幕 末 諸 隊 総 覧 完

■所属、■結成の目的および時期、■総督、隊長名、隊員数、■主な戦歴、■解散時期。
社 僧 兵
しゃそうへい
■長州藩。
■文久三年五、六月の馬関攘夷戦に刺激されて寺社の神主、僧侶で編成された大砲隊。
■隊長僧円教、隊士百六十名。
■馬関攘夷戦、禁門戦争、四境の役に参加。
■慶応三年、藩の軍制一元化で解散。
武 揚 隊
ぶようたい
■岩国領。
■慶応三年十一月、上方の情勢緊迫化にともない、岩国領の武士と民間有志で組織された軍隊。
■隊長名不詳、隊員百名。
■戊辰戦争に出征し、関東から奥羽方面に転戦。
■明治二年十一月、藩の常備軍編成で解散。
宣 徳 隊
せんとくたい
■吉敷毛利家。
■文久三年、攘夷戦にそなえて吉敷毛利家の家臣有志で結成。
■隊長服部哲次郎、隊士三十六名。
■吉敷隊として元治元年七月十九日の禁門戦争に参加。同二年一月の高杉晋作の挙兵――俗論党討伐――では吉敷隊の残党が奇兵、遊撃、御楯の三隊と共に戦う。
■俗論党政権崩壊後、解散。
驍 衛 士
ぎょうえいし
■吉敷毛利家。
■文久三年、宣徳隊に対抗して組織された保守派家臣団の一隊。
■隊頭井上八郎、隊士約六十名。
■萩の俗論党政府に加担。
■元治二年一月、本藩俗論党政権の崩壊直後に解散。
回 天 軍
かいてんぐん
■須佐益田家。
■元治禁門の変の責任を取って屠腹して果てた主人、益田右衛門介の名誉回復のため元治二年二月に結成された討幕軍。
■隊頭大谷撲助、隊員約三十名。
■来るべき幕軍との戦いを夢見て調練に励むも、慶応元年十月、北第一大隊に編入。
■同月をもって回天軍は解散。
北 強 団
ほっきょうだん
■須佐益田家。
■元治元年二月、下級武士と百姓で編成された保守派の軍隊。
■付属邑政堂、隊士八十名。
■回天軍と争い、家中を二分。
■慶応元年十月、北第一大隊に編入され、隊は解散。
竜 虎 隊
りゅうこたい
■高松藩の農兵隊。
■文久三年、同藩の勤王家で兵学者の藤川三渓(忠猷)の提唱により藩地で徴募編成。
■軍用役藤川三渓、隊員約五百名。
■編成後、男木、女木両島の守備を命ぜられたが、三渓の投獄後は禁門の変や第一次長征討伐に狩り出された。鳥羽伏見の戦で徳川勢に加担した高松藩は朝敵となったが、藤沢南岳(恒太郎)や三渓の奔走によりその汚名を返上し、慶応四年四月、庄内方面征討軍、沢為量総督の覆面部隊として活躍した。
■明治三年、藩命により解散。
海 援 隊
かいえんたい
■坂本龍馬が興した廻漕、貿易会社。当初は「亀山社中」または「亀山隊」と称した。
■慶応三年四月、海援隊と名付け、中岡慎太郎の陸援隊と合わせ「翔天隊」とも言う。事業内容は海援隊規約にある「運輸、射利、開拓、投機、本藩ノ応援ヲ為スヲ以ッテ主」としたが、藩付属は名儀だけで、内実は藩の商館「開成館」の駐在官である後藤象次郎の援助をうけ、独立して行動していた。
■隊士は坂本龍馬、近藤長次郎、陸奥陽之助、沢村惣之丞、池内蔵太、高松太郎、千屋寅之助、新宮馬之助、安岡金馬、石田英吉、長岡謙吉、野村辰太郎、吉井源馬、山本復輔、坂本清太郎、宮地彦三郎、中島作太郎、山本竜二郎、渡辺剛八、三上太郎、小谷耕蔵、腰越次郎、佐々木栄、白峰駿馬、橋本久大夫、佐柳高次ら土佐をはじめ越前、越後、讃岐、紀州等の脱藩者二十六名。各自の特技と志望により、文武、器械、測量、運用、医学等の専門分野を担当した。
■亀山社中時代より、政治、軍事面でも多彩な活躍を見せる。慶応二年六月には坂本龍馬の薩長軍事同盟を成立させたり、同年六月から始まった幕長戦では桜島丸で小倉口の幕軍に艦砲射撃を加えたりしている。
