| 平隊士 |
| 京都の出身で慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。翌年一月の鳥羽伏見の戦い |
| を経て、江戸に帰還し、會津に転戦して蝦夷に渡航。明治二年四月ごろの四分隊編成では、 |
| 第二分隊に所属し、それ以前には、西組二番の一員として、市中警備の任にあったことが、 |
| 記録され、五月十五日に弁天台場で降伏した。降伏人名簿に元島田魁の家来と記されてお |
| り、正式隊士となるまでは、島田に従っていたものと思われる。弘前の薬王院などに収容 |
| され、名古屋藩に預けられたのち、五年六月に放免される。 |
| 平隊士 |
| 綱太郎とも称す。慶応三年六月以降に入隊し、平隊士に列される。翌年一月の鳥羽伏見の |
| 戦いで負傷し、江戸帰還後は神田和泉橋の医学所で療養し、同月二十七日には、その他の |
| 負傷者とともに医学館に移る。會津に従軍し、八月の母成峠の戦いに敗れたのち、仙台で |
| 降伏した。翌明治二年一月、仙台で降伏した、星川三平らとともに、勝海舟を訪れ、十両 |
| の無心をしている。 |
| 平隊士 |
| 音造、乙三、二三とも称す。慶応三年六月以降に入隊し、両長召抱人となる。翌年一月の |
| 鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還す。五兵衛新田に駐屯するが、四月に流山で、近藤勇 |
| が投降すると、島田魁らと土方歳三に従って旧幕軍と宇都宮などに戦い、會津で、新選組 |
| 本隊と合流した。八月の母成峠の戦いに敗走して蝦夷地に渡り、土方附属となるが、明治 |
| 二年五月一日に、屯所の称名寺から、行方不明になったとも、離隊して箱館に残留したと |
| もされる。 |
| 平隊士 |
| 憐之助、憐之介、隣之助とも称す。天保十二年生まれで、慶応三年六月以降に入隊し、局 |
| 長附人数となる。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、永の暇が与えられて |
| 離隊した。その後、どのような経緯でか、會津如来堂を脱出した粂部正親の隊に合流し、 |
| 十月には、彼らと銚子警備の高崎藩兵に降伏する。放免後の明治二年三月三十日、勝海舟 |
| より、三両の無心をした記録がある |
| 平隊士 |
| 慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸 |
| に帰還し、五兵衛新田に駐屯したが、四月に近藤勇が、流山で投降したさいに脱走した。 |
| 平隊士 |
| 誠一とも称す。慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。翌年一月の鳥羽伏見の戦 |
| いを経て、江戸に帰還し、會津まで従軍した。六月に猪苗代湖南の三代で作成された名簿 |
| では、隊長附をつとめたが、八月二十一日の母成峠の戦いに討死した。 |
| 新選組慰霊碑に名を刻む。 |
| 平隊士 |
| 次郎とも、品川、早川とも称す。京都出身で、三品一郎の弟。慶応三年六月以降に入隊し、 |
| 平隊士に列された。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、會津では、什長下 |
| 役をつとめ、六月に猪苗代湖南の三代で作成された名簿では、歩兵差図役下役とある。 |
| 八月の母成峠の戦いに敗れて、仙台で降伏したが、翌明治二年五月十五日に勝海舟を訪れ、 |
| 三品仲司とともに五両の無心をしている。 |
| 平隊士 |
| 慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。翌年 |
| 一月の鳥羽伏見の戦いにおいて、五日に千両松で戦死した。 |
| 平隊士 |
| 慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。翌年一月 |
| 鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還し、暇を許されて離隊した。 |
| 平隊士 |
| 将之介とも称す。慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。 |
| 翌年一月の鳥羽伏見の戦いにおいて、六日の淀で脱走とも戦死ともされる。 |
| 平隊士 |
| 西館登。向山とも称す。慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。翌年 |
| 一月の鳥羽伏見の戦いにおいて六日に橋本で戦死した。新選組慰霊碑に名前を刻む。 |
| 平隊士 |
| 緑五郎、銀五良、六五郎とも称す。義忠。陸奥岩城平の出身で、田村半右衛門の子として |
| 弘化三年、江戸に生まれる。田村一郎の弟で、田村銀之助の兄。清水家の家臣板橋徳蔵の |
| もとに身を置いていたが、慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。翌年一月の鳥 |
| 羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、五兵衛新田駐屯後に會津へ入り、六月に猪苗代湖南 |
| の三代で作成された名簿では隊長附とある。八月の母成峠の戦いに敗走し、蝦夷に渡航し |
| て、明治二年四月ごろの編成では、第三分隊に所属し、明治二年五月十五日に弁天台場で |
| 降伏した。弘前の薬王院などに収容されたのち、名古屋藩預けとなり、明治五年六月に、 |
| 解放された。 |
| 平隊士 |
| 慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸 |
| に帰還し、五兵衛新田に駐屯する。四月に流山で近藤勇が、投降したさいに従者として、 |
| 途中まで同行するが、帰隊して會津に赴く。大炮役をつとめるが、閏四月二十五日の白河 |
| 口の戦いで、重傷を負い、仙台にて降伏した。 |
| 平隊士 |
| 慶応三年六月以降に入隊し、平隊士に列される。翌年一月の鳥羽伏見の |
| 戦いを経て、江戸に帰還し、脱走した。のちに神奈川で病死したとも伝わる。 |
| 平隊士 |
| 権二郎とも称す。慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。翌年一月の鳥羽伏見の |
| 戦いを経て、江戸に帰還し、ほどなく脱走した。また、會津如来堂での、戦死を伝える、 |
| 記録もある。 |
| 平隊士 |
| 畑山とも、芳二良、二郎とも称す。慶応三年六月以降に入隊し、両長召抱人となる。翌年 |
