平隊士 |
多賀権太郎とも称す。元唐津藩士で、江戸に生まれる。慶応四年三月に小笠原長行が江戸 |
を脱したさいに同行し、會津から、白石を経て九月中旬に仙台で入隊した。蝦夷渡航後の |
明治二年一月前後には、西組二番として市中取締の任にあったことが記録され、五月十五 |
日に弁天台場で降伏する。弘前の薬王院に収容されたが、田村銀之助らとともに年少者と |
して外出を許され、三年一月に放免された。 |
平隊士 |
忠二郎、忠治郎とも称す。桑名藩士木村良右衛門重敬の次男として、嘉永二年五月九日に |
桑名で生まれる。柏崎での桑名軍の編成で、御軍事方御小姓軍監退助勤となり、會津に入 |
って軍監となる。会津より庄内に向かう途中で、使者として、長瀬清蔵とともに仙台に赴 |
く。その後、神戸四郎、大河内太郎と合流して、見国隊とともに蝦夷へ渡航する。四月十 |
四日に佐原港に到着し、入隊すると第三分隊に所属したが、五月十五日に弁天台場で降伏。 |
弘前の薬王院に収容された後、三年一月に放免された。十年の西南戦争に新選旅団として |
従軍したという。 |
平隊士 |
元唐津藩士で天保十四年に生まれる。慶応四年五月の彰義隊の戦いに参加し、三好胖とと |
もに旧幕艦長鯨で平潟から會津に入る。八月の母成峠の戦いに負傷したのち、九月中旬に |
仙台で入隊した。蝦夷渡航後の明治二年一月前後には、沖之口取締の任にあったことが、 |
記録され、五月十五日に弁天台場で降伏する。弘前の薬王院に収容されたのち東京に送ら |
れて旧藩に引渡され、三年一月に放免された。 |
平隊士 |
造酒之允とも称す。元備中松山藩士で、出羽新庄に生まれる。板倉勝静が江戸から日光へ |
脱したさいに同行し、會津軍に加わって戦うが、九月中旬に仙台で入隊。明治二年四月ご |
ろの編成で第二分隊に所属し、それ以前には、西組一番として、市中取締の任にあったこ |
とが記録される。五月十一日の箱館総攻撃では、持ち場から山背泊へ援兵に向かった事が |
伝えられるが、十五日に弁天台場で降伏した。弘前の薬王院に収容されたのち東京へ送ら |
れ、芝の最勝院で旧藩に引渡され、三年一月に放免。 |
平隊士 |
市橋秀松とも称す。元唐津藩士で、嘉永三年に唐津城下に生まれる。小笠原長行が江戸を |
脱したさいに同行し、會津から白石を経て、九月中旬に仙台で入隊した。蝦夷渡航後の明 |
治二年四月ごろの編成で、第四分隊に所属する一方、長行の蝦夷脱出にも尽力したが、五 |
月十五日に弁天台場で降伏する。弘前の薬王院に、収容されたのちに東京に送られ、旧藩 |
に引渡されて、三年一月に放免された。 |
平隊士 |
幸二郎、幸治郎とも称す。小笠原長行の従僕で、上野吾妻郡川島村に生まれる。長行が江 |
戸を脱するさいに従い、九月中旬に仙台で入隊した。蝦夷渡航後、明治二年四月ごろの編 |
成で、第二分隊に所属し、五月十五日弁天台場で降伏する。青森の明誓寺から、弘前の薬 |
王院に収容され、この間に病死する。箱館市船見町の称名寺に慰霊碑があり、古くは墓碑 |
があった。 |
平隊士 |
長岡藩士で、城下表町に住居していた。相馬主計家臣とされるが、入隊までの経緯は不明。 |
明治二年四月ごろの編成で、第一分隊に所属し、五月十五日に、弁天台場で降伏する。弘 |
前の薬王院に収容されたのち、東京に送られて、旧藩に引渡され、三年一月に放免された。 |
平隊士 |
陽二郎とも称す。上野安中藩用人洒井守人の次男として、弘化二年に、江戸で生まれる。 |
戊辰戦争にさいして、新選組に入隊するが、それまでの経緯は不明。明治二年四月ごろの |
編成で、第一分隊に所属し、五月十五日に弁天台場で降伏。弘前の薬王院に収容ののち、 |
東京へ送られ、旧藩に引渡され、明治三年一月に放免となった。 |
平隊士 |
