相馬主計
そうま かずえ

箱館新選組隊長役
 
最後の新選組隊長である。名を主殿、また肇とも称した。天保十四年、常陸笠間藩船橋平
 
八郎の子として生まれる。新選組加盟は、慶応三年十月。島田魁の名簿に局長附人数で、
 
名を連ねるも古参の名簿たる「英名禄」に記載はなく、慶応三年六月十日の幕府召抱えの
 
一覧にも相馬の名前を見出すことは出来ない。新選組史上に相馬が初登場して来るのは、
 
流山において近藤勇が投降してからである。
 
近藤勇が板橋の官軍本営に出頭、その正体を看破されたが、この時に付添った野村利三郎
 
と村上三郎のうち、村上は途中から引き返して、険悪な雲行きを伝えた。土方歳三は近藤
 
勇を救出すべく、相馬と今一人を従えて大久保一翁、勝安房を訪ねた。この時、相馬は、
 
松波権之丞差出しの封書を持って、近藤勇の処に出かけて行って、捕らえられ近藤処刑後、
 
先に捕らえられていた野村とともに釈放される。
 
明治二年三月二十五日の宮古湾の海戦には、土方歳三に従って相馬、野村も参戦。野村利
 
三郎は、敵艦に斬り込んで討死したが、相馬もまた手傷を負った。以後、箱館市中警備と
 
して、箱館奉行永井玄蕃の下に弁天台場に入る。五月十五日弁天台場の陥落と共に新選組
 
隊長となる。相馬は、榎本、大鳥、松平、永井らと同等の取扱いで、すぐさま東京送りと
 
なった。弁天台場、薬王院と送られた新選組同志の者たちとは別格扱いである。
 
相馬の入牢については、坂本竜馬の殺害事件の資料とされている兵部省口書で知られる。
 
これらの結果、明治三年十月十日、終身流罪が下され新島に流されたが、明治五年十月に
 
放免された。相馬は、この二年間の流刑生活の中で、植村マツと結ばれたと云われている。
 
その後、江戸の蔵前に戻って自刃したとか、殺害されたと云われているが、まだ真実は、
 
究明されていない。
 
 



酒井兵庫

さかい ひょうご


会計方
 
島田魁の「英名録」には摂州住吉の人とあり、永倉新八は、会計方としている。坂井とも。
 
池田屋事変には土方隊に属して参戦し、十五両の褒賞金を賜っている。新選組行軍録では、
 
原田左之助と山崎烝の間に名を連ねている。慶応元年夏の編成で勘定方になる。同年三月
 
には、死亡した大谷良輔の頼越人として光縁寺を訪れ、六月には切腹した石川三郎と瀬山
 
滝人の来越人となっている。酒井兵庫は、厳しい処罰での、処刑された隊士らを葬る役目
 
をしているうちに恐れをなして脱走し、摂津住吉神官のもとに潜伏中を、追手により、捕
 
らえられ、沖田総司ら数名の隊士らに斬殺されたと云われている。他説では、薩摩の海江
 
田武治に内通したとも云われている。傷は致命傷に至らなかったが、失心し、蘇生後に傷
 
口を見て、驚いて死亡したと伝えられている。
 
板橋の近藤勇刑場跡地の墓標に名が刻まれている。
 
 


