幕 末 諸 隊 総 覧 五
■所属、■結成の目的および時期、■総督、隊長名、隊員数、■主な戦歴、■解散時期。
春 日 隊 かすがたい |
■甲陽鎮撫の応援隊。 |
■慶応四年三月、武州多摩日野宿の名主・佐藤彦五郎の肝煎りで組織。 |
■隊長佐藤彦五郎俊正。隊士は佐藤道場「天然理心流」の門弟有志が中心。一時は百名を超えた。池田七三郎・井上松五郎などの名がある。 |
■同隊は最初、後方で兵糧の輸送などに従事していたが、戦闘がはじまるや四十名が参戦。三月六日、柏尾山岩崎谷で戦った。 |
■同日、官軍の猛攻をうけて敗走、壊滅。 |
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靖 兵 隊 せいへいたい |
■旧新選組と旧幕関係者による会津救援隊。 |
■慶応四年三月中旬、江戸で結成。中心人物は旧幕府学問所取締で剣客の芳賀宜道と新選組隊士の永倉新八ら。 |
■隊長芳賀宜道、副長永倉新八、原田左之助。幹部は矢田賢之助、林信太郎、前野五郎、中条常八郎、松本喜三郎ら。総勢百名(旧新選組五十名、旧幕府歩兵五十人)。 |
■靖兵隊は江戸開城と共に各地に転戦、宇都宮攻防戦では勇名をとどろかして、のち会津にむかった。 |
■会津落城の前後、隊士は四散、一部は蝦夷の箱館へむかった。 |
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貫 義 隊 かんぎたい |
■旧幕脱走の抗戦部隊。 |
■慶応四年四月、結成。 |
■隊長松平兵庫頭(松平太郎とは別人)のち村上求馬と交代。隊士約百名。 |
■徳川慶喜の恭順策に反発し、江戸より国府台に脱走、誠忠、回天の両隊と行動を共にする。のち小山で大鳥軍に合流し、宇都宮、今市付近、会津、さらに箱館で戦う。 |
■明治二年五月十八日、五稜郭の陥落で降伏、解散。 |
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誠 忠 隊 せいちゅうたい |
■旧幕脱走の抗戦部隊。 |
■慶応四年四月、結成。 |
■隊長山中孝司、隊員五十〜八十名。 |
■国府台へ脱走後、貫義、回天と行動を共にし、大鳥軍に合流後は小山、岩井で戦い、敗走。 |
■その後、官軍に追撃され四月下旬、捕まって千住宿で武装解除された。 |
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回 天 隊 かいてんたい |
■旧幕脱走の抗戦部隊。 |
■慶応四年四月、直参有志で結成。 |
■隊長相馬左近吾、藤沼幸之丞。隊士百五十〜二百名。 |
■同年四月十一日、国府台に脱走後、回天右隊(相馬)、回天左隊(藤沼)に分かれ、貫義、誠忠の友軍と大鳥軍の一翼になって北走進撃。 |
■明治元年九月二十二日、会津落城で一部は降伏するも、他はそれ以前に蝦夷箱館へ。 |
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草 風 隊 そうふうたい |
■旧幕脱走兵によって組織された反革命部隊。 |
■慶応四年四月十二日、元幕府陸軍奉行、大鳥圭介の脱走に呼応して市川の鴻ノ台に屯集の旧幕臣は一隊を組織、打倒薩長の気勢を上げた |
■隊長天野花陰と村上求馬。隊士はフランス式伝習をうけた旧幕歩兵の精鋭で総勢百人。 |
■大鳥のすすめで、他の脱走部隊と共に日光へ。その途中、結城街道武井村で官軍と遭遇、同隊の鈴木弥七郎の小隊がこれを撃退、このあと、小山→壬生→宇都宮と転戦して、会津、蝦夷箱館の戦では勇名を馳せた。隊長村上求馬は鬼怒川で戦死。 |
■明治二年五月十八日、箱館五稜郭の陥落で降伏、解散。 |
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純 義 隊 じゅんぎたい |
■旧幕直参有志からなる抗戦部隊。 |
■慶応四年四月に組織。 |
■隊長渡辺綱之助。隊員二百九十七人(降伏当時)。 |
■四月十二日、江戸より国府台へ脱走、回天、誠忠と行動を共にし、ほどなく大鳥軍と合流、その後は岩井、安塚、日光田島方面に転戦、閏四月二十日には白河を攻撃、さらに六月二十九日に仙台藩の客兵として平潟口の戦闘に参加している。 |
■明治元年九月二十四日、仙台藩の降伏を知って隊長以下全員投降。 |
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帰 正 隊 きせいたい |
■官軍帰順の旧幕歩兵二十六隊から精選された奥羽征討部隊。 |
■慶応元年七月、官軍の兵力不足を補うために江戸で編成された。装備は優秀だったが戦意欠如。 |
■隊長原六郎(丹波、山国隊司令士から転任、のちの進藤俊三郎)。隊員八十八名。 |