■慶応三年十一月、坂本、中岡の二人が凶刃にたおれてから隊の経営は不振におちいり同四年閏四月二十七日、解散。
陸 援 隊
りくえんたい
■土佐藩。
■慶応四年七月、土佐草莽の中岡慎太郎が土佐藩政、佐々木高行の許可を得て同藩の京都白河屋敷を根城に諸藩の志士や十津川郷士を収容して組織した一隊。母体は文久二年十月江戸に下向する前藩主山内容堂に随行した尊攘派の五十人組。
■隊長中岡慎太郎、幹部香川敬三、田中顕助、中島信行ら。隊士五十名。
■彼らは幕府の浪士弾圧に徹底的に対抗するとともに、討幕の尖兵たらしめようとした。中岡の死後、隊士は岩倉具視の密命を受け、同年十一月侍従、鷲尾隆聚を擁して高野山に拠り、紀州藩の動きを背後から牽制している。
■鳥羽伏見の戦争直後、陸援隊は解散、隊士はそれぞれ征討軍に身を投じて各地に転戦した。
錦 花 隊
きんかたい
■高松藩の正規軍。
■慶応三年暮れ、時勢の緊迫化にともない結成。隷下の諸隊に誠意、守城、霧豹、風虎、応宜、任勢がある。
■総督家老小夫兵庫正容、指図役三宅勘解由、隊士五百名。隷下諸隊各二百名前後。
■高松藩は鳥羽伏見で朝敵となるが、勤王家の藤沢南岳や藤川三渓らの奔走によってその汚名を返上、藩兵五百名を江戸に派遣すると共に新しく隊長に任命された木村与之助が錦花隊を率いて仙台方面に転戦した。
■明治二年十二月、藩の兵制改革で錦花隊は唯神、唯機、玉淵の三隊に編成替え。さらに明治二年、尚武、刺撃、唯神、唯機、玉淵、守城の六隊に組替えられたが同年十二月二十八日に解散。
梅 花 隊
ばいかたい
■讃予諸島の警備隊。
■慶応四年一月下旬、海援隊書記、長岡謙吉が組織。鳥羽伏見の戦いで朝敵となった高松、松山両藩に恭順を斡旋した長岡が、土佐藩に移管された讃予諸島の管理を代行するためにとった措置である。
■隊長長岡謙吉、兵員百二十名前後。
■隊を作った狙いは島民の不安と動揺を除く事であり、男木、女木の両島をはじめとした管内諸村の治安維持にも精を出した。
■慶応四年秋、讃予諸島の倉敷県移管で解散。
新海援隊
しんかいえんたい
■土佐藩。
■慶応三年暮れ、坂本龍馬亡き後海援隊書記、長岡謙吉によって組織された旧幕領小豆島の占領治安維持隊。
■隊長長岡謙吉、隊士十一名。
■同四年一月、長岡が讃予諸島の警備隊「梅花隊」の隊長となったために、しばらく御預けとなる。
■慶応四年一月下旬、解散。
戦 士 隊
せんしたい
■徳島藩。
■慶応四年一月、討幕戦用に取り立て。
■総督州本城代、稲田九郎兵衛、隊士約三百名。
■清水港に入港の官軍艦船警備や江戸市中の治安維持に活躍。
■明治三年五月十三日の稲田騒動直後に解隊。
機 勢 隊
きせいたい
■土佐藩。
■慶応四年、藩内宿毛地方の有志で結成。
■隊長斎藤治一郎、隊士約八十名。
■元陸援隊士が中核で、東山道先鋒鎮撫総督の本隊に属し、のち北関東から奥羽方面に転戦。
■明治二年の藩常備軍の設置で解散。
迅 衛 隊
じんしょうたい
■土佐藩。
■慶応四年一月六日、討幕戦用の上京部隊として高知で編成。隊士は徒士、郷士、庄屋、地下浪人が大半で、土佐藩武力討幕派の乾退助がこれを統率した。
■総督家老深尾丹波、大隊司令乾退助、大軍監小笠原唯八でその下に半隊司令が置かれた。隊員総数六百人(軍夫あわせて一千人)。
■高松藩を恭順させた迅衝隊は一月二十八日入京、二月二十四日、東山道官軍の右翼別働隊として進撃、甲州から江戸→新宿→野洲→会津と怒涛の進撃を続け、赫々たる武勲を立てた。
■明治三年十一月、解散。隊士は戦功により全員が“新士族”に登用された。
胡 蝶 隊
こちょうたい
■土佐藩。
