を小関村の大村屋伊八方におき、八日市場村福善寺と茂原村藻原寺塔中法光院に出先を置くと、同年十二月、行動を起こした。
■元治二年正月十七日未明、関東取締出役馬場俊蔵、渡辺慎次郎、それに東金の板倉内膳正の藩兵が真忠組の本拠地を急襲し、首謀格の三浦と楠を討ち取って、隊は壊滅。
彰 義 隊
しょうぎたい
■旧幕臣と徳川恩顧の有志からなる反革命部隊。
■慶応四年二月二十三日、江戸、浅草本願寺で結成。最初、会の名称を“尊王恭順有志会”と名付けたが、本音は打倒薩長。江戸城における恭順派の巨頭、勝海舟は彼らの暴走を憂慮し、山岡鉄太郎を上野へやり、隊の解散をすすめたが聞き入れないので、暴挙を押さえる手段として逆に江戸市中の取締りを命じた。
■彰義隊は結成当時、頭取に渋沢成一郎、副頭取に天野八郎を選んだが、のち頭取に小田井蔵太、池田大隈守を選び、実権は天野八郎が握った。そうなると、隊内も逐次組織化されて、一組五十人に組頭をおき、その上に頭、頭取並、頭取の階級を設けた。 同時に組を一番隊から十八番隊まで改編、傍系部隊として遊撃、猶興、純忠、臥竜、旭、白虎の六隊、諸藩からの応援部隊として万字、松石、神木、高勝、水心、精忠の六隊が加えられ、総兵力は約四千名。
■彰義隊士の官兵殺傷事件に業を煮やした大村益次郎は、五月十五日、彰義隊討伐の火蓋を切った。
■早朝から午後四時までの戦いで、彰義隊は総敗北して夕方までに壊滅した。
純 忠 隊
じゅんちゅうたい
■美濃、岩手藩
■慶応四年三月、竹中丹後守(重固)の江戸詰有志で結成。
■隊長竹中丹後の守、総勢三百余名。装備は刀槍中心の旧式部隊。服装は小倉袴に鎖帷子、小手脛当、ワラジばき、右肩に七連発銃、左の腰にフランス製革の弾薬入れという大時代型であった。
■鳥羽、伏見の戦で竹中丹後守は若年寄並、陸軍奉行として徳川軍を指揮した。このため征討軍先鋒となった赤報隊の怒りを買い、 岩手の竹中陣屋を襲われて、家老の児玉周左衛門以下、家臣の尽くが恭順の意を表わした。純忠隊の結成は、そうした国許の不甲斐なさにたいする反発もあった。
■五月十五日の上野戦争で純忠隊は谷中門口を守備、池の端茅町方面から押し寄せてくる阿波、新発田、尾張、大垣の諸藩兵と交戦、側面から久留米、大村、佐土原三藩の攻撃をうけて苦戦におちいり、根津方面に敗走して各自思い思いの方向に散ってゆき、隊は壊滅した。
遊 撃 隊
ゆうげきたい
■旧幕
■慶応四年三月、結成。
■隊長村越三郎、隊士百名前後。旧幕遊撃隊の分流で講武所剣士が中心。
■同年五月十五日の上野戦争では黒門口、車坂門、新門などで戦う。
■同日壊滅。
猶 興 隊
ゆうこうたい
■旧幕
■慶応四年三月結成か。
■隊長堀鍵三郎、隊士二百名。
■野戦砲隊でフランス式伝習をうけ、五月十五日の上野戦争当日は黒門、および山王から官兵を砲撃。
■同日の敗戦で壊滅。
臥 竜 隊
がりゅうたい
■旧幕。
■慶応四年四月ごろ結成か。
■隊長間宮金三郎、隊員百名。
■阿部弘蔵の『上野戦争碑話』によると、「臥竜隊は今日の歩兵」とあり、歩兵第一および第八連隊の流れか。上野戦争における守備部署は不明。
■五月十五日、壊滅。
高 勝 隊
こうしょうたい
■高崎藩。
■慶応四年四月に取り立てか。
■隊長宮崎貫哉、隊員三百名。江戸詰めの佐幕派有志で組織。
