山崎烝
やまざき すすむ
副長助勤、諸士調査役兼監察
 
子母沢寛の「新選組始末記」では、大阪の針医林五郎左衛門の倅で、山崎烝自身が針医者
 
だったとしている。さらに林信太郎とは、従兄弟といわれているが、島田魁の記録では、
 
阿波徳島産で、従兄弟という雰囲気は文では、つかむことができない。近藤芳助(川村三
 
郎)は「出生地不許としながらも京に永く居住、文筆学才あるをもって諸士調役となる。
 
年齢は三十四、五」という。のちの函館新選組の山崎林五郎こと、林新次郎が弟との説が
 
ある。林五郎が壬生村住居の浪人であることからやはり、壬生村出身ということなのだろ
 
うか?入隊時は大阪に居住していたかもしれない。すでに妻帯していたものと思われ、そ
 
の名を「琴尾」といい、明治四十三年まで存命だったと云われている。
 
元治元年池田屋事件では、薬屋に化けて乗り込み浪士の動向を察知。密会があるのを報告
 
し、鍵を外してから浪士らの刀を隠した。そして近藤らを屋内から誘導して斬り込ませた。
 
しかし、後日の褒賞金授与の中に山崎烝の名が洩れていることから、池田屋参戦は無論の
 
事、事前探索活動もなかったとみていいだろう。
 
慶応元年二月の山南切腹に際しては、神崎一二三とともに、頼越人として、光縁寺に出向
 
いている記録が残っている。屯所に松本良順が尋ねて来た際は良順に、西洋の救急治療法
 
を習い「我は新選組の医者なり」とおどけてみせたこともある。これが「山崎烝は医者」
 
といわれる噂の元ではないだろうか。良順は「隊士中、山崎烝なる者あり。もと医家の子
 
なり。性温厚にして沈黙よく事に堪ゆるあり。勇の最も愛する者なりし」とまで、言わし
 
めた学才の輩である。慶応元年十一月永井主水正尚志に従い広島に出向いた記録もある。
 
一説では、長州の動向と伊東らの監察が目的とも云われている。翌年まで長州探索を行な
 
い、六月には佐藤安二郎に報告書を託しているが、帰京時期は不明である。慶応三年幕府
 
取立ての際は、副長助勤として、見廻組格を賜る。同、二十四日は土方らと共に柳原前光
 
と正親町三条実愛のもとを訪ねて公武合体を請願し、九月十四日には、鷲尾隆聚邸へ不審
 
人物の捜査に赴いている。
 
山崎烝の最後は、かなり謎な部分が多い。子母沢寛は、富士山丸から水葬と伝えているが
 
島田魁は「橋本にて討死」と伝え、永倉新八は「大阪浪士で銃痕死」と伝えている。
 
横倉甚五郎は「淀にて討死」と伝えており、江戸引き上げの乗船の欠けらもみられない。
 
ただ近藤芳助は「大阪の京屋忠兵衛宅で確かに見認候」と書き残し、水葬どころか、乗船
 
も認めていない。芳助は「重傷にて遺骸は大阪にあらんか」ともいっている。だが、実家
 
である林家では、船中死亡が伝えられている。顕光院貫月義実居士の戒名が授けらている。
 
一般の記録では、慶応四年没といわれているが定かではない。
 
■ 御 家 紋 ■
 
 

The music produced byDR(零式)さん
MIDI ON / OFF


隊士名鑑に戻る


このページは幕末維新新選組の著作物です。全てのページにおいて転載転用を禁じます。
Copyright©All Rights Reserved by Bakumatuisin Sinsengumi