■慶応四年一月、討幕部隊として馬廻の上士階級で編成された洋式部隊。同隊は慶応三年末、上京部隊として「侍別撰小隊」が編成され「軽格別撰小隊」が編成され、前者の代表的なものが本項の胡蝶隊である。
■総督家老深尾丹波、隊士四百名。
■一部は泉州、堺の警備にあたる。戊辰戦争中の行動は迅衝隊とほぼ同様だが、四月二十二日、下野、安塚の戦いで土佐藩の輜重奉行以下小荷駄方が逃亡、土佐藩は宇都宮城の攻撃に参加できず「土佐の御方は 上州ちぢみ 見掛は強いよで 着て弱い」と官軍諸藩の物笑いとなった。
■明治三年、常備軍の設置でこれに編入され、解散。
前 衛 隊
ぜんえいたい
■土佐藩。
■慶応四年一月、馬廻りの士で編成された洋式銃隊。
■隊長若尾譲助、森騰作、隊士二百名。
■戊辰戦争には参加せず、出征軍の後備として藩地に待機。
■明治三年の兵制改革で常備軍に編入。
中 衛 隊
ちゅうえいたい
■土佐藩。
■慶応四年一月、小姓組で編成された洋式銃隊。
■隊長林左久馬。前野太郎七。隊士約二百名。
■討幕戦用に再編成され戊辰戦争に参加。戦歴は胡蝶隊と同じ。
■明治三年、解散。一部の隊士は常備軍へ。
後 衛 隊
こうえいたい
■土佐藩。
■慶応四年一月、留守居組で組織。
■隊長乾三四郎、松並忠六、隊士十五名。
■戊辰戦争では迅衝隊と共に北関東、会津方面で戦う。
■明治三年、常備軍の設置で解散。
勇 敢 隊
ゆうかんたい
■筑前、福岡藩。
■慶応四年正月早々、領内のやくざで編成した討幕軍。もともと佐幕色の強いこの藩はまともに討幕の遠征軍を送る気などなく、博徒や山伏などを集めて「にわか兵隊」を作った。
■隊長太野仁平、参謀太宰府天満宮神官、三木隆助(真木和泉の弟)兵員五百〜八百人。
■異様な風体の雑軍だけに、戦場ではいつも弾丸除けがわりにいつも最前線に狩り出され、多くのものが屍を晒した。上野、彰義隊の討伐戦から奥羽、さらに一部は蝦夷箱館まで転戦している。
■明治二年七月二十日、郷里に凱旋、解散。
就 義 隊
しゆうぎたい
■筑前、福岡藩。
■慶応四年三月、福岡藩勤王党の流れをくむ下級武士で組織。
■隊長今村百八郎、隊員二百名。
■関東、奥羽方面に転戦。
■明治二年、解散。その余流は明治十年の西南戦争で薩軍に呼応して決起。
遊撃銃隊
ゆうげきじゅうたい
■筑前藩。
■慶応三年の末、上方の情勢緊迫化にともない、急ぎ編成された戦列部隊。
■総管庄野五兵衛、隊士三百名。
■一部は勇敢隊とともに戊辰戦争に従軍。
■明治三年、藩の兵制改革で解散。
三十人隊
さんじゅうにんたい
■豊前、小倉藩。
■慶応二年春、幕府の長州征伐に備えて急ぎ組織された一隊。
■隊長平井小左衛門、小笠原八左衛門、隊士は三十人ではなく約六十名。
■同年六月、長州兵の大挙来襲で雨窪、新屋敷方面で熾烈な迎激戦を展開。以後、ゲリラとなって戦う。
■慶応三年、長州側との停戦協定により解散。
農兵郷筒隊
のうへいごうずつたい
■小倉藩。
■慶応二年三月、幕府の長州征伐を見越して結成した、長崎警備の郷筒組を中核とする農兵隊。
■隊長家見仲之助、兵員約二百名。
■四境の役では宗林寺、松山方面で戦う。
■慶応三年、解散。
奇 兵 隊
きへいたい
■小倉藩。
■慶応三年六月、腕に覚えのある藩士よりなる遊撃斬込隊。
■隊長小笠原七太郎、黒部彦十郎、隊士約百五十名。
■征長戦では朽網付近で長州軍と激戦を展開。
■慶応三年、長州藩との休戦協定成立後、解散。
農 兵 隊
のうへいたい
■小倉藩。
■慶応二年春、長州藩との戦を見越して藩内の農民有志で編成した民兵。
■隊長青柳彦十郎、兵員三百名。
■総大将島村志津馬のもと、貫村から金辺峠にいたる線で長州軍と激戦を展開、以後ゲリラ化して征長の幕軍が敗走したあとも戦う。
■慶応三年、休戦協定がなり、解散。