■同年五月十五日、上野で官軍と戦い負傷者続出。
■隊は四散して壊滅。
万 字 隊
まんじたい
■関宿藩。
■慶応四年四月、同藩江戸詰めの佐幕派有志で結成。卍隊とも書く。
■隊頭久世謙吉、隊士二百名。
■五月十五日の上野戦争では卍の旗を掲げて谷中門を守ったが、官兵の猛攻をうけて根岸方面へ敗走。
■同日、壊滅。
旭 隊
あさひたい
■旧幕。
■慶応四年四月、菜葉隊からの脱走者で組織。
■隊長奥山八十八郎、吹田鯛六。隊士百五十名。
■五月十五日の上野戦争当日、一小隊は黒門口、他は谷中門方面の戦闘に参加。
■この日、壊滅。
精 忠 隊
せいちゅうたい
■浜田藩か。
■慶応四年四月時分に結成か。
■隊長黒谷ソ一郎、隊士二十五名。
■五月十五日、上野戦争に参加。『能久親王事蹟』にもその名が見え、『詳らかならず……』とある。
■この日、隊は四散し、壊滅。
水 心 隊
すいしんたい
■結城藩。
■慶応四年三月、藩のお家騒動がきっかけで彰義隊に投ず。
■隊長藩主、水野勝知、隊士三十八名。
■上野戦争前日の十四日、水野は脱走、神田和泉橋通の津藩上屋敷に幽閉さる。
■この突発事件で上野にいる水心隊がどう動いたかは、詳らかならず。
白 虎 隊
びゃっこたい
■旧幕。会津藩の白虎隊とは別。
■慶応四年四月、元直参有志で結成。
■隊長梶原平馬、隊士約三十名。
■『能久親王事蹟』に名が見えるも全貌不明。
■五月十五日の上野戦争で敗走、隊は消滅か。
松 石 隊
しょうせきたい
■明石藩の彰義隊救援部隊。
■慶応四年四月、同藩江戸詰の藩士によって結成。動機は彰義隊側からの働きかけによる。
■総督大目付、津田柳雪。隊士は藩内佐幕派の急先鋒、百江峰弥ら三十人。
■松石隊は上野の至善院に止宿して谷中門の警備を担当。五月十五日の戦争で活躍した。総督の一子、津田芳之助らがこの日の戦いで戦死。
■敗戦のさなか、柳雪は彰義隊の天野八郎に輪王寺宮を護衛して官軍に送りとどけるよう進言したが、聞き入れられなかった。
神 木 隊
しんぼくたい
■越後、高田藩。
■鳥羽、伏見の戦争直後、徳川譜代の高田藩は京都からの呼びかけで朝廷と幕府の板挟みとなり、苦境に立った。勤王か佐幕か、藩論は二つに割れて紛糾したが、結局は朝旨を奉じて社稷の安泰をはかることで決着した。江戸詰め藩士の酒井良佐、渡辺千之助らはこれを不満とし、同志をさそって慶応四年四月、神木隊――主家の榊原からとる――を結成し、彰義隊に合力することを申し合わせた。
■隊長酒井良佐、隊士八十六名。
■五月十五日、上野で官軍と戦った神木隊は十六名の戦死者を出し、酒井ら脱出組は奥羽に走って各地で官軍と戦い、このあと榎本艦隊に投じて蝦夷に渡り、明治二年五月十八日の五稜郭の陥落まで抗戦した。同年三月二十五日の宮古湾海戦には、第二回天(高雄)に乗り組んで出撃したが、同艦の機関故障で斬りこむことはできなかった。
■五稜郭の陥落と同時に神木隊は解散し、酒井らは身柄を高田藩に護送され、ために同藩は朝廷の疑惑をいっそう深めたという。
玉 砕 組
ぎょくさいぐみ
■野洲、出流山の犠牲部隊。
■竹内啓ら出流糾合隊が旗揚げで移動するとき、出流山に残留して幕軍の攻撃を引きつけるため、慶応三年十二月十二日、周辺の百姓町人で組織。
■隊長川田太郎以下、亀山常右衛門、町田吉太郎、安中武助、三木柾之助、加藤祐松、桑原作蔵、鈴木長五郎、亀山広吉、古橋又左衛門、大島馬之助ら十一名。