桑名藩士竹内惣太夫の次男として、柏崎に生まれる。竹内武雄の弟。兄とともに、北越を |
転戦しながら會津に入り、九月中旬に仙台で入隊した。蝦夷に渡航し、明治二年四月ごろ |
の編成で、第二分隊に所属するが、五月十五日弁天台場で降伏、弘前の薬王院に収容され |
た。東京に送られ、芝の最勝院に入り、旧藩に引渡され三年一月に放免となる。明治中期 |
には、東京に住み、巡査になった。 |
平隊士 |
嘉永三年に江戸で生まれ、御家人として、下谷御具足町に住居した。伝習第一大隊嚮導役 |
をつとめ、宇都宮などに転戦して會津に入り、九月中旬に仙台で、入隊したものと思われ |
る。明治二年四月ごろの編成で、差図役兼教授方となるが、五月十五日に、弁天台場で降 |
伏し、弘前の薬王院に収容されたのち再び弁天台場に送られ、三年四月に静岡藩引渡しと |
なる。 |
平隊士 |
東本願寺派の僧侶で、弘化三年に箱館大野村で生まれる。板倉勝静が宿とした箱館谷地頭 |
の料理屋佐吉の縁者で、勝静に懇請して、備中松山藩の御中小姓の身分となり、新選組に |
入隊した。明治二年四月ごろの編成で、第三分隊に所属し、五月十五日に弁天台場で降伏 |
するが、病気のため入院した。弘前の薬王院に収容されたのち東京に送られ、芝の最勝院 |
で旧藩に引渡され、三年一月に放免となる。 |
平隊士 |
房吉とも称す。元唐津兵で、嘉永六年に江戸で生まれる。慶応四年五月に前場五郎に従っ |
て、江戸を脱し、旧幕艦長鯨で平潟に到着して會津に入り、九月中旬に仙台で入隊した。 |
蝦夷渡航後の明治二年四月ごろの編成で第三分隊に所属し、それ以前にも東組二番の一員 |
として、市中警備の任にあったことが記録されている。五月十五日に弁天台場で降伏し、 |
弘前の薬王院に、収容されたのち、東京に送られて、旧藩引渡しとなり、明治三年一月に |
放免された。 |
平隊士 |
忠三とも称す。播州葛東郡八代村の喜兵衛の子として、天保十四年に生まれる。戊辰戦争 |
に際して、鴻之台集結の旧幕軍に参加し、慶応四年閏四月二十一日に今市の戦いで負傷し |
た。入隊時期は不明だが、明治二年四月ごろの編成で、第三分隊に所属し、五月十五日に |
弁天台場で、降伏する。弘前の薬王院に収容されたのち、東京に送られ、旧藩へ引き渡さ |
れて、明治三年一月に放免となる。 |
平隊士 |
代二郎、代治郎とも称す。桑名藩寄合番関川代左衛門の次男として、天保九年に桑名城下 |
で生まれる。京都勤番ののち、柏崎での桑名軍の編成で、御供方御下横目となった。北越 |
を転戦しながら、會津に入り、九月中旬に仙台で入隊。蝦夷渡航後の明治二年四月の編成 |
で、第四分隊に所属し、それ以前には、番兵取締の任にあったことが、記録されている。 |
五月十五日に弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容ののち東京へ送られ、旧藩へ引き渡 |
された。明治十年の西南戦争には、新選旅団として出兵し、帰郷後は、三重県尾鷲警察署 |
巡査となり、四十二年に桑名矢田川原の自宅において七十一歳で死亡する。 |
墓は、三重県桑名市西矢田町の善西寺にある。 |
平隊士 |
旗本武田兵庫の家来で、江戸に生まれる。戊辰戦争に際して、新選組に入隊するが、それ |
までの経緯は不明。明治二年五月十一日の箱館総攻撃では、弁天台場防戦中に負傷し、十 |
五日に弁天台場で降伏した。病院入りとなるが、その後の消息は不明。 |
平隊士 |
蔵太郎とも称す。旗本神保忠家の家臣麻島角右衛門の子として弘化三年に江戸で生まれ、 |
深川富川町に住居した。戊辰戦争にさいして新選組に入隊するが、それまでの経緯は不明。 |
明治二年四月の編成では、第一分隊に所属するが、十五日に弁天台場で降伏した。弘前の |