■原は上野、彰義隊の討伐戦で、官軍の覆面部隊として因州藩兵と共に山内に潜入し、攻撃の官軍を勝利に導いた影の功労者。帰正隊は奥州、相馬の中村城攻略戦に参加、この後の蝦夷進攻作戦ではかつての同僚である旧幕軍と戦い、敵の嘲弄と疑惑の中で苦しい戦いを続けた。 |
■明治二年五月十八日、北海道の戦争終結に伴い、東京に凱旋、市中警備にあたったが、四年春、解散。 |
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菜 葉 隊 なっぱたい |
■旧幕抗戦部隊。 |
■慶応四年四月、横浜居留地警備の旧幕兵二大隊で組織。別名、青羽織隊。緑の羽織を着ていたので、この名がある。 |
■隊長吹田鯛六、隊員五百名。 |
■慶応四年三月六日、甲州勝沼、柏尾山で土佐、因州の連合軍に破れた近藤勇の甲陽鎮撫隊が救援をもとめても応じなかった。その余党は彰義隊の傍系部隊「旭隊」に投ず。 |
■戦歴、解散とも不詳。 |
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浮 撃 隊 ふげきたい |
■衝鉾隊の分流。 |
■慶応四年閏四月、高田藩の裏切りに遭った直後、組織。 |
■隊長飯原貫一郎、隊員八十名。 |
■五月十三日、榎峠をめぐる攻防戦で長州の奇兵隊と戦う。 |
■その後の行動不明。 |
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本圀寺組 ほんこくじぐみ |
■水戸藩。 |
■文久三年三月、水戸、天狗党系の有志で組織。 |
■幹部大場一心斎ら。隊士は天狗党系の在京藩士、神官、郷士等から御所警衛部隊。総勢三百余名。 |
■慶応四年一月二十日、本圀寺組は諸生党討伐の勅書を守って江戸に下り、二月二十日、江戸城で水戸藩主、徳川慶篤に渡すことに成功、これによって諸生軍幹部の処罰が決定した。三月九日、諸生軍の市川ら幹部は城内に集まって反抗を企むが十日払暁、元家老の尾崎為貴が数百名の兵を率いてこれを急襲した。 |
■十日夜、諸生軍の市川三左衛門は兵五百を率いて会津へ。本圀寺組はこの後解散か。 |
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千 人 隊 せんにんたい |
■武州八王子、千人同心の流れを汲む隊。 |
■慶応元年九月結成、幕府陸軍奉行の支配に属した。 |
■隊長名不詳、隊員は三、四百名か。 |
■同二年六月、幕府の第二次長州征伐に「千人隊」として活躍、小倉口で高杉晋作の奇兵隊と戦って無残な敗北を喫した。 |
■八月二十一日、将軍徳川家茂の死去にともなう征長停止で解隊。 |
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精 鋭 隊 せいえいたい |
■前将軍、徳川慶喜の警護隊。 |
■慶応四年一月、慶喜の東帰後、慶喜の身辺を危ぶむ恭順派の勝海舟と大久保一翁が中条金之助に命じて作らせた。 |
■隊長は直参で剣客の中条金之助。隊士は旗本子弟の中から使い手七十余人を選んでこれにあてた。 |
■二月十二日、慶喜が上野東叡山の大慈院に蟄居するや精鋭隊士もこれに従い、慶喜の身辺を警護した。慶喜の水戸退去にも一部が随行し、徳川家の静岡転封後は同地に移住している。 |
■明治元年秋、解散。隊士は金谷ヶ原の開墾に従事し、余生を送ったという。 |
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士 官 隊 しかんたい |
■旧幕の抗戦部隊。 |
■慶応四年六月頃結成か。伝習士官隊とは別で振武軍の分流かと思われる。 |
■隊長不明。渋沢成一郎説もある。隊士約三十名。 |
■北走して仙台方面から蝦夷箱館へ。 |
■明治二年五月、五稜郭の陥落前に投降。 |
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小彰義隊 しょうしょうぎたい |
■旧幕抗戦部隊。 |
■慶応四年閏四月ごろ結成か。 |
■隊長小林清五郎、隊士五十四名。 |
■明治元年九月十五日、仙台藩の降伏により蝦夷へ渡るも詳細な戦闘記録はなし。 |
■明治二年五月十八日、五稜郭の陥落で投降。 |
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遊 撃 隊 ゆうげきたい |
■明治元年四月、旧幕府の撒兵頭、福田道直、主戦派有志代表の人見勝太郎らによって組織された抗戦部隊。 |
■鳥羽、伏見の戦いで破れた遊撃隊は東帰後の四月十五日、江戸から木更津へ脱走、房総の諸侯と気脈を通じ、請西藩主、林忠崇(昌之助)の一軍を加え、海を渡って西相模の小田原藩と提携し、箱根を押さえて官軍の本拠、駿府を衝く作戦を立てた。 |
