1. 土方歳三は十人きょうだい ..04/03(Sat) 02:29[1]

土方歳三は、日野宿石田村の実家で父の没後三ヶ月に生まれた
末っ子であることは知られている。
男子は長兄為次郎(石翠)、次兄喜六(隼人)、長姉周、
三兄大作(粕谷良循)、次姉のぶ、四男歳三。
大作は養子に出ており周は十六歳で病没しているが、
通常「六人きょうだいの末っ子」といわれてきた。
しかし、実は他に二男二女がおり、土方家では
計十人きょうだいの末っ子だったことがわかった。
幼少の頃に亡くなった兄姉たちを歳三は知らないので、
昭和に取材を受けた土方家当時の御当主が歳三の育った
時点で六人きょうだいと答えたものと思われる。


2. 近藤勇もう一人の父 ..04/03(Sat) 02:29[2]

近藤勇の父といえば養父周斎があまりに有名で、宮川家の実父久次郎は
ドラマなどでもほとんど登場することがない。
が、幼名勝五郎、勝太と名乗った頃の勇が、兄達とともに剣術に
めざめたのも、実父の薫陶によるところが大きかった。
後に新選組局長となった近藤勇が公用で関東に帰郷することが
できた時、周りの人が出世した息子に会うことを勧めたが、
父の久次郎は、「勇は大切な御用のためにきたのであって
親の顔を見にきたのではない」と言って面会しなかったという。
情としては少しでも子供に会いたいものであろうに、気骨を
感じさせる話である。


3. 芹沢がコイを ..04/03(Sat) 02:29[3]

壬生屯所時代、あろうことか芹沢たちが新徳寺の池の鯉をつかまえて
食ってしまったという話がある。鯉の洗いにしたのかそれとも鯉こくか。
殺生を禁ずるお寺の池から鯉を捕って食うとは大胆な話だが、さぞ寺側は
苦々しく思ったことだろう。


4. 山南敬助の年賀状 ..04/03(Sat) 02:30[4]

新春之御寿四海昌平目出度申納候
先以貴兄御始御家内様御機嫌■被遊
御越年奉登賀候
下拙も無異越年罷在候間
乍憚御安意被下候
先ハ年甫之御祝詞申上度呈愚札候
尚期永日之時候    謹言

正月廿七日   山南敬介 知信(花押)

二白 京地之形勢即悪書を以可差上之処
果而近藤先生より御細書之事と相略ス


文久四年(元治元年)一月二十七日に書かれた
原書簡はなく、送られた小島鹿之助が筆写し
書き留めておいたものである。「病床」にあって
多摩の人との面会もかなわなかったという山南の筆跡は、
かつての力に満ちていなかったのではないだろうか。


5. 沖田総司が借金のお使いに ..04/03(Sat) 02:30[5]

試衛館時代、近藤勇が実兄宮川音五郎にあてた年度不明の手紙がある。

「分家」に借金を申し込み総司を使いにいかせたが断られたこと。
近頃は物価高騰だが、これまで親類に借金を頼んだのは一度もなく、
初めてだったのに、今後親類はアテにしないと不満をのべつつ、
今回は格別の必要があるので十両、無理ならできるだけでも
工面してほしい、と長兄に頼んでいる。

妻を迎えたり色々と物入りで大変だった若き当主の正直な思いが
兄にはいえたのだろう。
沖田総司は先方で何と申し出の口上をしたのか、断られて勇の前で
詫びたのか、身内ならではの頼まれごとが窺い知れる。


6. 近藤勇の書簡新資料 ..04/03(Sat) 02:30[6]

平成15年に、それまで秘蔵されてきた近藤の書簡資料が発表された。
文面は下記の通り。

分襟一瞥以来公用ニ周旋候折柄
不憶御不音多罪之至候
湧御勇健被成御起居奉恭賀候
随而僕方一統無変候
陣旧臘中案心之時無遅滞候
得拝顔不相応御厚情相成萬々忝奉禮候
猶留守宅之義御世話候段奉謝候
陳平馬様御事益御昇進之趣大慶不斜候
下拙おゐて祝満奉存候
諸京師形勢兎角心不安故下拙義も
未タ東下之期限至不申
旁ヽ訳し候而土方氏差下候
萬瑞模様柄等委細御聞取奉願上候
乍末筆皆々様江宜下鶴声奉希候        不宣

三月十八日
                      近藤勇
 蔭山新之丞様

猶以季候御厭被成候様奉願候
福田様御事常州辺江御出役之由別段書状差上不申候間
よろしく且旧年中彼是御身一条周旋心懸居候得共
未タ申上場所も無御座候
尚追而可申上候以上


「平馬」ときたあと「福田」とくると、近藤の養父や妻子の世話をし、
甲陽鎮撫隊にも加わり勇の助命嘆願にまで奔走した、神奈川奉行所
勤務で天然理心流門人の「福田平馬」のことかなと思うが、
宛名の蔭山新之丞という人物や福田が何年に常陸へ出張したか
わかれば今後の考証が進むと思われる。


7. 野村利三郎にちなんだ「かっぽれ」 ..04/03(Sat) 02:30[7]

江戸時代の邦楽で有名な「かっぽれ」。
もとの歌詞は豪商・紀伊国屋文左衛門が嵐をものともせず
みかん船を運航させたという故事からで、
「かっぽれかっぽれ、ヨーイトナ、ヨイヨイ。
 沖の暗いのに 白帆が見える、
 あれは紀の国、みかん船じゃエ」
明治の頃、こんな替え歌があったという。
「沖の暗いのに 日の丸が見える、
 あれは徳川さんの 回天丸」
もちろん明治新政府のお役人の前では歌えないだろうが、
新選組野村利三郎らが戦死した宮古湾海戦の様子を
活写したものである。


8. 近藤勇、松本良順から西洋事情を講義される ..04/03(Sat) 02:30[8]

元治元年秋、江戸に下った近藤勇は十月十一日、幕府医師の松本良順宅を
訪問。近藤が名刺を出して面会を求めると、家族は洋学者を斬ろうと狙う
攘夷浪人かと恐怖したが、良順先生は「何を恐れることがある。世間では
勇を暴虐の人のようにいうが、俺はそう思わない。やっていることの多くは
道理にかなっている。国家に身をつくそうというものに礼儀道徳がないわけは
なかろう」として応接室に通させた。
勇は「先生の雷名を以前からお聞きして、教えを乞いに参りました。
いま最も知るべきなのは外国の事だと思います。
先生はもっぱら洋学を用いて人に教えていらっしゃると伺いますが本当ですか。」
と来訪の意図をつげる。
良順先生は得たりとばかり「近頃の浪人がみだりに外人を斬るのはあさはかだよ。
西洋人は利によって動く。しかし侮れないところもある。孫子の兵法でも、
彼を知り己を知るというだろう。西洋諸国は今、兵を練り武を講じ、天文、
地理、化学も大変進んでいる。軍艦や大砲も改良を重ねて優れ、使い方にも
通じている。陸海軍の精鋭さときたら規律も厳粛で将卒も皆その制度をきっちり
守っている。君も天下の大勢についておおいに考えなさい」と、
地図や戦争図や器械図などを見せてじゅんじゅんと説いていった。
聞き終わった勇は大いに喜んで「先生のお陰で長年の疑問が氷解しました。
またぜひ教えていただきたい」といって帰った。


N E X T




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