薬王院に収容されて、再び弁天台場に送られ、二番長屋に収容されていたが、三月十八日 |
に病院入りが許されている。翌年四月に静岡藩へ引き渡され放免となる。 |
平隊士 |
繁蔵、繁造、半三とも称す。文政十年に江戸で生まれ、神奈川奉行の支配下にあった。新 |
選組入隊までの経緯は不明だが、明治二年四月ごろの編成で第三分隊に所属し、それ以前 |
には、番兵取締の任にあったことが記録されている。五月十一日の箱館総攻撃に弁天台場 |
防戦中負傷し、十五日に弁天台場で降伏。弘前の薬王院に収容されたのち、再び弁天台場 |
に送られ、台場では、二番長屋に収容されたが、三月十三日に病院入りが許され、明治三 |
年四月に静岡藩に引き渡され、放免となった。 |
平隊士 |
三五郎とも称す。江戸に生まれ、元旗本で箱館奉行所支配蝦夷地在住。入隊の時期、場所 |
ともに不明だが、明治二年四月ごろの編成では第二分隊に所属し、五月十五日に弁天台場 |
で降伏す。弘前の薬王院に収容され、再び弁天台場に送られたのち、明治三年四月に静岡 |
藩預けとなった。 |
平隊士 |
唐津藩士中沢泉安久の長男として、弘化二年に唐津大名小路で生まれる。小笠原長行が、 |
江戸を脱したさいに同行し、會津から白石を経て、九月中旬に仙台で入隊し、蝦夷に渡航 |
した。明治二年四月ごろの編成で第一分隊に所属し、それ以前には、西組一番として市中 |
取締の任にあったことが記録されている。五月十五日に弁天台場で降伏し、弘前の薬王院 |
に収容されたのち東京に送られ、旧藩に引き渡されて、三年一月に放免された。 |
佐賀県東松浦郡北波多村において、七十一歳で死亡。諸説もある。 |
平隊士 |
桑名藩士土田外真記の子として、嘉永三年に桑名で生まれる。御馬廻役をつとめ、江戸開 |
城にさいして、鴻之台集結の旧幕軍に加わり、桑名藩兵として宇都宮城を攻略し、柏崎に |
至って、桑名軍の編成で大砲方に属した。越後与板の戦いに負傷し、九月中旬に仙台で入 |
隊。蝦夷渡航後、明治二年四月ごろの編成で、第二分隊に所属。それ以前にも東組二番の |
一員として市中警備の任にあったことが記録されている。五月十五日に弁天台場で降伏。 |
弘前の薬王院に収容されたのち、東京に送られ、旧藩へ引渡され、三年一月に放免。墓は、 |
三重県桑名市萱町の顕本寺にある。 |
平隊士 |
清三、清造とも称す。元桑名藩兵で、桑名に生まれる。慶応四年閏四月の桑名軍の編成で |
は、御軍事方下目付となり、會津より、庄内に向かう途中で、使者として、木村忠次郎と |
ともに仙台に赴く。その後、仙台で箱館への使者となった神戸四郎、大河内太郎と合流し |
て、見国隊とともに蝦夷へ渡航する。明治二年四月十四日に佐原港に到着し、入隊すると |
四分隊編成の第三分隊に所属し、五月十五日に弁天台場で降伏した。弘前の薬王院に収容 |
後、東京送りとなって旧藩に引き渡され、明治三年一月に放免となった。 |
平隊士 |
鎌四郎とも称す。元唐津の兵で、江戸に生まれる。慶応四年五月、前場小五郎らと江戸を |
脱し、旧幕艦長鯨に乗船し、三好胖らと合流して、平潟から會津に入る。八月の母成峠の |
戦いに敗走して、九月中旬に仙台で入隊。蝦夷渡航後、明治二年四月ごろの編成で、第三 |
分隊に所属し、それ以前にも東組二番の一員として、市中警護の任にあったことが、記録 |
されてる。五月十五日に弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容ののち、東京に送られ、 |
旧藩に引き渡されて、三年一月に放免された。 |
平隊士 |
桑名藩士成合平三郎常存の三男として、弘化五年二月二日に桑名内堀で生まれる。慶応四 |
年閏四月の桑名軍の編成では、御軍事方御小姓軍監退助勤となって、北越を転戦しながら、 |