■福田はこの直後、意見の相違で脱退したので総督に林忠崇をいただき、人見と伊庭八郎が隊長となって全軍を指揮した。隊士は旧幕臣と請西藩士で二百八十人。 |
■閏四月、遊撃隊は真武根陣屋を出発、館山湾の柏崎から和船で乗り出し、十二日、真鶴に到着、五月上旬に沼津城の東に陣を構えた。一時、箱根の嶮をおさえたが、官軍と小田原藩に攻められ、海路、館山に敗走して以後は東北から蝦夷箱館方面に転戦した。 |
■明治元年十月三日、林忠崇は家臣十九人と共に官軍に降伏、人見らは五稜郭の落城まで戦い、この後全員降伏した。 |
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断 金 隊 だんきんたい |
■官軍支援の農民兵。 |
■慶応四年三月、征東軍の甲府城占領を契機に結成。甲州進撃を前に東山道官軍の参謀乾退助は姓を板垣に改め、間諜を甲州領内に放って「官軍参謀の板垣は武田の四天王、板垣信形の子孫である」と宣伝させた。領民はこれを聞いて板垣を支援する一隊を組織し、土佐藩兵の別行動隊として従軍を申し出た。参考までに、土佐藩が戊辰戦争で動員した兵力は二百七十人。 |
■総督板垣退助、大軍監、小笠原唯八。隊士は百五十名で洋式装備。 |
■断金隊は土佐藩兵の先鋒として壬生、安塚に戦い、本隊と合して日光へ進撃、大鳥圭介率いる旧幕軍を撃破した。のち白河から会津に入り八月二十三日、戸の口、大野原方面で激戦を展開、小笠原唯八、三番隊長、小笠原謙吉らが戦死、負傷者四十二人を出した。 |
■明治元年秋、断金隊は解散した。 |
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護 国 隊 ごこくたい |
■甲州。 |
■慶応四年三月、断金隊と相前後して組織された甲州郷士による一隊。 |
■総督板垣退助、隊士約百名。 |
■戦歴は断金隊と同じ。 |
■明治元年十一月、解散。 |
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長 養 隊 ちょうようたい |
■新発田の郷土防衛隊。 |
■慶応四年春、奥羽方面の政情不安に備え、藩士および藩内有志で組織。 |
■隊長窪田正順、隊士約二百名。 |
■会津、米沢、仙台、庄内、長岡など、奥羽越同軍の侵攻に備えたもので、大砲三門と新式の洋銃で武装、藩境に出撃して勇戦した。 |
■明治二年春、解散。 |
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五泉民兵 ごせんみんぺい |
■越後。 |
■慶応四年四月、沼津支領、五泉地方の草莽有志で組織。 |
■隊頭惣百姓の佐藤助右衛門、隊員は平田国学の同士らおよそ八十名。 |
■越後地方は小藩分立して力がなく、奥羽越同盟ができると結局それに従わざるを得なかった。沼津藩の飛地である五泉地方も例外ではなかった。そんな中、平田国学を信奉する惣百姓の佐藤助右衛門は、進攻の官軍に通じてゲリラ戦を行うことを決意し攪乱戦術を展開した。また長岡城の攻防戦では官軍の案内役を買って出た。 |
■明治元年九月末、解散。 |
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北 辰 隊 ほくしんたい |
■越後、水原の草莽隊。 |
■慶応四年三月、結成。 |
■隊長遠藤七郎、隊士約百七十名〜二百名前後。庄屋、名主階級の子弟が中核で、兵の質と練度、それに武器の優秀さは越後草莽諸隊中随一と言われた。 |
■慶応四年五月八日、北陸道鎮撫使、高倉三位の高田着陣からはじまり、官軍の榎峠攻撃には嚮導先鋒隊として戦った。以後、長岡城の攻防戦、栃尾、福井方面の戦闘に参加。北越の制圧後は庄内に進撃、始終戦闘部隊として華々しい戦いをみせた。 |
■明治三年正月、政府の命令で居之、金革と共に上京、「第三遊撃隊」として首都警備にあたったが、薩長優先の差別的な処遇などを不満とし、他の二隊と共に解散、帰農を願い出て、同年九月二日に許可された。 |
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高 松 隊 たかまつたい |
■京都。 |
■慶応四年一月、編成。 |
■提唱者小沢雅樂助、斯波弾正。隊員九百〜三千名と誇張。 |
■勅使、高松実村卿を擁する甲府城攻略部隊と称し、金穀、および兵員を裕福な町家から強請する。 |
■同年四月三日、偽勅使と糾弾され、四散。 |
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松 代 隊 まつしろたい |
