柳生新陰流 |
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天保十年八月二十日、萩藩士二百石高杉小忠太の嫡男に生まれる。名は春風、 |
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号は東行ほか。十四歳で藩校明倫館に入学したが、その講義に失望して、 |
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柳生新陰流指南内藤作兵衛の道場で剣術に熱中した。十九歳のとき吉田松陰の |
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松下村塾に入って学問に目醒めたが、剣術の稽古も怠らなかった。 |
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安政五年、江戸遊学。そこでも満たされなかった。晋作が犬を斬ったと聞いて |
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「もって志気の劣えが知れる」と松陰は嘆いた。その松陰の処刑を聞いたのは |
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安政六年十月帰国の途中だった。翌万延元年春、藩艦丙辰丸で江戸初航海に |
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出発する前、内藤作兵衛から柳生新陰流免許皆伝を授かった。その年秋には、 |
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関東北陸を遊歴、各地の学館や道場を訪ねて他流試合を重ねる一方、加藤有隣 |
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佐久間象山、横井小楠ら先覚者を歴訪した。文久元年、世子小姓となり上府。 |
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公武周旋を進めている長井雅樂を斬るといきまいたが、上海渡航の藩命を受け |
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て中断した。文久三年には、江戸北町奉行の密偵として大橋訥庵を幕府に売った |
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高槻藩士宇野八郎を桜田屋敷の宿舎で密殺した、と伊藤博文が語っている。 |
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決して大兵とは云えない晋作の剣技は気力に支えられたものだったに違いない。 |
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体にそぐわぬ大きな刀を携えて写真に映っているが、これは当時の志士たちの |
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流行だったようだ。奇兵隊を創成し、俗論討奸に決起し、幕長戦争で小倉城を |
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降ろして維新の先鞭を告げた晋作は、慶応三年四月十三日夜八ッ時、二十九歳で |
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炎の生涯を燃え尽きさせた。結核であった。下関吉田の清水山に眠っている。 |
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■ 幕末人名鑑 ■ |
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無外流 |
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安政六年九月二日、姫路藩士高橋哲夫を父に生まれた。元治元年自邸道場の |
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「膺懲舎」において、初めて父の手ほどきを受けた。高橋家は代々武をもって |
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藩に仕えてきた。父は無外流兵法、津田一伝流剣術に自鏡流居合の師範を務め |
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藩校の「好古堂」で指南。自邸の道場でも教授した。父亡き後、祖父八助に剣 |
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術を学んだ赳太郎は、二十歳の明治十一年三月、無外流秘伝を授けられた。 |
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その後、兵庫県臨時雇巡査を手始めに、大阪府四等巡査を務め、剣術指導に |
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当った。後に警視庁撃剣世話掛に採用され、上田馬之助、逸見宗助、得能関 |
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四郎らと交わった。後に神戸に戻り、警察署や巡査教習所の撃剣教授を務め、 |
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知進館という名の道場を構えて、剣術、柔術の教授を続けた。そして展覧試合 |
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で勝利を収め名人の名を欲しいままにし、昭和十五年十二月二十一日に没す。 |
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自得院流槍術 |
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天保六年二月十七日、幕臣山岡市郎右衛門正業の次男に生まれる。名は政晃で |
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号が泥舟。伊勢守を叙す。後に高橋家の養子になる。実兄紀一郎正視は静山と |
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号し、弘化、嘉永時代、槍術精妙の誉が高かった。しかし、安政二年、二十七 |
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歳の若さで逝去。兄の問跡を継いで、天下無双の槍と謳われた。小石川鷹匠町 |
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に百四十坪の拝領屋敷を構え、安政三年三月二日、講武所槍術教授方出役と |
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なり、御所院番を経て、万延元年閏三月八日、槍術師範役並、奥詰等を経て、 |
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二ノ丸御留守居格布衣仰せつけられる。文久三年二月二十五日、一橋慶喜に |
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随行して上京。京都において御徒頭となる。次いで、清河八郎ら帰京浪士組の |
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取扱を命ぜられ、同年三月十一日従五位下伊勢守を叙任。中山道を江戸へ戻っ |
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た後、清河八郎遭難の首級と対面した。慶応二年十一月十八日、講武所の廃止 |
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とともに、遊撃隊頭取と槍術教授頭取を兼帯。鳥羽伏見の戦いに敗れた後、 |
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帰京の徳川慶喜に恭順の道を説き、慶応四年二月十二日、上野東叡山に退去 |
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恭順の慶喜を護衛した。駿府の西郷隆盛に会見すべく山岡を派遣したのは、 |
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高橋の上申である。そして四月十一日、江戸開城の日、水戸へ下る慶喜を護衛 |
