山県有朋
やまがた ありとも

長州藩士
 
天保9年閏4月22日、長州萩城下川島に生まれる。父有稔は蔵元付仲間(藩倉
 
庫の下男頭)で、足軽よりも更に身分の低い卒族であった。幼名辰之助、次いで
 
小助、小輔。通称、狂介、のち有朋と改め、素狂、含雪と号した。
 
五歳の時に母松子を失い、継母と祖母に育てられ、厳しい日々を送ったが、
 
父も有朋が23歳の時に死去。母代わりの祖母も後に亡くなる。
 
志を立て文武に励み、久坂玄瑞の紹介で吉田松陰の松下村塾に入った。松陰
 
は有朋を、根性はあるが群材であると評したと言われる。
 
元治元年8月、四国連合艦隊の下関来襲では、奇兵隊軍監として活躍、内訌
 
戦にも功労があるが、極めて用心深く、慎重な性格であったと言われている。
 
戊辰戦争においては越後口の官軍参謀として転戦したが、河井継之助に敗北
 
している。
 
新政府では、欧州の軍政を視察して、帰国後は陸軍中将となり、徴兵制によ
 
る近代的常備軍の創設に尽くし、参謀本部を設置し、軍を政府から独立させ、
 
以来、我が国陸軍の中心的存在として長州陸軍閥を形成した。
 
内務卿として警察と行政を中央集権的機構に作り上げて、枢密院と貴族院を
 
バックに、派閥を好まなかった伊藤博文とは対照的に山県閥を広げ、明治22
 
年(第一次)、明治31年(第二次)内閣総理大臣に就任した。
 
明治天皇も有朋を好まず、伊藤が暗殺されたあと、桂太郎が有朋を枢密院議
 
長に推薦してもなかなか認めなかったと言われている。
 
大正11年2月1日死去。享年八十五歳。日比谷公園での国葬であった。
 
墓は東京都文京区音羽の護国寺にある。
 
戒名は、報国院高照含雪大居士。
 
墓誌には、枢密院議長元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵とある。
 
 
 

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