会津藩士 |
文政13年閏3月24日、代々会津藩家老をつとめた西郷家の最後の当主 |
として、若松城追手前の家老屋敷に生まれた。頼母は、西郷家歴代の襲名的 |
通称で、名は近悳。維新後は、祖先が信州高遠の保科姓であるので、保科近 |
悳と名乗った。嘉永4年22歳の時、妻、飯沼千重子を迎える。 |
安政4年、家督を相続し家禄一千七百石を給され、文久2年7月、33歳 |
の時家老職に就任した。 |
翌月、藩主松平容保に幕府から京都守護職の内命があり、同じ家老の田中土 |
佐と共に騎馬で若松から江戸藩邸へ駆けつけ、辞退するように進言したが容 |
れられず、それでもあくまでも反対を唱えたため、家老をやめて若松の東北 |
の山下長原村で蟄居となる。 |
慶応4年正月、鳥羽伏見の戦いが勃発し家老に復職する。容保が慶喜と共に |
江戸へ逃亡したことをふまえ、ひたすら恭順謝罪を唱えるが、黙殺される。 |
藩命で、白河口や背灸山の戦いに出陣したが、籠城戦になると藩主に強く玉 |
砕を迫ったという。この間に自邸では8月23日、妻千重子をはじめ母や |
娘や妹九人と一族合わせて二十一人が自決し、夫や父、息子を励ました。そ |
の様子は「なよ竹哀話」として語り継がれている。しかし、頼母は、城中に |
おられず、長男吉十郎(十歳)を伴って城外へ脱出。米沢から仙台へ抜け、榎 |
本武揚の軍艦で五稜郭へ入ったが、ここでも戦いはしなかった。 |
翌2年、降伏。頼母は、館林に禁固され、この前後、西郷との手紙の往復が |
あり、謎が多い。 |
赦免後、明治5年から、謹申学舎という郷学の塾を開き、また、棚倉都々古 |
別神社の神主をしていたが、西南戦争で鹿児島方と疑われて辞任する。実弟 |
山田陽次郎は、雲井竜雄事件に連座して獄中で死去。長男吉十郎も明治12 |
年病死。頼母は、ただ一人生き残った。 |
翌13年に、旧主容保が日光東照宮宮司に就くと、そこへ赴く。 |
一方、明治以後廃家となっていた西郷家を養子の四朗に再興させ、晩年には |
維新後改姓していた保科家の養嗣子として近親の西郷近一を迎えた。 |
明治20年、東照宮を退官、同22年、福島県霊山神社宮司に任じ、自伝 |
「栖雲記」などを書く。 |
明治32年、退職して若松へ帰り、通称十軒長屋で暮らす。 |
明治36年4月28日病没。享年74歳。 |
遺言の通り、妻の眠る若松門田町の善龍寺に葬られた。 |
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