高杉晋作 
 たかすぎ しんさく 

長州藩士
 
  天保10年8月10日、長州萩藩菊屋横丁に、父高杉小忠太、母みちの長男として生まれる。  

  通称を東一、諱を春風、号を東行、東洋一狂生等。父小忠太は当時小納戸役150石であり、  

  誠実実直を認められて、奥番頭役、直目付へと昇進、大組士として200石を得た。晋作は父  

  に似ず幼少の頃から病弱ながら気性が烈しく、大人の藩士が自分の凧を誤って踏み破いて  

  しまうと、泥を掴んで拝領の紋付に投げ付けると叫び詫びさせたという。8歳で吉松淳蔵  

  の塾に入門、同門に久坂玄瑞がいる。間もなく藩校明倫館に小学生として入学。10歳の時  

  天然痘の重症に罹り、両親が名蘭方医青木周弼や藩主御側医能美洞庵の診療を受けさせる  

  等、懸命に手を尽くした甲斐があって回復。15歳で明倫館の大学生に進学、成績優秀な者  

  に許される入舎生として進級を続け頭角を現す。しかし藩校の古風な学問に飽き足らなく  

  なった晋作は、19歳の時に両親や親戚中の大反対に遭いながらも、国外脱出未遂の罪で国  

  元に幽囚の身となり「松下村塾」を開いていた吉田松陰の門下に通うようになる。松陰は  

  門人の身分に関わらず教育に励み、自尊心の強い晋作をもう一方の英才久坂玄瑞と常に競  

  わせる事でその才能を急成長させた。松陰は晋作を「識」玄瑞を「才」と評し、ただ読書  

  稽古の為ではなく報国の大計を建てる為に交流するのだと教え、事を議する時にはまず晋  

  作を呼んで決める、とまで信頼するようになる。しかし同窓生の中には、「久坂には誰も  

  が附いていきたがるが、高杉はどうにもならぬ」と評され、折り目正しく堂々とした久坂  

  に対して「鼻輪を通さない離れ牛」と迄対照的に言われる。  

  安政5年7月20歳の時、久坂の半年遅れで江戸遊学が叶い、遊学先の昌平黌が二ヶ月の欠  

  員待ちの間に、水戸志士が頻繁に出入りする小梅庚申塚の大橋訥庵の思誠塾に籍を置いた  

  後に昌平黌へ入学。この間に師の松陰は老中暗殺計画等の過激な決起策に傾き、晋作は久  

  坂ら4人と共に師の危険を案じ、自重してくれと書簡を書き送る。しかし松陰が聞き入れ  

  ず捕らわれ、江戸伝馬町の獄舎に送られると、晋作は書物を差し入れたり労名主に贈る金  

  品の調達等に尽力した。上士の子弟である晋作が幕府から政治犯として投獄された松陰と  

  接触を続ける事を怖れた藩は晋作に突然の帰国命令を発し、その道中で松陰刑死の報を聞  

  く結果となった。長州に戻った晋作は藩校と松下村塾勉強会に復学。親の勧めで山口町奉  

  行井上平右衛門(150石)次女マサ(方、雅子)と翌万延元年1月に結婚。西洋兵学教育機  

  関である博習堂の松島剛蔵のもとで航海術を学び始め、3月明倫館舎長に進級。4月に蒸  

  気科修業として帆船丙辰丸で二ヶ月の航海を体験、江戸に到着すると父の帰国催促に反し  

  て藩の許可を得、東北北陸の旅に出る。常陸笠間の加藤有隣、松陰の師でもある信州松代  

  の佐久間象山、越前福井での横井小楠に出会い、「3年間閉じこもって読書をしようかと  

  いう志が起きた」と記す程有意義な収穫を得た。同年12月に帰国して明倫館文学寮全体の  

  取締役である都講に上る。いわば長州藩学生の主導者となった晋作は、文久元年に世子定  

  広の小姓役に出仕、文久2年藩命で幕府使節の随行員の一人に選ばれ幕船千歳丸に便乗、  

  長崎寄港中の100日程の間、藩から支給された出張旅費を接待の名目で遊興に使い果たす。  

  しかし長崎ではアメリカの南北戦争について内乱の実情を聞き知り、続く上海渡航では、  

  英国との戦争に負けた清国が西洋の植民地化し隷属する様を目の当たりに見た。この衝撃  

  で晋作は師に劣らぬ「狂夫」と化し、長崎帰着後は藩に無断先行の形で2万両ものオラン  