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慶喜恭順の支柱であった。明治三十六年二月十三日、牛込矢来町の自邸で没す |
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行年六十九歳。戒名を宝朱院殿栄照道義と号し、東京都台東区谷中六の大雄寺 |
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に墓がある。 |
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■ 佐幕人名鑑 ■ |
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戸田流高柳派 |
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小野派一刀流中西忠太子啓に学んだ。白井亨義謙と寺田五右衛門宗有とともに |
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「中西の三羽烏」と呼ばれた。文化四年生まれといわれているが定かではない |
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名は義正あるいは利辰など諸書まちまちで信を得ない。中西氏の門人に高柳又 |
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四郎という人あり。いかなる人と試合致したりとも、自分の竹刀に相手の竹刀 |
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をさわらす事なく、二寸三寸も離れていて、向こうの出る頭、起る頭を打ち、 |
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あるいは突きを入れ、決して此の方へ寄せ付けず、向より一と足出るところへ |
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此の方よりも一と足進むことゆえ、丁度打ち間よくなり、他流などには一度も |
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負けることなし。他の人とは違い、よく間合いを覚えたるゆえ、この人の上に |
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出ずるものなし〜〜云々。千葉周作の「剣法秘訣」の一節である。俗に音無し |
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剣法と称される高柳又四郎の強さを示す一言ではないだろうか。 |
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直心影流 |
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天保六年九月二十五日、伊予大洲藩の儒者の家に生まれ、名は長富という。 |
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七、八歳の頃、父に従って江戸に出た。最初、直心影流の整斎藤川弥次郎右 |
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衛門貞近に入門したが、忠也派一刀流の近藤弥之助に学び、さらに北辰一刀 |
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流の塚田孔平と鏡心明智流桃井春蔵直正にも師事したという。慶応三年京都 |
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の河原町に大道場を構える郷士の先輩、戸田一心斎の下で師範代を務めて |
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いた。明治元年には、出雲松江藩の剣術指南役になるが、明治四年の廃藩に |
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よって、役を解かれた。その後、滋賀県巡査に採用され、警察部撃剣御用掛 |
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となって、後に警視庁撃剣世話掛三十六名を連破して、関西一の剣豪といわ |
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れ、明治の剣豪としての名声を博した。奥村左近太などと大日本武徳会本部 |
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の剣術教授となった。明治三十二年二月、大阪で没す。行年六十五歳。 |
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鏡心明智流 |
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天保五年、上州前橋の連雀町で醤油問屋を営む田口屋清三郎の子として生まれ |
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名は応常といった。天保九年、永八朗わずか五歳の時に父清三郎が亡くなった |
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ため、母の弟である本間千五郎応次に預けられる。本間の家は、代々念流を |
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伝えてきたことから、叔父千五郎から剣術の手解きを受けた。 |
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嘉永元年、十五歳で江戸へ出て、桃井春蔵直正へ入門、鏡心明智流剣術を学ん |
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で、修行六年で帰省した。その後、叔父千五郎の長女たきと結婚して本間の |
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氏を称した。本間家の道場練武館を任され、門弟たちの指導にあたった。 |
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榊原鍵吉が前橋で撃剣興行を催した折、本人と立ち合って引き分け、その剣技 |
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を讃えられた。後に妻と離婚、田口に復して生家に戻り、家業に精を出して |
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富をなし、明治四十四年八月六日、七十八歳で没す。崇泰院田口永八朗と号し |
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前橋市平和町の橋林寺に墓がある。 |
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神風流 |
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天保五年、百五十石の鳥取藩士詫間益蔵敬正の長男に生まれ、初め半録と |
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称し、名は敬敷、神風と号す。幼時より武を好み、同藩浅田主計為保に |
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神刀兌山流を学んで、後に江戸九段坂の斎藤弥九郎道場「練兵館」に入門、 |
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神道無念流を修めて帰省し、神戸大助直方に教えを受けて兌山流を極めた。 |
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その後、技に工夫を凝らし、一流を立てて「神風流」と唱えた。 |
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藩主池田相模守慶徳の寵愛を受け、文久三年藩主に従って上京。八月十七日 |
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同志河田佐久馬らと用人黒部権之介らの重臣を斬殺して幽閉された。 |
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慶応二年七月、尊攘の実をあげんとして幽所を脱して長州へ奔った。途中、 |
