山岡鉄舟 
 やまおか てつしゅう 

幕 臣
 
  天保7年6月10日、江戸600石の旗本、御蔵奉行小野朝右衛門の五男に生まれる。通称は  

  鉄太郎。9歳の頃から新陰流久須美閉適斎祐義に学び、弘化2年8月、父に伴われて飛騨高  

  山に移住し、嘉永4年、京都に滞在していた北辰一刀流の井上八郎清虎を父朝右衛門が招  

  聘し鉄太郎はこの井上清虎から学んだ。嘉永5年17歳の時に父が79歳で病没。7月に江戸  

  へ帰る。安政2年鉄太郎20歳で北辰一刀流千葉周作に剣を学び、忍心流山岡静山に槍を学  

  び、山岡の弟高橋泥舟とも親交を結んだ。師の静山の死後、末弟信吉の養子になり妹英子  

  の婿となって家禄105人扶持の山岡家を継ぐ。安政3年講武所世話役となり、安政4年には  

  剣禅二道に精進し「修身要領」を作成。翌5年さらに「宇宙と人間」を編んで自己の進む  

  べき方針を定めた。この頃、北辰一刀流同門の清河八郎の攘夷論に共鳴し、虎尾の会の一  

  員に名を連ねるなど鉄舟自身はかなりの攘夷論派であったため、幕府の要注意人物でもあ  

  った。文久3年清河の提唱する浪士隊結成は、鉄舟も計画に加わっており、京都には取締  

  役として同行し、後の新選組局長芹沢鴨や近藤勇らとも同じ道中を辿る事になる。その後  

  清河が浪士組の大部分を伴って江戸へ戻る時に同行して帰東。清河が幕府の手によって赤  

  羽橋で暗殺されると、現場に急行し、その首を隠したと語られている。同年には28歳にし  

  て中西派一刀流の浅利又七郎と試合をして敗れたことから、以後明治に至るまで17年の凄  

  絶な修行を積み、浅利から「夢想剣」の極意を伝授され、一刀正伝無刀流を創始した。鉄  

  舟はまた、弘法大師入木道52世を継承した名書家としても知られている。  

  幕臣としては永く日の当たらなかった鉄舟が歴史の大舞台に名を表すのは、徳川幕府瓦解  

  の慶応4年2月の事で、当時幕府の全権を委任されていた勝海舟に呼ばれた鉄舟は、徳川  

  慶喜恭順の意を伝えるという特命を受け、勝からの書状を携えて、勝の世話になっていた  

  薩摩の益満休之助を同道して江戸を発つ。駿府にある官軍の東征大総督府参謀の西郷隆盛  

  の元へ向かう為だが、沿道には官軍鉄砲隊の兵士たちが警備している中、鉄舟は「朝敵徳  

  川慶喜家来、山岡鉄太郎。大総督府へまかり通る!」と、大声で痛烈な名乗りを上げつつ  

  堂々と通り抜け、この度胸に兵士たちは茫然として誰何する者もなかったという。3月9  

  日に西郷と会見し、徳川家の処分に関して話し合うが、武力討幕派であった西郷の提示し  

  た恭順五ケ条の条件はいずれも厳しく「恭順といいながら幕府は甲州で戦端を開いたとい  

  うが」と直前の甲州勝沼戦争の事も問われるが、鉄舟は勝の意を受けており、あれは主君  

  の命令ではなく恭順に従わぬ者たちの独自の抵抗であると釈明、後に引かなかった。中で  

  も、慶喜を助命する代わりに官軍監視下の備前預けとする、との一条だけは何としても承  

  服出来ないと譲らず、「朝命」を名目に威圧的に迫る西郷に対して、鉄舟は、もしも戦争  

  の勝敗によって貴方と私の互いの立場が逆だったとしたら、貴方は島津公の身を同じよう  

  に差し出す事を承知出来るのか、君臣の情として、主君を幽囚の人質として人手に渡すの  

  が堪え難い事は、武士ならばわかるはずだという心情を訴えた。この熱意によって西郷は  

  心を動かされ、我が身に替えても善処すると約束し、これが後に勝と西郷の江戸での会見  

  成功に繋がり、無血開城の交渉に大きく貢献したのである。西郷は後日、鉄舟の事を「命  

  も名も金もいらぬという男は始末に困る、しかしそういう男でなくては天下の大事は語れ  

  ぬ」と評したといい、維新後には明治天皇の侍従に推挙した。鉄舟は辞退したが是非にと  

  請われて10年間という約束で引き受け、明治5年に侍従番長に就いてから宮内大丞、宮内  

  大書記官、宮内小輔を歴任し、15年6月には言葉通りに辞職した。  

  明治21年7月19日、53歳で没。  

■ 御 家 紋 ■

■ 剣 客 剣 豪 ■




The music produced by DR(零式)さん
MIDI ON / OFF


佐幕人名鑑に戻る


このページは幕末維新新選組の著作物です。全てのページにおいて転載転用を禁じます。
Copyright©All Rights Reserved by Bakumatuisin Sinsengumi