立川主税

たちかわ ちから


平隊士
 
天保六年、筑前宗像郡鐘崎浦の町人喜六の子として生まれる。慶応三年六月以降に入隊し、
 
局長附人数となる。翌年の一月、鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し三月の甲陽鎮撫隊
 
から、会津に転戦する。六月に猪苗代湖南の三代で作成された名簿では、器械方頭取下役
 
を務める。八月の母成峠の戦いに敗れた後に、蝦夷に渡航し、函館では、陸軍奉行並土方
 
歳三の附属となった。明治二年五月十一日に土方歳三が戦死した際に従っており、十二日
 
には、戦死報告を日野に届ける為、五稜郭から湯ノ川に落ちるが、捕らえられて秋田藩に
 
預けられる。明治五年ごろに日野の佐藤家を訪れ、土方歳三の最後を語り、従軍記の「立
 
川主税戦争日記」を示した。その後、鷹林巨海と号して仏門に入り、山梨県東山梨郡春日
 
居村の地蔵院で住職を務めて、土方歳三の菩提を弔った。六十九歳で他界。
 
地蔵院に墓がある。
 
 




谷 万太郎

たに まんたろう


大阪新選組隊長
 
天保六年、備中高梁谷三治郎の次男として生まれる。種田流槍術、直心流剣術を使ったが、
 
安政三年ごろに御家断絶となり、大阪に出て医師の岩田文硯の食客となったとされている。
 
別称万吉。その後、南堀江二丁目に剣術と槍術の道場を開き、前後に岩田の次女スエと結
 
婚し二男二女が誕生したが、末子の弁太郎を除いて早世し、弁太郎を引き取って離縁した。
 
新選組加盟は文久三年秋以降で、元治元年六月の池田屋事変では、近藤勇とともに屋内で、
 
奮闘し、褒賞金二十両を賜っている。だが、その後も道場を経営しており、大坂分隊とな
 
っていたようである。同年十二月の編成では、伊東甲子太郎の二番組に所属してはいるが、
 
翌慶応元年一月のぜんざい屋事件では、道場に身を寄せていた、谷川辰吉のもたらした情
 
報によって三十郎と正木直太郎、高野十郎(安部十郎)で踏み込んだもので、三十郎を含
 
めて一般隊士とは別行動をとっていた様子が知れる。同年七月頃には、在籍が確認される
 
が、その後の記録に名前が無いことから、翌年四月に三十郎が死亡した事と関連して離隊
 
したものと思われる。維新後、大阪の釣鐘町で道場を開くが失敗し、明治十八年に弁太郎
 
をスエに託し、吉村たみと同棲。明治平定後は篠原泰之進と親交を深めた。
 
明治十九年六月三十日に病死した。墓は、大阪市北区兎我野町本伝寺にある。
 
■ 御 家 紋 ■
 
■ 剣 客 剣 豪 ■
 
 



菊池 央

きくち たのむ


平隊士
 
弘化四年、陸奥弘前で生まれる。名を英、央五郎とも云われている。慶応三年六月以降に
 
入隊し、局長附人数となる。翌年の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、閏四月二十五
 
日に、会津白河口の戦いで討死した。中島登の戦友絵姿にも描かれているように、勇猛果
 
敢に戦った戦士であったという。行年二十二歳。墓は福島県白河市大工町の皇徳寺にあり、
 
央五郎の名で葬られている。
 
 


谷口四郎兵衛
たにぐち しろべえ

差図役
 
天保十一年十二月二十六日、桑名藩士、谷口四郎兵衛守敬の子として、城下一色町で生ま
 
れる。御大小姓役を務め、北越戦争では、致人隊に所属して会津まで転戦し、九月中旬に
 
仙台で入隊する。蝦夷に渡航し、十一月、十二月と松平定敬の命によって庄内で降伏した
 
藩兵の主力を迎えに行くが果たせなかった。明治二年四月ごろの編成では差図役となり、
 
五月十一日の函館総攻撃では、弁天台場防戦中に左肩を負傷し、十五日に弁天台場で降伏
 
病院入りとなって、八月に東京に送られ、芝の隆崇寺で、旧藩に引き渡され、三年一月に
 
放免となる。十年の西南戦争に、新選旅団として参戦し、四十三年赤坂で永眠についた。
 
文京区音羽の護国寺墓地に墓がある。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 



蟻通勘吾

ありどうし かんご


平隊士
 
天保十年讃岐高松で生まれる。甚五郎の名でも?文久三年六月頃に、新選組に加盟する。
 
元治元年池田屋事変では、土方歳三隊に所属し、池田屋到着後は、屋内で奮闘し、褒賞金
 
十七両を賜った。同年十二月の編成では、沖田総司の一番隊に所属する。慶応二年の三条
 
制札事件では三番組に属して戦い、千疋の褒賞金を賜った。慶応三年六月の幕臣取立ての
 
儀では、平士として見廻組並御雇となった。慶応四年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、会津
 
では、什長を務め、五月一日の白河口黒川の戦いで、重傷を負い戦死と記録されるものの
 
蝦夷地に渡る。函館での所属は不明であるが、明治二年五月十一日函館山の攻防戦で、討
 
死した。享年三十一歳。間宮魁の「函館脱走人名」では、弁天台場での討死とされている。
 
 