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出雲手結浦で黒部ら追手の襲撃を受け。慶応二年八月三日奮戦討死した。 |
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行年三十三歳。樊六の佩刀は余りにも長かったので、鐺に車をつけ、引き |
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ずって歩いていたという逸話がある。 |
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不遷流 |
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寛政六年、伊予松山藩士三木兵太信茂の長男として生まれ、称を吉次郎 |
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寅雄、拳骨和尚といい、名は不遷で、物外、泥仏庵を号とする。 |
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寛政十二年、七歳で出家し、松山の龍泰寺に入り、祖灯和尚の弟子になり |
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十一歳の年、広島の伝福寺に転じてからは、夜な夜な寺を抜け出して、 |
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町の道場へ通って腕を磨いた。怪力和尚物外の名は、諸国行脚とともに |
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高まって、いろいろな伝説が生まれた。その一つに、新選組局長近藤勇を |
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完膚なきまで打ち負かした話がある。新選組屯所の前を通ると竹刀の音が |
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する。窓から覗くと隊士に文句をつけられ、近藤と手合わせをする事に |
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なる。勇は激怒して槍を持って突いてきた。槍先をかわして、蛭巻きを |
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二個の木椀ではさんだ。勇は動きが取れない。和尚が一喝して離すと勇は |
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尻餅をついたという。慶応三年八月二十五日、七十四歳の大往生を遂げた |
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鏡心明智流 |
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土佐藩白札郷士。土佐勤王党主領。本名小楯。号は瑞山。文政十二年生まれ。 |
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天保十二年、一刀流の千頭伝四郎の門弟となった時、十二歳である。 |
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嘉永三年、千頭伝四郎が病死したので同流の麻田勘七の門下生となり、初伝を |
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許される。同五年、中伝免許、同七年皆伝免許となる。麻田勘七は馬廻・麻田 |
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利大夫の二男で小野派一刀流を修め、高知城下鷹匠町に道場を構えていた。 |
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門人には山田広衛、毛利荒次郎(恭助)、馬場来八、島村衛吉など豪者が顔を |
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そろえていた。半平太はその門に入って三年間で、初伝、中伝、皆伝と進んだ |
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千頭門下で十年の修行をつんだ力が一気に開花したのである。 |
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安政二年七月九日、田野郡奉行所へ剣術指導のため出張を藩から命ぜられ、 |
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半平太の剣技が公式に認められた。同年八月七日、臨時用を以って江戸出張を |
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藩から命ぜられ高知を出立。江戸で鏡心明智流の桃井春蔵の門に学び、皆伝を |
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許され高知に戻る。万延元年七月、国暇を願い、剣術修行の名目で四国、中国 |
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九州を遍歴している。文久元年江戸に出て、長州久坂玄瑞、薩摩樺山三円らと |
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接触、尊皇攘夷運動を活発化させることを誓う。帰国後、土佐勤王党を結成し |
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党首となり、翌年、吉田東洋を暗殺する。文久三年八月十八日の政変で尊攘 |
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運動が蹉跌すると、九月投獄される。慶応元年高知城下帯屋町の南会所で切腹 |
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その折、横三文字に切り見事な武人ぶりを示したという。 |
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■ 幕末人名鑑 ■ |
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柳剛流 |
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文政三年、紀州度会郡南勢町の世古治良左衛門の次男に生まれ、十四歳のとき |
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紀州藩三十石の田丸預同心橘為右衛門の養子となる。初称を俊平といい、名は |
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正以、号を老白といった。柳剛流の直井勝五郎秀堅へ入門して励んだか、直井 |
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亡き後、林録之助という備前の剣客について学んだ。 |
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天保十五年、後に松平上総介忠敏を名乗る松平帯刀が、江戸に道場を開いた時 |
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正以は助教授で招聘された。帯刀は正以ににとって、直井門の兄弟子であった |
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関係だが、その後、田丸に戻って道場を構えた。弟子を取るのに身分の差別なく |
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武士に農民、それに子供にも開放した。安政五年四月二十五日、門弟九人を |
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選抜して、十四代将軍家茂の御前で剣技を披露した。また水野土佐守邸における |
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四流門人の他流試合で活躍した。明治十三年十一月十一日、六十一歳で没した。 |
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窪田派田宮流 |
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文化十一年、伊予宇和島藩の目付役兼軍使をつとめる田都味久之允素亭の子に |