| 一月の鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還し、五兵衛新田に駐屯するが、四月に流山で近藤 |
| 勇が投降すると島田魁らと土方歳三に従って、旧幕軍と宇都宮などに戦い、會津で新選組 |
| 本隊と合流した。その後、八月の母成峠の戦いに敗れ、仙台にて投降する。 |
| 平隊士 |
| 吉田川とも。江戸の出身で元力士だったという。慶応三年六月以降に入隊し、両長召抱人 |
| となる。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還し、五兵衛新田駐屯後、會津板室村 |
| の戦いで負傷するが、蝦夷に渡航して明治二年四月ごろの編成では、第二分隊に所属した。 |
| 明治二年五月十五日に弁天台場で降伏している。 |
| 平隊士 |
| 丸尾とも。桂次郎、路次郎とも称す。慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。翌 |
| 年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、會津入りをした。五月二十七日の大谷地 |
| 村で負傷したが、六月に、猪苗代湖南の三代で、作成された名簿では、歩兵差図役下役と |
| ある。その後、離隊して會津に残るとも、八月の母成峠の戦いに敗れて、斎藤一らと如来 |
| 堂を守備中に襲われて、戦死したとも伝えられる。 |
| 平隊士 |
| 市蔵とも称す。武州多摩郡牟礼村の出身で、尾田辺七郎左衛門の長男として生まれる。 |
| 慶応三年六月以降に入隊し、両長召抱人となる。同年十二月に京都で暇を与えられて離 |
| 隊した。維新後は、埼玉県川越に住み、明治四十一年四月八日に死亡し、墓は、川越市 |
| 宮元町の真行寺。 |
| 平隊士 |
| 恒五郎、常三郎とも称す。慶応三年六月以降に入隊するが、高齢であったために仮同志と |
| して、局長附人数に加えられた。同年十一月の油小路事件では、恩義のある藤堂平助を、 |
| 殺害したため、神経症を病んで死亡したとされるが、翌年一月の鳥羽伏見の戦いにおいて |
| 大阪敗走後に死亡したとの記録に信がおけよう。 |
| 平隊士 |
| 明治元年、仙台で降伏した「徳川旧藩無宿浪士」二十三名のひとりで、その中に十 |
| 数名の新選組隊士がいることから、會津戦争時には、入隊していたものと思われる。 |
| 平隊士 |
| 六之介とも称す。慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。翌年一月鳥羽伏見の戦 |
| いに戦死とも、伏見で、脱走ともされる。また、會津如来堂での戦死を伝える記録もある。 |
| 平隊士 |
| 慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、八月二十一日に母成峠の戦いで |
| 負傷と中島登は記録し、死亡者の印を付している。それ以外に在隊の記録はない。 |
| 平隊士 |
| 治十六とも称す。慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。翌年一月 |
| 鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還し、ほどなく、脱走とも死亡ともされる。 |
| 平隊士 |
| 明治元年、仙台で降伏した「徳川旧藩無宿浪士」二十三名のひとりで、その中に十 |
| 数名の新選組隊士がいることから、會津戦争時には、入隊していたものと思われる。 |
| 平隊士 |
| 和高小刀太とは親子もしくは兄弟と思われる。慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数と |
| なる。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還し、會津戦争に参戦した。六月に猪苗 |
| 代湖南の三代で、作成された名簿には、隊長附とあるが、八月の母成峠の戦いに敗れて、 |
| 仙台で降伏する。 |
| 平隊士 |
| 慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、六月に猪苗代湖南の三代で、作成された |
| 名簿に、唯一の医者として記録される。仙台で降伏する大宮実美のことと思われる。 |
| 平隊士 |
| 明治元年、仙台で降伏した「徳川旧藩無宿浪士」二十三名のひとりで、その中に十 |
| 数名の新選組隊士がいることから、會津戦争時には、入隊していたものと思われる。 |
| 平隊士 |
| 寅吉とも称す。慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、六月に猪苗代湖南の三代で |
| 作成された名簿では歩兵小頭役とあるが、八月二十一日の母成峠の戦いに戦死した。 |
| 新選組慰霊碑には加藤寅吉と名前が刻まれる。 |
| 平隊士 |
| 慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、六月に猪苗代湖 |
| 南の三代で、作成された名簿に歩兵小頭取締役と記録される。 |
| 平隊士 |
| 慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、六月に猪苗代湖 |
| 南の三代で、作成された名簿に歩兵小頭役として記録される。 |
| 平隊士 |
| 明治元年、仙台で降伏した「徳川旧藩無宿浪士」二十三名のひとりで、その中に十 |
| 数名の新選組隊士がいることから、會津戦争時には、入隊していたものと思われる。 |
| 平隊士 |
| 慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、六月に猪苗代湖 |
| 南の三代で、作成された名簿に、歩兵小頭役として記録される。 |
| 平隊士 |
| 明治元年、仙台で降伏した「徳川旧藩無宿浪士」二十三名のひとりで、その中に十 |
| 数名の新選組隊士がいることから、會津戦争時には、入隊していたものと思われる。 |
| 平隊士 |
| 慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、六月に猪苗代湖 |
| 南の三代で、作成された名簿に歩兵小頭役として記録される。 |
| 平隊士 |
| 明治元年、仙台で降伏した「徳川旧藩無宿浪士」二十三名のひとりで、その中に十 |
| 数名の新選組隊士がいることから、會津戦争時には、入隊していたものと思われる。 |
The music produced byDR(零式)さん