  ダ船購入を契約するが結局は破談となり、11月に横浜外国公使襲撃計画、12月に品川御殿  

  山の英公使館焼き討ち、翌文久3年6月には下関の豪商白石正一郎の熱心な支援を受け、  

  藩士以外の身分の者を兵として用いる「奇兵隊」を創設する。奇兵隊は身分差別の因習を  

  残していたが、正兵(藩士)で足りぬなら庶民も用兵に駆り出せば良い、というのは速効  

  を求めて突き進む晋作らしい発想であった。  

  同年8月18日の政変により、長州藩は尊攘過激派として幕府、朝廷、会津、薩摩の連携の  

  もとに京都政界を追い出され、国元では京都進発論と自重論が紛糾していた。藩の奥番頭  

  に昇進していた晋作は、翌元治元年に藩の命令で進発派の説得に赴き、来島又兵衛(禁門  

  の変に進撃して戦死)と激論を戦わすが、臆病者と罵られて脱藩、野山獄舎に投獄される。  

  この間、京都では池田屋事件、禁門の変が勃発、下関には四ヶ国連合艦隊が前年の長州砲  

  撃に対する報復で押し寄せ砲台占拠、長州藩は大苦境となる。晋作は赦免され、下関戦争  

  の講和会議正使に抜擢されて交渉に当たる。同10月、幕府による長州征伐が発令されると  

  藩内は保守派が実権を握り恭順策を取った為、晋作は萩を脱して福岡へ渡り、野村望東尼  

  の元に潜伏後、密かに下関へ戻り、功山寺で挙兵、長州藩出先機関の会所襲撃を皮切りに  

  各地で諸隊が呼応して内戦に突入し、慶応元年2月には藩内革新派が新政権を握り、以後  

  長州藩は挙藩武力倒幕へ一本化の道を辿る。晋作自身は再度外国視察の旅に出たいと希望  

  していたが受け入れられず、またも持ち前の破天荒な金銭感覚で英国商人グラバーから買  

  い付けていたオランダ軍艦オテント丸が藩船丙寅丸と名を変え、慶応2年の第二次征長戦  

  (四境戦争)では大いに威力を発揮した。晋作は土佐の坂本龍馬と既に幕府再征には対策  

  を協議しており、海軍総督の自ら丙寅丸を指揮して、6月大島沖停泊中の幕府軍艦四隻を  

  夜襲砲撃、同月小倉口の開戦では海軍を率いて幕軍を撃退、同領を占拠。7月には下関海  

  陸軍参謀として活躍する。しかし持病の肺結核が悪化して喀血を繰り返し、10月には辞任。  

  最も愛した妾のおウノの看病も甲斐なく、慶応3年2月に正妻雅子が呼ばれた時には既に  

  重体となっていた。晋作は激烈な気性の反面、女性に関しては神経が細かく、前年には既  

  に下関で妻妾対面の場を設けていたが、その折に「妻児(雅子と子供)まさに我が閑居に  

  至らんとす、妾婦(おウノ)胸間患い余りあり。これより両花開落を争う、主人手をこま  

  ぬきて如何ともするなし」との詩を詠んでいる。末期に近い晋作の側で再会する妻と妾は  

  どのような心境だったろうか。晋作は晩年殆どの愛情をおウノに注いで側に置いたが、妻  

  には「そもじも侍の妻なれば、後を守り操を立て、夫の葬りを致すが女の役目にてござ候。  

  我ら死ぬるもそもじの事忘れ申さず候」との遺書を残している。4月14日未明、晋作は危  

  篤に陥り、辞世として「おもしろき事もなき世をおもしろく」と書いて力尽きる。生涯に  

  400以上もの詩を残した詩人でもある晋作が下の句が浮かばなかったとは限らず、意図し  

  た言葉はそれで充分だったのかもしれないが、晋作の良き支援者の一人であった野村望東  

  尼が急遽「住みなすものは心なりけり」と下の句をつけて和歌を完結させた。晋作はそれ  

  を「面白いのう」と呟いて、翌年の武力倒幕実現を見る事なく、疾風の生涯を閉じる。  

  享年29歳。  

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■ 剣 客 剣 豪 ■




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