松本捨助
まつもと すてすけ

平隊士
 
弘化二年四月二十四日、武州多摩郡本宿村名主、松本友八の長男として生まれる。幼くか
 
ら、天然理心流を学び、文久三年二月の浪士組上洛に参加を希望したが、家族の反対にあ
 
って、断念した。十一月頃には単身で上洛して、壬生屯所の土方歳三を訪ね、入隊を求め
 
るが、容れられずに帰郷した。念願の新選組入隊は、慶応四年三月の甲陽鎮撫隊出陣のと
 
きともされるが、慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となっている。翌年一月の鳥羽
 
伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、三月の甲陽鎮撫隊出陣では勝沼の戦いで負傷する。
 
五兵衛新田から、会津入りして、局長附小頭助役をつとめる。六月に猪苗代湖南の三代で
 
作成された名簿では、隊長附とされている。八月の母成峠の戦いに敗れ、仙台で離隊して
 
郷里に戻った。松前で、土方歳三に助けられた藩主婦人を斎藤秀全とともに、江戸に送っ
 
たとも伝えられているが、二人に蝦夷渡航の事実はない。
 
郷里後、家督を土方歳三の兄隼人の四男で、松本家の里子になっていた土方錠之助に譲り
 
井上源三郎の姪のモトを後妻に迎えて、東京牛込に住む。その後、三河渥美郡や名古屋で
 
米穀商を営み、晩年は、八王子に暮らして大正七年四月六日、七十四歳で他界した。墓は
 
東京都府中市西府町の墓地にある。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 


池田七三郎
いけだ しちさぶろう

平隊士
 
嘉永二年十一月十三日上総山辺郡田間村の商人、稗田佐五七の三男として生まれる。本名
 
を稗田利八、源貞利、利定と名乗る。慶応元年に江戸に出て、飯田町の天野精一郎道場で
 
一刀流剣術を学び、旗本永見貞之丞の家来となった。毛内有之助を慕って、慶応三年土方
 
歳三が江戸に下って、隊士募集の際に応募し、入隊する。局長附人数となり、鳥羽伏見の
 
戦いに参戦し負傷する。江戸帰還後、三月の甲陽鎮撫隊にも参戦し、銃傷を負った。
 
粂部正親を隊長格とした、負傷者の隊に加わって、会津に出発した。六月に猪苗代湖南三
 
代で作成された名簿では、隊長附をつとめている。
 
八月の母成峠の戦いに敗れた後、斎藤一らと会津に残留し、九月の如来堂守備中を、襲撃
 
され、戦死したと伝えられていたが、粂部らと虎口を脱し、十月に銚子警備の高崎藩兵に
 
降伏した。その後に東京に護送され、一年間の謹慎後に放免となる。
 
昭和十三年一月十六日に九十歳で他界。新選組最後の生き残り隊士であった。墓は東京都
 
港区麻布台の真浄寺にある。昭和四年、東京の富ヶ谷在住中に子母沢寛の取材を受けて往
 
時を回顧した「新選組聞書」を残している。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 


井上泰助
いのうえ たいすけ

平隊士
 
安政四年十二月五日、武州日野井上松五郎の次男として、生まれる。井上源三郎の甥にあ
 
たる、大介とも云われた。慶応三年六月以降に入隊し、両長召抱人となる。翌年一月二日
 
の鳥羽伏見の戦いでは、千両松で戦死した、井上源三郎の首級と帯刀を持ち帰ろうとした
 
が、その重さに断念して近くの寺の門前に埋葬したというが、その寺は記憶に無く、定か
 
ではない。江戸帰還後の三月に甲陽鎮撫隊に同行として、日野にやってきた際に離隊した
 
ものと考えられる。だが、間宮魁の「箱館脱走人名」には、土方附属として市村鉄之助、
 
玉置良三、渡辺市蔵、沢忠助、立川主税らとともに、井上大介と記載されている。だが、
 
横倉甚五郎は江戸にて暇と綴り。島田魁や中島登などの新選組の記録に、井上泰助の箱館
 
渡航の記載は無い。昭和二年二月十日、七十一歳で他界する。墓は日野の宝泉寺にある。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 



河合鉄五郎

かわい てつごろう


平隊士
 
弘化三年、美濃渥美郡岐阜の出身で、松平兵庫守の貫義隊に所属して、北関東を転戦し、
 
会津に投じたと云われている。その後、新選組に入隊し、八月の母成峠の戦いに敗れて、
 
斎藤一こと山口二郎らと会津に残留して、九月五日に如来堂守備中に襲撃されて、討死と
 
されていたが、粂部正親らと虎口を脱し、十月に銚子警備の高崎藩兵に降伏した。
 
 



三好胖

みよし ゆたか


差図役
 
嘉永五年、唐津藩十代藩主小笠原長泰の四男として生まれる。本名を小笠原胖之助。慶応
 
四年の彰義隊の戦いに参戦して敗れて、三河島まで輪王寺宮を警護した後、旧幕艦長鯨に
 
乗船して輪王寺宮とともに会津に入る。八月に新政府軍が、会津に進攻してきた為、上山
 
から白石、さらに仙台へ向かい、九月中旬に新選組に入隊した。差図役とも小隊司令官と
 
もされ、蝦夷渡航直後の明治元年十月二十四日に、七重村の戦いにおいて、銃弾を浴びて
 
討死した。遺体は同村の宝林庵に埋葬され、現宝琳寺の過去帳に記載がある。十七歳。鷲
 
ノ木の霊鷲院でも法要が営まれ、同寺よりも戒名が授けられる。墓は佐賀県唐津市西寺町
 
の近松寺にある。中島登の新選組絵姿集には「行年十七歳。三好は唐津の城主小笠原壱岐
 
の舎弟なり。墳墓を去て夷島に渡り新選組司令士となって、辰の十月二十四日、七重村戦
 
の時、単身にして、敵中に切り入り奮戦して終に討死せり」と書く。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 


三浦啓之助
みうら けいのすけ

客員
 
弘化五年十一月十一日、信州松代藩洋学者佐久間象山の次男として生まれる。名を佐久間
 
恪二郎、辰之助ともいう。島田魁の「英名録」には、信州松代とあるものの敬之介とある。
 
元治元年七月十一日に在京中の象山が、木屋町で暗殺され、仇討ちを果たす為に会津藩士
 
山本覚馬の紹介によって、同月中に新選組の客員となる。同年十二月の編成では、馬験と
 
して近藤勇に従う。やがて隊士たちの粗暴な振る舞いに染まり、口論となった隊士に斬り
 
つけ、沖田総司に取り押えられたというものや、自分から突き当たった肉売りの女を無礼
 
打ちにしたという、話が伝わる。慶応二年頃に、芦屋昇とともに脱走し、戊辰戦争では、
 
薩摩軍に属して東北地方を転戦し、明治二年に帰藩。八年に伊予松山裁判所判事となるが、
 
十年二月二十六日に赴任先近くの料亭で急死する。行年二十九歳。
 
 