會津入りし、松平定敬に随従して、蝦夷地渡航を果たす。その後、新選組に入隊して、明 |
治二年四月ごろの編成で、差図役下役となり、それ以前には、番兵取締の任にあったこと |
が、記録される。五月十五日に弁天台場で降伏し、収容先の弘前薬王院では、応接方を命 |
じられ、三年一月に放免された。五年には陸軍に出仕し、西南戦争に従軍して帰京したが、 |
十年九月二十七日、コレラのため、東京本所緑町の病院で死亡。三十歳。麻布永坂町の大 |
長寺に葬られたが、同寺は府中市に移転し、墓碑はない。 |
平隊士 |
順平とも称す。唐津藩士鳥羽杢右衛門信徳の子として、唐津城内埋門小路に生まれる。戊 |
辰戦争での行動は不明だが、九月中旬に仙台で入隊し、蝦夷渡航後の明治二年五月十一日 |
には、弁天台場で負傷し、十五日に弁天台場で降伏ののち、病院へ送られた。 |
平隊士 |
野部小作とも称す。元唐津藩士で、嘉永二年に唐津で生まれる。慶応四年三月に、小笠原 |
長行が江戸を脱したさいに同行し、棚倉から會津入りして三好胖と合流する。九月中旬に |
仙台で入隊し、蝦夷に渡航後の明治二年四月ごろの四分隊編成で、第四分隊に所属する。 |
五月十五日に弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容ののち、東京で旧藩に引き渡されて、 |
三年一月に放免となった。 |
平隊士 |
小次郎とも称す。武州玉賀郡四谷村の医師吉田宇桂の子として、嘉永元年に生まれる。新 |
選組入隊までの経緯は不明だが、蝦夷渡航後明治二年四月ごろの編成で第四分隊に所属し、 |
それ以前には、番兵取締の任にあったことが記録されている。五月十五日に、弁天台場で |
降伏し、病院に送られたのち、弘前の薬王院から、再び台場に収容され、三年四月に静岡 |
藩引き渡しとなって、放免となった。 |
平隊士 |
遊吉とも称す。嘉永元年に江戸で生まれ、御家人として下谷御徒町に住居していた。慶応 |
四年四月に江戸を脱して、純義隊に加盟し、旧幕軍とともに、宇都宮城の防衛戦を戦う。 |
會津から、仙台に出て彰義隊に参加し、蝦夷渡航後の明治二年一月十五日に新選組入隊を |
果したものと思われる。四月ごろの編成で、第一分隊に所属し、五月十五日に弁天台場で |
降伏後、弘前の薬王院に送られたが、再び台場に収容され、三年四月に、静岡藩引き渡し |
となって放免された。 |
平隊士 |
松平栄助。桑名藩士松平左二郎親秀の子として、嘉永二年に桑名で生まれる。慶応四年閏 |
四月の桑名軍の編成では、大砲方に所属し、五月には妙見山の戦いに軽傷を負い、會津を |
経て、九月中旬に仙台で入隊して、蝦夷に渡航する。明治二年四月ごろの編成では、第四 |
分隊に所属し、それ以前には、沖之口取締の任にあったことが、記録されている。五月十 |
五日に弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容されたのち、東京送りとなって、芝の最勝 |
院で旧藩に引き渡され、三年一月に放免された。 |
平隊士 |
本名は多賀男也。元唐津藩士で嘉永六年に江戸で生まれる。慶応四年三月に小笠原長行が、 |
江戸を脱して、棚倉に向かったさいに同行し、會津で三好胖に従って、白石から仙台に出 |
る。九月中旬に入隊し、蝦夷渡航後の明治二年四月、長行の箱館脱走時に一旦は、前場小 |
五郎と随従するが、新選組に復帰し、同年四月ごろの編成では、第三分隊に所属している。 |
五月十五日に弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容後、東京で、旧藩に引き渡されて、 |
三年一月に、放免された。 |
平隊士 |
