徳川美賀子 
 とくがわ みかこ 

 
 
  天保6年7月、今出川公久の娘として生まれる。本名省子、延君(ながぎみ)  

  と称する。維新後に美賀子となる。誕生の翌年に父は他界。  

  嘉永6年5月、19歳の折、摂家一条忠香の養女として御三卿、一橋慶喜  

  室に迎えられることが決まる。一条家の千代君が2月に病死したため  

  の代役であった。翌7年、君号を美賀君に改め半元服を行い歯を染める。  

  安政2年8月、婚姻の御下賜金三千両の通達が一橋家にあり、9月から  

  10月には御道具が本丸から一橋家に回送、侍医湯川安道の依頼等、美賀  

  を受け入れる一橋家の準備も整った。9月15日の東下に際し、美賀は  

  天皇を参内し天盃を賜り、公家暮らしとの別れを告げる。  

  一行は東海道を進むが、途中10月2日江戸に大地震があり、川崎宿で足  

  止めにあい、10月5日に江戸城本丸に到着する。地震後の建物修復など  

  もあり、一橋御守殿に移ったのが11月11日。同15日に結納が行わ  

  れ、晴れて慶喜との婚礼の儀が執り行われたのは12月3日であった。  

  これにより美賀は一橋刑部卿慶喜の正室となり御簾中と呼ばれ、18日  

  には慶喜と共に本丸大奥へ婚姻の礼を述べに登り、武家夫人としての  

  暮らしが始まる。慶喜の父水戸の斉昭はこの婚儀をたいへん喜び、美賀  

  への思いやりの大きかったことが書簡等にもあらわれている。  

  しかし松平春嶽の母、青松院によると、美賀は、慶喜とその養祖母である  

  徳信院直子との間を嫉妬し、謡の稽古の邪魔をしたり、声をあげて慶喜  

  にあたりちらしたために怒りをかうなど、家中での評判もあまり良くは  

  なかったといわれる。美賀と慶喜の不仲は他の大名の間でも知るところ  

  となり、島津家の書簡には、安政3年6月16日に美賀が慶喜と徳信院  

  との親密な関係を疑い、自害までしようとしたことが記されている。  

  幸い一命は取り止めたが、9月頃まで長く臥せっていたという。  

  安政5年、美賀は懐妊し、5月1日に着帯の祝儀が行われる。しかし、夫  

  慶喜が6月23日の井伊大老面会のための不時登城の件で7月5日に  

  登城見合わせの命を受け、7月16日未下刻に女子が生まれたにもかか  

  わらず表向きのお披露目は当分遠慮となる。ところが、その女児は20日  

  に急逝し、美賀の落胆は大きかったと思われる。女児の法号は瓊光院池水  

  影現大童女といい、上野凌雲院に葬られた。翌年6月の一回忌に慶喜は  

  出向しなかったという。同年8月、慶喜は幕府より隠居慎みの命を受ける。  

  万延元年9月4日、慶喜の謹慎が解け、文久2年7月6日一橋家再相続の  

  受けるがそれと共に将軍後見の命も受け、以後慶喜は京、大坂に滞在し  

  国政にたずさわることとなり、美賀とは別居状態となる。  

  慶応2年8月、慶喜は徳川宗家を相続することとなるが、美賀は一橋邸  

  滞在のままの幕命があり、非常警備のものが一橋邸に入り、用品は  

  和宮、天璋院同様の計らい、膳物は幕府賄方より廻し一橋膳所にて仕立  

  てるとの扱いとなる。また非常時の立退所は吹上庭と定められた。  

  慶応3年9月、美賀の称は御台様と改められるが、慶喜の将軍辞職に伴い  

  12月には再び御簾中と称する伝達を幕府より受ける。  

  明治元年4月6日、美賀は水戸徳川家の上屋敷小石川邸に移り、同2年  

  9月14日、再び深川の蔵屋敷に居を移すが、10月25日には慶喜の  

  待つ静岡に迎えられ、紺屋町邸の女主人となる。後の美賀は、散歩や  

  花見、紅葉狩り、湯治などをして過ごす生活となるが、夫慶喜は側室を  

  寵愛し、美賀は一人で出かけることがおおかったといわれる。  

  晩年病魔に冒され、療養の為に一人東京へ戻る。  

  明治27年7月9日、千駄ヶ谷の徳川邸で亡くなった。享年60歳。  




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