■彼らは出流糾合隊の本隊移動にさいし、約束どおり山にとどまって攻撃の幕軍と戦った。
■十二日夜半、討伐隊副将の木村喜蔵隊に攻撃され、全員が壮烈な玉砕を遂げた。「いざとくと死出の高嶺の雪を見ん」これは隊長、川田太郎の辞世の句である。
出流山糾合隊
いづるさんきゆうごうたい
■薩摩屋敷屯集隊の野洲分遣隊。
■慶応三年十一月二十九日、結成。
■隊長竹内啓。隊士は浪人、農町民、医者、学者、博徒などからなり、総勢四〜五十人(現地参加を加えると約二百人)。
■彼らは隊を結成するや、ただちに隊長、竹内啓の指揮で野洲出流山に挙兵した。紙碑に残るメンバーは小川節斎(竹内啓)ら十数名。
■同年十二月十三日、近隣諸藩の討伐をうけ壊滅。
慷 慨 組
こうがいぐみ
■武州、草莽の士による尊攘義軍。
■文久三年春、桃井可堂(儀八)によって組織。
■可堂は建武の中興における新田義貞の義挙を理想とし、岩松俊純(新田義貞の末裔)を盟主に仰ぐべく働きかけた。同志には武蔵、下野、越後の有志をはじめ、遠くは長州、筑後久留米、肥前島原あたりから脱藩者が駆けつけ、この計画に参加した。同志には桃井のほかに須田三九郎、白石益太郎、川田仙松、関口杢、福原美弥助、権藤真郷、梅村真一郎、大楽源太郎、広田精一、金井四郎、村上四郎(相楽総三)、湯本多門之助ら錚々たる連中がいるが、総人数は不明。
■決起期日は文久三年十一月十二日。尊攘義挙のさきがけとして沼田城を奪取し、一同勢揃いのうえ、横浜異人館を焼き打ちするにあった。
■ところが岩松家に出入りし、越後方面の同志である湯本多門之助が違約するにおよび、岩松俊純の自訴となって計画は挫折、同志の多くが捕まって投獄された。
天 朝 組
てんちょうぐみ
■武州、草莽有志による尊攘結社。
■文久二年、渋沢栄一、渋沢喜作、尾高藍香、尾高長七郎、梅田慎之助、武沢市五郎らで結成。
■天朝組の同志たちは家業の藍玉を信州や秩父へ仕入れに出かけ、それを紺屋に売りさばく過程において、時勢に関心をいだき、開国による神州の汚辱、幕政の腐敗を一挙に除こうと決意した。首謀者渋沢栄一、盟約者は前記尾高藍香ら三十名前後。
■かくて彼らは上方の同志と緊密な連絡をとり、慷慨組と同じ日の文久三年十二月十二日に高崎城を乗っ取り、横浜異人館を襲撃する計画を立てた。
■ところが京都における政変――尊攘派の後退――と慷慨組の挫折で計画は頓挫、同志たちの決起は不発に終った。
御 用 盗
ごようとう
■関東攪乱のゲリラ部隊。
■慶応三年十一月、薩摩藩の益満休之助、伊牟田尚平、それに江戸の相楽総三らが組織。別名を薩邸糾合屯集隊とも。
■総裁相楽総三、副総裁水原二郎(落合源一郎)、大監察、苅多稲穂(権田直助)、長谷川鉄之進、科野東一郎(斎藤謙助)、監察、会沢元輔ら五名、輜重長、桜国輔(原三郎)、使番、大谷総司(渋沢謹三郎)ら三名。その他の隊士三百名前後。
■彼らは関東攪乱計画にもとづき、野洲、相州、甲州の義挙計画に着手、あわせて府内の騒擾をもおこなった。
■同年十二月二十五日、庄内および、鯖江、上ノ山、岩槻、ならびに幕府歩兵が、その策源地の三田、薩摩藩邸を焼き払い、壊滅。
竜 虎 隊
りゅうこたい
■徳川慶喜の親衛隊。
