吉田松陰
よしだ しょういん

長州藩士
 
文政13年8月4日、長州藩無給通26石の杉百合之助次男として、長門国萩松本村護国山の
 
麓の村に生まれた。幼名を虎之助、諱を矩方、通称を大次郎、松次郎、寅次郎。号を松陰、
 
二十一回孟子。5歳で叔父吉田大助の仮養子となり、翌年大助の急死で代々山鹿流兵学師
 
範の家柄である吉田家57石を継ぐが、住まいは実家杉家の同居のまま、謹厳な叔父玉木文
 
之進の教育の元に育つ。その頃から読書や書き物が好きで、他の子供達が遊んでいても見
 
向きしなかった、と妹の千代が言い残している。10歳で家業を継ぎ藩校明倫館に出仕、翌
 
年には藩主毛利敬親の前で「武教全書」戦法篇三戦を講じ将来を嘱望される。名目上は山鹿
 
流師範ながら若年の為、家学後見人の林真人、山田宇右衛門に教育を受け、山田亦介に長
 
沼流兵学を学んで海外情勢と日本の危機的状況に目覚め、西洋陣法を飯田猪之助、萩野流
 
砲術を守永弥右衛門に師事、嘉永元年19歳で後見を解除、一人前の兵学師範と認められた。
 
翌年2月、藩庁から異国防御について諮問され、「理は古今彼我にわたりて変ぜざるもの」
 
と、西洋の兵学を受け入れるべきと答申、更なる兵学修業を願い出て3年8月に九州平戸
 
へ出発、山鹿流兵学家の葉山左内、山鹿万助に師事、海外情報の見聞を広め、肥後熊本に
 
足を伸ばし、高島流砲術家の池部啓太を訪ね、直後に終生の友となる宮部鼎蔵(元治元年
 
池田屋事件で闘死)と知り合う。嘉永4年藩命により江戸遊学、桜田藩邸に住み安積艮斎、
 
山鹿素水らに師事、飽き足らず佐久間象山の門人となる。海防的見地からロシア艦隊の出
 
没する東北地方に関心を抱き、親友宮部鼎蔵との約定を結んで、藩への許可を得て、12月
 
15日に東北旅行に旅立つ。この時に藩からの過書(他領通行時身分証明証)発行手続きが
 
遅れていたのを待ちきれず無断で出立した罪を問われ、翌5年4月に江戸藩邸に出頭する
 
と帰国、実家での謹慎、士籍削除と家禄没収の処分を受けて浪人となった。しかし藩の内
 
意を受け、10年の兵学修業諸国遊学を願い出て許され、6年正月に江戸へ立つ。同6月、
 
佐久間象山に再入門、ペリー来航の報を知り浦賀へ急行、艦隊を実見して衝撃を受ける。
 
この体験を「将及私言」として藩主に建言し、海防の重要性、朝廷中心の結束した国家の
 
必要性を説く。海外を実際に体験したいと考えた松陰は外国船密航を計画、9月にプチャ
 
ーチンのロシア軍艦に乗り組もうと長崎に向かうが果たせず、翌安政元年、ペリーの再来
 
航先である伊豆下田へ同志金子重輔と共に向い、沖合い120メートルのミシシッピ号へ小舟
 
を漕ぎつけ懇願したが、幕府の許可を得よと拒否され、翌日幕府役人に自首。江戸の伝馬
 
町獄舎に送られ、10月に長州藩に引き渡される。役人が、護送中の駕籠には通例の名札を
 
つけないから有り難く思え、との処置に、松陰は自著「回顧録」の中で「姓名をもって人
 
に誇示するの意あり」と記し、壮挙として死んでも栄えある行為と思っている位だから、
 
名前を表示して貰えないのは逆に希望と違うとし、強烈な自己顕示欲を示している。その
 
後は萩城下の野山獄で翌年12月まで1年2ヶ月収監され、618冊の本を読破し、詩作、句作、
 
書道に励み、入獄中囚人に孟子の講義勉強会を開く等、教育者としての道を開く。
 
実家杉家に幽居の身となった2日後から講義を開始、藩校明倫館時代の門下生、近隣の子
 
弟が続々と集まり、叔父玉木文之進の創設した「松下村塾」の名を継承、上士下士の区別
 
なく教育した。塾は離れの廃屋を改築した八畳間の狭い建物、松陰自身の身なりは2ヶ月
 
に1度髪を結う位という程に構わなかったが、弟子と米を搗き養蚕の農作業も共にし、毒
 
舌や笑いも交え激しく語るが仕草は優しかったという。「天下の英才」と松陰が称賛した
 
久坂玄瑞が妹文と結婚、同居して協力。入塾者の増加に伴い十畳半の増築をする程になる。
 
松下村塾開講中の3年間に通った門人は総勢92人に達し、久坂玄瑞、吉田稔麿、久保清太
 
郎、高杉晋作、桂小五郎、品川弥二郎、伊藤博文、前原一誠、山県有朋ら、数多の維新志
 
士に影響を及ぼした。
 
しかし幽閉の身で自らを「狂夫」と呼ぶ松陰の思想は先鋭化して激しさを増し、「幽囚録」
 
では伏見に幕府を移し京都を中心とした防衛網を引き強力な統一軍事国家を作る事、北は
 
カムチャッカから南はルソンを領有せよと唱え、幕府・天子・藩公の為には死も厭わぬと
 
したが、井伊直弼が勅許を得ずに日米修好条約を断行すると、井伊の側近水野忠央の暗殺
 
を計画、三位大原重徳を長州西下させ藩主擁立、伏見獄舎破壊による志士奪還、安政の大
 
獄を指揮する老中間部詮勝の襲撃暗殺計画までを構想する激越な思想家でもあり、味方で
 
ある長州藩士周布政之助、桂や高杉にまで反対され、「僕は忠義をなすつもり、諸君は功
 
業をなすつもり」と怒ったという。
 
こうした松陰の過激な政治的言動は藩を刺激し、安政5年12月に再び野山獄に投じられ、
 
遂には藩も幕府も朝廷もなく、自分一人の肉体こそが頼りという、草莽崛起の論に達する。
 
一切の既存勢力に頼らない変革を求めたのである。翌6年7月、松陰は幕府から梅田雲浜
 
との関係に疑惑を持たれ、身柄を唐丸駕籠で江戸へ送られる。門人たちは雨の中、泣いて
 
師を見送った。松陰自体は取調べに対し、ペリー来航以来の幕政を批判、自らの政治的行
 
動計画を自供。これまでは投獄や幽閉で済み、その都度名を挙げてきた彼だけに、計画段
 
階の事を明かしたまでで重罰の適用はないと踏んでいたものかもしれない。しかし死刑が
 
確定すると、「口角泡を出だすが如く、実に無念の顔色」であったという目撃談が残る。
 
一方では狼狽を見せず従容と死に臨んだ、とする説もある。安政6年10月27日、小塚原の
 
刑場に於いて斬首、墓は都内世田谷区の松陰神社、山口県萩市の護国山他。享年30歳。
 
 
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも
 
   とどめおかまし 大和魂(留魂録)
 
■ 御 家 紋 ■
 

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