乾次郎とも称す。元唐津藩士で、嘉永三年に唐津で生まれる。慶応四年三月に小笠原長行 |
が、江戸を脱したさいに同行す。會津では、八月二十一日の母成峠の戦いに負傷して、仙 |
台に向かい、九月中旬に入隊した。蝦夷渡航後の明治二年四月ごろの四分隊編成で、第一 |
分隊に所属し、五月十五日に弁天台場で降伏すると、弘前の薬王院に収容され、東京で旧 |
藩に引き渡されて、三年一月に、放免となった。 |
平隊士 |
八十八とも称す。天保十一年に桑名で生まれ、慶応四年閏四月の桑名軍の編成では、御軍 |
事方御下横目となり、北越から會津へと転戦し、九月中旬に仙台で入隊した。蝦夷に渡航 |
して明治二年四月ごろの編成では、第四分隊に所属し、五月十五日に弁天台場で降伏する。 |
弘前の薬王院に収容後、東京芝の最勝院で旧藩に引き渡されて、三年一月に放免された。 |
平隊士 |
磯五郎とも称す。西村劇之助の次男として、安政二年に京都で生まれる。桑名藩に召し抱 |
えられて、明治元年九月中旬に、仙台で入隊するが、その間の経緯は不明。明治二年四月 |
ごろの編成で会計方となり、五月十五日に弁天台場で降伏した。青森の明誓寺から弘前の |
薬王院に収容されるが、田村銀之助らとともに、年少者として外出を許され、三年一月に |
放免となった。 |
平隊士 |
弾司とも称す。元代官手代手付で、嘉永四年に武州玉賀郡で生まれる。戊辰戦争にさいし |
て、新選組に入隊するが、その時期、場所ともに不明。明治二年以降には、東組一番の一 |
員として、市中警備の任にあったことが記録され、五月十五日に、弁天台場で降伏した。 |
弘前の薬王院に収容の後、再び弁天台場に送られ、明治三年四月に、静岡藩引き渡しとな |
り、放免された。 |
平隊士 |
元唐津藩士で文政十一年に唐津で生まれる。慶応四年三月に小笠原長行が、江戸を脱した |
さいに同行し、その後も側近として仕えた。白石から仙台に入り、九月中旬に入隊した。 |
蝦夷渡航直後の十月二十四日には、七重村の戦いで負傷し、明治二年四月ごろの編成で、 |
第一分隊嚮導役となり、五月十五日に弁天台場で降伏した。弘前の薬王院に収容ののち、 |
東京に送られて、旧藩に引き渡され、三年一月に放免された。 |
平隊士 |
元桑名兵で、天保二年に桑名で生まれる。戊辰戦争における行動は不明だが、九月中旬に |
仙台で入隊している。蝦夷渡航直後の明治元年十月二十四日に、七重村の戦いに、軽傷を |
負ったが、翌年四月ごろの編成で、第一分隊に所属し、それ以前には、山背泊見廻りの任 |
にあった事が、記録されている。五月十五日に弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容の |
のち、東京送りとなって、芝の最勝院で旧藩に引き渡されて、三年四月に放免となった。 |
平隊士 |
本名は、依田織衛。備中松山藩士依田小左衛門の子として、天保七年に江戸で生まれる。 |
慶応四年二月に板倉勝静が江戸から日光へ脱したときに同行し、勝静が投降したことを、 |
江戸で報告している。八月に旧幕艦隊に乗船して、仙台に至り、藩士十一名を統率して、 |
新選組に入隊。入隊を、勝静と蝦夷へ渡航するための方便と発言して、土方歳三の怒りを |
かい、備中松山藩士は、平隊士に列された。明治二年四月ごろの編成で、第三分隊に所属 |
し、五月十五日に弁天台場で降伏するが、当日は、山背泊の警備から、台場に籠城したこ |
とが、記録されている。弘前の薬王院に収容後、東京へ送られて、芝の最勝院で、旧藩に |
引き渡されて、三年四月に放免となった。五兵衛新田で、隊士だったともされるが、その |
ような事実はなく、駐屯者の名簿に「与田」と同姓が記されているにすぎないのである。 |
The music produced byDR(零式)さん