石井勇次郎

いしい ゆうじろう


嚮導役、差図役並
 
弘化三年一月五日、元桑名藩士石井文弥の長男として江戸で生まれる。直心影流剣術を
 
使い、安政元年に家督を相続して、御馬回役を勤めるが、江戸開城を前に脱走して鴻ノ
 
台の旧幕軍に加わる。土方歳三とともに北関東を進軍し、宇都宮城を攻略した際腰に被
 
弾した。その後、会津から柏崎に赴いて桑名軍致人隊に属し、北越などに戦って負傷を
 
重ねるが、会津から仙台に向かい、九月中旬に新選組に加盟した。蝦夷に渡航し、嚮導
 
役に任命され峠下、七重で戦う。同年十二月には差図役下役となり、明治二年四月頃の
 
編成で差図役並となるが、五月十五日に弁天台場で降伏。その後、弘前の薬王院に収容
 
されて、東京に送られて旧藩に引渡しとなり、三年一月に放免となる。三重県職員など
 
を経て、新潟県に移り住み、三十六年六月十七日に五十八歳で他界。「戊辰戦争見聞略
 
記」を残す。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 



竹内武雄

たけのうち たけお


平隊士
 
嘉永元年、桑名藩士竹内惣太夫の長男として、柏崎で生まれる。竹内徳雄の兄。柏崎での
 
桑名軍の編成で大砲方となり、北越を転戦。会津に入る。九月中旬に新選組に加盟した。
 
蝦夷渡航直後の明治元年十月二十四日に、七重村の戦いで負傷し、明治二年四月六日に死
 
亡する。亡骸は、函館の実行寺に葬られ、新潟県柏崎市西本町の浄願寺の墓碑に「於松前
 
函館戦死」とあるが、傷病死と思われる。
 
 



岸島芳太郎

きしじま よしたろう


諸士取調役兼監察
 
丹後宮津の出身で、元治元年十二月までの、京坂における隊士募集に応じて、入隊した。
 
伍長、諸士取調役兼監察、勘定方、小荷駄方などを歴任するが、同年十二月の編成では、
 
谷三十郎の八番大砲組に所属し、慶応三年の幕臣御取立ての儀では、平士として見廻組並
 
御雇の格を賜る。慶応四年一月鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、二月に脇差購入の
 
記録を残した後離隊した。彰義隊にも関わっていたようで、明治後期に京都の原田左之助
 
の妻マサを訪ね、原田左之助の最後と戒名を伝えたといわれている。
 
 



中西登

なかにし のぼる


平隊士
 
天保十三年、武州川越で生まれる。昇とも称す。北辰一刀流剣術を使い、内海次郎と江戸
 
深川の伊東甲子太郎道場で、師範代を勤めていたが、元治元年十月、近藤勇の江戸での隊
 
士募集に応じ、伊東甲子太郎らと上洛し、十二月の編成で、斎藤一の四番組に所属。慶応
 
元年七月には、小路平三郎とともに京都潜入の長州藩士石津茂一郎を捕縛し、翌年九月の
 
三条制札事件には、原田左之助の七番組に属し、二十両の褒賞金を賜った。慶応三年三月
 
に、伊東らが御陵衛士として、新選組から分離した際に同行するが、脱退する事が目的だ
 
ったようで、御陵衛士としての記録が無く、安部十郎は「同志ではなかった」と名言をし
 
ている。また阿部は慶応四年九月に彼が、京都で佐原太郎を殺害したとも語っているが、
 
篠原泰之進は、七月五日に京都五条橋付近で田口次郎という人物を殺害したとされている。
 
 



柴田彦三郎

しばた ひこさぶろう


平隊士
 
天保十年、江戸に生まれる。喜三郎、勝三郎とも称す。名を忠興。甲源一刀流剣術を使い、
 
元治元年十月に、近藤勇の江戸での隊士募集に応じて上洛し、十二月の編成では、尾形俊
 
太郎の五番組に所属した。慶応二年六月に、一橋家臣原口某と市中で金策を行なって脱走
 
したが、人相書を用意した近藤芳助らに追われ、出石の宿で郡役人に捕らえられて、身柄
 
を引き渡された。そのまま、屯所に連行され、同月二十三日に切腹となる。
 
行年二十八歳。墓は光縁寺にある。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 


山崎八蔵
やまざき はちぞう

会計方
 
文政九年二月二十四日、桑名藩士成瀬幾右衛門正直の長男として、桑名城下で生まれる。
 
名を成瀬杢右衛門。京都所司代では公用人を勤め、慶応四年五月の彰義隊の戦いに参戦し、
 
敗走して外国船で塩釜に向かう。九月上旬に福島で藩主松平定敬と出会い、仙台で蝦夷に
 
渡航する定敬に随従することになる。入隊は蝦夷渡航後のことで俗務方を務め、明治二年
 
四月ごろの編成で会計方となっている。五月十五日に弁天台場で降伏して、弘前の薬王院
 
に収容後、東京に送られて、最勝院で旧藩に引き渡され、三年一月に放免となった。
 
明治三十五年九月十一日七十七歳で他界。墓は、三重県桑名市伝馬町十念寺にある。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 



武部銀次郎

たけべ ぎんじろう


番兵取締役
 
乙部剛之進。元備中松山藩士で、板倉勝静が江戸から、日光に脱した際に同行し、板倉と
 
ともに投降して、宇都宮藩預けとなった。旧幕軍の宇都宮城攻略戦の混乱に乗じて、逃走
 
し、板倉とともに会津から、仙台に入る。九月中旬に新選組に入隊し、蝦夷渡航後、明治
 
二年一月前後には、番兵取締の任にあった事が記録され、五月十一日の箱館総攻撃では、
 
本武権平とともに、箱館山から逃げ延びたことが、伝えられるが、弁天台場で討死した。
 
墓は、岡山県高梁市の頼久寺にある。
 
 

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