■慶応四年二月、慶喜の床机まわりの士で編成。元の名を床机隊という。前将軍、徳川慶喜の東帰後、浅草に屯集し、東本願寺に本営を置く梅沢孫太郎らは隊名を「彰義隊」と改め、上野、東叡山へ移動、彰義隊主流派は「竜虎隊」と称して、浅草茅寺に本営を置いた。
■隊長岡野誠一郎、頭取佐竹勇雄、什長中曽根嘉門、大師堂五郎丸、平隊士として大森良平ら百七十人がいる。
■竜虎隊は、勝海舟より江戸市中取締を命ぜられ、かたわら彰義隊の帰順工作をおこなったため、主家を売るものとして激しく非難された。
■同年四月十日、前将軍の水戸移転後、精鋭隊と交代、下谷、三味線堀に屯営を移し、「徳川家臣屯所」と名付けた。五月十五日の上野戦争で解散。
補 兵 隊
ほへいたい
■幕府。
■元治元年八月、来るべき長州征討にそなえて編成された大公義の正規軍。
■歩兵頭並岡部造酒之助、総勢二百名。
■隊士は直参子弟が中心でフランス式調練がほどこされ、あとは進発を待つのみとなった。
■ところが同年十月、長州藩が謝罪恭順を申し入れたため、ひとまず待機し、のち解散となった。
撒 兵 隊
さんぺいたい
■旧幕歩兵。
■慶応三年の軍制改革で取り立てられた戦列軽歩兵の総称。ところが同四年四月、その大半が徳川慶喜の恭順に反発して脱走、放浪の野戦軍団と化し、いつしか「撒兵隊」の名で呼ばれるようになった。
■指揮官元歩兵頭、福田道直、兵員約五百名。
■房総方面に脱走以来、近郷近在の小大名や豪農商から金穀を掻き集め、住民の顰蹙を買った。
■慶応四年閏四月三日、舟橋で追討の備前岡山、勢州津の藩兵と戦って惨敗を喫し、壊滅。
振 武 軍
しんぶぐん
■旧幕臣による反革命部隊。
■彰義隊から分裂したもので、慶応四年春、武州北多摩郡田無村で結成。
■主将渋沢成一郎。隊士は一橋家ゆかりの者が大半を占め、軍資金は多摩地方に縄張りをもつ甲州の侠客黒駒の勝蔵が提供した。総勢四百名。
■隊士は河合彦太郎らで隊伍を組んで武蔵の飯能へ繰りこんだ。
■そこへ上野彰義隊を破った官軍が駆けつけ、五月二十三日これと交戦、振武軍はあっけなく壊滅した。
甲陽鎮撫隊
こうようちんぶたい
■幕府が元新選組隊士に編成させた一隊。
■慶応四年二月中旬、江戸で結成。
■隊長近藤勇、副長土方歳三。隊員は新選組生き残りと浅草弾左衛門配下の身内が中心で、総勢百五十人。装備はフランス式。主な隊士は、永倉新八、原田左之助、山口二郎、尾形俊太郎、大石鍬次郎、川村隼人、岸島由太郎、矢田賢之助、中村玄道、大谷勇雄、安富才助、神崎一二三、島田魁、林信太郎、小原幸造、近藤芳助、志村武蔵、久米部正親、尾関精一郎、前野五郎、中村小三郎、西岡万助、野村利三郎、相馬主計、蟻通勘吾、田村一郎、富永政之助、山野八十八、玉置伊之助、土方幸太郎、岩崎一郎、松原新太郎、松本喜三郎、中条常八郎、梅戸勝之進、荒木信太郎、小幡三郎、三品次郎、その他。
■三月六日、鎮撫隊は甲州勝沼の要衛柏尾山で土佐、因州の兵と会戦。
■戦闘数時間にして壊滅し、八王子方面に敗走。


参考 新人物往来社 三百藩諸隊始末

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The music produced byDR(零式)さん





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