茶坊主隊
ちゃぼうずたい
■小倉藩。
■慶応二年六月、お城の茶坊主で編成した大砲隊。
■隊頭門田栄、隊員百五十名前後。
■十二斤野戦砲十数門からからなり、北方原の戦いでその威力を発揮した。
■慶応三年、解散。
奮 武 隊
ふんぶたい
■小倉藩。
■慶応二年、藩内の徹底抗戦派からなる一隊。
■隊長牧野弥次右衛門、隊員五十〜七十名。
■のち赤心隊に合流し、征長幕軍の敗走後、小倉藩のみが長州藩と戦うことの非を説いて豊長(豊前小倉VS長州)戦争の停戦に尽力、藩の危機を救った。
■慶応三年、解散。
一 貫 隊
いつかんたい
■小倉藩。
■慶応四年一月、同藩が編成した討幕戦用の戦闘部隊。
■総督志津野源之丞、軍監葉山平右衛門、隊士三百五十名。
■戊辰戦争では秋田方面、院内口で長州、薩摩、肥前の諸藩兵と共に庄内軍と戦う。
■明治三年、藩の兵制改革直後に解散。
赤 心 隊
せきしんたい
■豊前、小倉藩の農兵隊。
■慶応二年八月一日。豊前企救郡金辺峠で同藩家老島村志津馬貫倫が組織。長州軍の領内進攻にともない、あくまで徹底抗戦を主張する島民の義気に感じた農民が民兵の結成を願い出た。
■本隊は島村志津馬以下三百名。このほか足軽隊、大砲隊、青柳隊などいくつかの編成があったがゲリラ赤心隊はおそらく農兵隊(深谷小太郎以下百五十名)がそれであろうと思われる。
■知り尽くした地形を利用して八月いっぱい狸山の攻防戦に明け暮れ、九月には長駆して小倉城を奪回している。
■十二月十八日の停戦協定、講和の成立によって、解散。
新 檄 隊
しんげきたい
■筑後、久留米藩。
■慶応四年六月十一日、補充部隊として同藩脱藩の秦林親(篠原泰之進、元新選組、その後高台寺党)の提案で結成された浪士隊。
■隊長久留米藩士有馬蔵人、副隊長滝口次郎、佐原太郎。隊士は京都在住の尊攘派浪士が中核で総勢二百名。結成後、佐原は暗殺される。
■七月中旬、京都進発。会津方面に転戦してのち、蝦夷箱館まで遠征した。
■明治二年七月。帰国。翌三年、解散。
応 変 隊
おうへんたい
■久留米藩。
■慶応四年、藩執政、水野正名の提唱により組織された士民混成の討幕軍。
■隊長佐々金平、隊員約三百名。
■戊辰戦争では上野、彰義隊の討伐戦から米沢方面に転戦。
■明治二年七月二十日、帰国。翌三年春、水野らは藩内の改革を目指してクーデターを計画、だが未然に鎮圧された。
辻市左衛門隊
つじいちざえもんたい
■久留米藩。
■慶応四年三月、藩老水野正名(渓雲斎)と藩士辻市左衛門によって組織された。
■主将辻市左衛門、総勢四百五十人。
■戊辰戦争では上野、彰義隊の討伐戦、奥羽、駒ヶ峰の戦闘に参加、多くの戦功を立てる。
■明治二年七月二十一日、凱旋。翌三年春、反乱の疑いで鎮圧された。
制 勝 組
せいしょうぐみ
■天領、豊後、日田の農兵隊。
■幕末期の治安悪化にともない、日田代官、窪田治郎右衛門が慶応元年に取り立てた。
■隊員は五十〜百名で日田代官の支配下に置かれた。剣術や射撃などの訓練を終えた後、領内あるいは天草方面の海防任務についている。
■兵賦による農兵隊ではなく、治安が目的の警察隊のため、他の戦闘諸隊のような輝かしい戦歴はない。
■御一新後、長州藩から追われている大楽源太郎らが日田県に潜入して隊内に動揺をきたしたが、明治三年十二月、解散。
振 遠 隊
しんえんたい
■長崎府。
■慶応四年閏四月、海援隊の一部と長崎奉行所付属、旧幕遊撃隊を中心に編成。「長崎府、振遠隊」とも言う。
■隊長元海援隊隊士、石田英吉。野村辰太郎ら元海援隊士と薩摩藩関係者、白江竜吉ら元遊撃隊関係者が諸隊長となりこれを指揮統率した。隊員四百名。