■信州、筑摩地方の草莽隊。 |
■慶応四年八月、伊奈県令、北小路俊昌が国学を信奉する豪農、名主階層に呼びかけて徴募。 |
■総嚮導樽沢信之助、隊士八十名。 |
■編成された隊士は訓練もそこそこに出征したが、南部藩の降伏で奥羽が平定したため暫く待機ののち明治二年四月六日、箱館へ向かう。弘前藩隊長、木村松之助の指揮下に入り、五月十六日の箱館口の戦闘では最前線に立って戦い、勇名を轟かせた。総嚮導の樽沢はこの戦闘で戦死。 |
■明治二年十一月、解散。 |
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斉 武 隊 せいぶたい |
■甲州か。 |
■慶応四年三月、官軍参謀、板垣退助の提唱によって甲州の草莽有志で編成した小荷駄隊。 |
■隊長土佐藩輜重奉行、早崎益。隊員八十名。 |
■同年四月二十三日、早崎隊長逃亡の為宇都宮戦に出遅れる。以後斉武隊は今市付近の戦闘に参加、この後、小佐越、宇都宮方面で戦い、会津方面に転進して、母成口主力軍の一翼となって会津城攻略戦に参加。 |
■明治元年十月、帰国解散。 |
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聚 義 隊 しゆうぎたい |
■越後の博徒よりなる会津応援隊。 |
■慶応三年十月、西浦原軍弥彦村観音寺の博徒が中心。 |
■隊長松宮雄次郎、総勢四十名前後。 |
■与板、島崎、指出の激戦に参加、勇戦。 |
■明治元年九月二十二日、会津藩の降伏により解散。 |
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桓 虎 隊 かんこたい |
■越後草莽諸隊の一つ。 |
■慶応四年一月、結成。 |
■隊長名不詳、隊員五十名。在方の豪農商――主に国学徒――で組織。 |
■装備も優秀で北越から会津方面に転戦。 |
■九月の会津落城で帰郷、解散。 |
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正 気 隊 せいきたい |
■越後の農兵隊。 |
■慶応四年七月、越後岡方組四十八ヵ村の大庄屋、曽我長左衛門が官軍の北越進攻を機に村方有志で組織。協力の意を示した。 |
■隊幹部、曽我長左衛門ら。隊士は長戸呂村、森下新田など四十八ヵ所村の農村子弟など四十名。 |
■戦歴は詳らかでないが、「北辰隊」に似た活躍をしたものと思われる。 |
■明治元年十月頃解散、全員が帰農した。 |
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方 義 隊 ほうぎたい |
■越後の草莽隊。 |
■慶応四年二月中旬、北陸道先鋒総督、高倉三位の要請により組織された。 |
■隊士は陽明学者、斎藤赤城門下の高橋竹之介、二階堂良硯らで総勢百五十人。百姓、庄屋、医者などからなる文字通りの草莽隊。 |
■隊士を上越と下越の二方面に分け、前者は室孝次郎、後者は二階堂良硯が隊長となって、征討戦に参加した。 |
■同年九月二十六日、隊号を「居之隊」と改める。 |
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居 之 隊 きよしたい |
■越後の草莽隊。 |
■慶応四年二月中旬、越後三島郡坂谷村で結成。最初の隊名を「方義隊」という。詳しくは上記「方義隊」を参照のこと。 |
■隊長(上越)室孝次郎、(下越)笠原勘之助。隊士百五十名前後。 |
■北越戦争で方義隊は各地に転戦したが、官軍参謀、山県狂介に睨まれ、「草莽徒輩が総督下賜の大隊旗を持つなど慮外千万」とその返上を強く要求された。同年九月二十六日、方義隊は庄内方面に転進。 |
■戦乱鎮定後は越後、水原に駐屯し、のち加茂町に移った。本陣は大昌寺。その後、第三遊軍隊として上京したが、明治三年九月二日解散。 |
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金 革 隊 きんかくたい |
■越後草莽諸隊の一つ。 |
■慶応四年春、越後、俵柳村で結成。越後の豪農、小林政司が私財を投じて作った。 |
■隊長小林政司、隊員約百七十人。居之隊の二階堂は金革隊を「無頼ノ悪少年、眼ニ一丁字ナシ」と評しているが、装備はきわめて優秀であった。 |
■同隊は北越、東北方面では戦闘部隊というより、総督高倉三位の親兵として情報連絡、偵察、あるいは官軍本隊の案内嚮導をつとめ、戦乱鎮定後は越後、水原に駐屯した。 |
■明治三年正月上京、「第三遊軍隊」として帝都警備の任を拝命、金革隊は消滅。 |
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