森常吉陳明
もり つねきち つらあき

改役頭取
 
文政九年六月十二日に、江戸藩邸で生まれる。桑名藩士小河内殷秋の長男。名を弥一左衛
 
門、陳明。伯父の森陳功を継ぎ、藩の横目付や公用人一席となり、慶応四年一月の、鳥羽
 
伏見の戦いを経て江戸に帰還し、五月の彰義隊の戦いに藩士を率いて参戦するが敗走し、
 
仙台に向かって定敬と出会う。九月中旬に新選組へ入隊し、蝦夷渡航直後の二年二月頃の
 
再編成で改役頭取となるが五月十五日に弁天台場で降伏した。弘前の薬王院に収容された
 
後に東京へ送られて、十月十七日に入牢。十一月十三日に、旧藩へ引渡しのために出牢す
 
るが、その日のうちに深川の藩邸で、主戦派藩士の責任を負って切腹を命じられる。
 
遺体は、江東区白河の霊厳寺に埋葬され、墓碑もある。また、三重県桑名市伝馬町の十念
 
寺に分骨墓がある。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 


高木剛次郎
たかぎ ごうじろう

平隊士
 
嘉永元年十一月二十三日、桑名藩士、高木登波の次男として生まれる。慶応二年の桑名藩
 
「分限帳」に御小姓三人扶持と認めらている。慶応四年三月二十六日、旧藩主松平定敬公
 
に随従して、横浜から、ロシア船で新潟を経て、飛び地の柏崎に入る。同年閏四月三日、
 
同志、山脇隼太郎とともに、恭順派の家老吉村権左衛門を斬り、柏崎における桑名の藩論
 
を主戦論に統一した。一時、今井信郎らの衝鋒隊に籍を置いて戦ったが、桑名藩に復帰。
 
荘内大山で降伏し、松浦秀八ら三十三人と布袋屋で謹慎した。明治二年、山脇らと箱館へ
 
渡り、「神戸四郎」の名で新選組三分隊に所属する。弁天台場の降伏後、東京芝の増上寺
 
で謹慎が解かれた後、アメリカに渡った。明治八年に帰朝し、森有礼らと一ツ橋大学の前
 
身である商法講習所の開設に名を連ね、その助教授となって商業簿記の講義に携わった。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 



谷川辰吉

たにがわ たつきち


平隊士
 
文政五年、備中倉敷で生まれる。元治元年、国許で事件を起こして、大阪に出奔し、土佐
 
人と交わるようになるが、南堀江で道場を開く同国人の谷三十郎、万太郎と出会い土佐人
 
らによる大阪焼き討ちの謀議を密告した。これによって、慶応元年一月のぜんざい屋事件
 
が起こり、その縁で新選組に入隊する。慶応元年七月までの京阪における、隊士募集に応
 
じたものかは、定かではない。入隊後は、本名の和栗吉次郎を名乗り、同三年六月の幕府
 
取り立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受けたが、十二月に大阪で脱走し、井汲
 
恭平と改名して、新政府軍に加わり、奥州を転戦した。帰郷後、再び京都に移って、七十
 
二歳で他界する。谷川辰蔵とも名乗る。墓は京都黒谷の顕岑院墓地にある。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 



山脇隼太郎

やまわき はやたろう


平隊士
 
嘉永二年、桑名藩士、山脇十左衛門正軌の嫡男として生まれる。主戦派の山脇は、同志、
 
高木剛次郎とともに、越後柏崎の大久保で、恭順派家老吉村権左衛門を斬り、飛び地柏崎
 
に集結した、旧藩主松平定敬に随行の者たちの主戦統一に成功。鯨波の戦いから、会津戦
 
争と戦い抜く。明治元年九月二十七日、羽州田川郡荘内町大山で降伏。同所専念寺で謹慎
 
するが、翌明治二年に東京送りとなる時、箱館の旧藩主への密命を帯びて僧に身を変じ、
 
松島の五大堂で箱館渡航の秘策を練った。明治二年四月八日、石巻から、仙台の見國隊と
 
ともに、英国船ヘレンブラック号で出港。十四日蝦夷内浦湾砂原に上陸した。そして、翌
 
十五日箱館に入り、「大河内太郎」の名で新選組三分隊に加わった。弁天台場で降伏して
 
東京へ送還された後、謹慎が解けて、アメリカに渡航。帰朝後は横浜の伊勢佐木町商店街
 
に寄与、事業家として成功した。明治三十八年五月六日、没する。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 

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