■新政府の長崎統一後、岩倉具視の建議による「東北遊撃軍」の編成により、振遠隊は下関に集結し、大村、諫早、佐賀、広島の諸藩兵とアメリカ船で秋田へ向かった。、七月二十三日、出羽の舟川港に上陸、二十九日、院内口へ進撃、八月一日には横手駅で庄内軍と交戦し、以後盛岡に転戦する。洋式装備で兵の錬度も高く、精強であったという。
■明治元年十一月二日、東京に凱旋。翌二年六月、帰国解散。
遊 兵 隊
ゆうへいたい
■肥前、佐賀藩。
■慶応二年、情勢の緊迫化にそなえ、藩兵の改革、組替えをおこなったさい付けた隊名。
■参謀前山精一郎、総勢八百人。
■戊辰戦争では秋田領内で侵攻の盛岡兵と戦い、今泉→綴子→靄ノ森の激戦にも参加して敵を圧倒する。
■明治三年、藩の兵制改革で解散、一部は常備軍に編入される。
新 精 隊
しんせいたい
■肥前、大村藩の軍隊。
■元来長崎警備と大村湾の防備が任務であったが、藩論が勤王に統一されてからはもっぱら討幕用の軍隊として訓練をうけた。元治元年春の軍制改革で改編される。
■隊長は“大村七騎”と呼ばれる名門出身の渡辺清左衛門(清)。藩士編成による洋式銃隊砲隊で、戊辰戦争には二箇小隊と大砲隊一隊、計百名が参加した。
■桑名城の接収や、赤報隊の逮捕とその処分に一役買い、三月初めには官軍先鋒として箱根を無血占領した。以後、上野彰義隊の討伐、そして奥羽方面の戦闘と常に官軍の戦闘に立ってめざましい働きをみせた。
■戦乱鎮定後は東京の市中警備にあたり、明治二年の末、藩の軍制改革で常備軍に編入。
花山院隊
かざんいんたい
■豊前、四日市の討幕義軍。
■慶応四年一月十日頃結成。義挙の中心となったのは豊前中津藩、豊後の臼杵、森両藩の脱藩士に宇佐、佐伯、別府あたりの草莽有志。
■盟主公卿の花山院家理、播州、赤穂の児島備後、豊前の佐田秀、宇佐野次郎ら総勢百五十名。
■同月下旬、天領である四日市陣屋を襲い、幕吏を斬って討幕の兵を挙げた。さらに彼らは東本願寺別院などを焼き、馬城峯(御許山)に立て篭もり九州鎮撫総督、花山院家理の名で近郷近在に檄を飛ばすなどした。これは長州藩の討幕戦略に不満を感じての単独暴走であった。
■一月二十九日、報国隊の攻撃を受け、壊滅、佐田は首を刎ねられた。
水 軍 隊
すいぐんたい
■薩摩藩。
■文久三年五〜六月頃、藩主島津忠義の命令で編成された水上特攻隊。
■水軍隊の陣容は大艇十二隻で隊員百二十名。船は上荷船、または屋形船が使用された。当初の隊員は六十六人。艇首は十八ポンドまたは二十四ポンドの銅短砲一門を装備し、各艇に十名ずつ乗り込んだ。物主は仁礼舎人、談合役(参謀)有川弥九郎。砲術師範には成田正右衛門。
■文久三年七月二日、薩英戦争に出撃したが、悪天候のため敵艦に接近できず、全部が波止場内に引き返した。
■このあと隊員全員が大砲組に編入され、新台場をはじめ各地の台場で砲手として活躍する。
救 応 隊
きゅうおうたい
■薩摩藩。
■元治元年秋、編成。
■総指揮官島津伊勢、総勢一千名。
■幕府の第一次長州征伐で長州が征長軍の要求する謝罪恭順に応じなかった場合、ただちにこれを撃つ兵力として、薩摩藩が広島から筑前、芦屋に移駐待機させていた軍隊の総称。
■同年十月二十一日の和議成立で帰国、解散。
相良鼓笛隊
さがらこてきたい
■肥後、相良藩。
■慶応三年九月、薩摩藩軍楽隊の様式に準じ、編成。
■隊長(指揮者)菊地全英、隊員約十名。
■戊辰戦争では薩摩軍の傘下で出兵し――戦兵三十八名――会津まで転戦している。
■明治四年、解散。


参考 新人物往来社 三百藩諸隊始末

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