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生まれ、名は成英で、号を為風といった。嘉門、幼少より武を好み、初め槍術 |
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を藩の松井某に習い、十八歳の頃、同藩八十島中とともに武者修行のために |
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四国内を遊歴。後に藩の剣術師範鈴木和太夫について田宮流を修める。その後 |
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父に従って江戸へ出て、窪田助太郎清音に入門、八年の修行で田宮流の免許 |
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皆伝を受けた。天保十五年、三十一歳のことだった。 |
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嘉永二年から藩に出仕し、同五年正月、父の隠居に伴って八十石の跡目を相続 |
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小姓勤、剣術指南方になる。安政二年六月三日父素亭が没し、嘉門は明治七年 |
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六十一歳で逝去した。嘉門の門人に。大津事件で司法権の独立を守って屈しな |
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かった児島惟謙がいる(間島勲著『全国諸藩剣豪人名事典』による。) |
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野太刀自顕流 |
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諱は雄平。出自についてはこれまで、鹿児島城下の薬師商の子とも、鹿児島 |
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前ノ浜の船頭ともいわれてきた。しかし、家老小松帯刀の名で出された藩達 |
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(『鹿児島県資料 忠義公史料』第二巻、三五三号)によれば、「島津織部 |
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家来田中新兵衛」とある。島津織部なる人物は一所持か一所持格の上士と推 |
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定されるので、その家来たる新兵衛は陪臣身分だったことになる。 |
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新兵衛が「人斬り」の名を一躍高めたのは、九条関白家の家司、島田左近の |
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暗殺だった。左近は長野主膳と結び、安政の大獄に暗躍した。 |
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文久二年七月二十日、新兵衛は薩摩藩士の鵜木孫兵衛、志々目献吉とともに |
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左近の妾宅(木屋町二条下ル)を襲撃した。左近は脱兎の如く逃走したが、 |
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新兵衛が追いかけて一太刀で斬り伏せた。のちに有村俊斎が「そのとき、 |
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鵜木と志々目はどうしていたのか」と質すと、新兵衛は「お侍さんは足が |
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遅うございます」と答えている。このあたりから新兵衛=町人説が出る所以 |
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かと思われる。またそれから二ヶ月ほどした閏八月二十日夜、新兵衛は土佐 |
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の岡田以蔵らとともに、越後出身の尊攘派浪士だった本間精一郎を殺害して |
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いる。このとき、以蔵が斬り損なったところを、新兵衛が仕留めた。 |
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翌三年五月二十日夜、御所朔平門外で公家の姉小路公知が暗殺された。現場 |
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に落ちていた差料から新兵衛と仁礼源之丞が嫌疑をかけられ、京都町奉行所 |
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に連行された。取り調べに対して、新兵衛は容疑を否認したまま、咄嗟に |
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脇差で自刃した。一説によれば、新兵衛は手傷を負っていたという。 |
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神明流 |
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備中松山藩百二十石の旗奉行で、直心影流師範の谷三治郎供行の長男ながら、 |
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出生年はわかっていない。姓は藤原で、名は供国という。幼少から父の手解き |
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を受け、直心影流を修めた。嘉永四年正月の御家中席帳に、父三治郎とともに |
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御近習役として「切符銀三枚弐人扶持、谷三十郎」の記載がある。 |
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嘉永六年七月十一日に没した後、三十郎が跡目を相続したが、安政三年十月 |
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十三日永ノ暇により家断絶となる。その因として、巷間、家老の奥方と不義が |
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あった〜と伝えられる。しかし、そんな不義なら大罪切腹である。後に谷家は |
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再興されているから、理由は別にあろう。安政六年十月一日、東海道戸塚の |
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直心影流萩原連之助道場を訪ねた備前岡山の藤田右馬介は「神明流谷三十良門人」 |
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と「剣客簿」に認めている。大阪に出て剣術指南に当り、一流をたてて「神明流」 |
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と称したのだろう。後に新選組に入り、池田屋騒動に参戦し、八番隊長を務めたが |
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慶応二年四月一日病没。大阪市北区兎我野の本伝寺に墓がある。 |
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■ 新選組家紋 ■ |
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種田流槍術 |
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天保六年、備中松山藩士谷三治郎供行の次男に生まれる。谷三十郎の実弟で、 |
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新選組近藤周平の実兄。幼称を万吉といった。父三治郎が直心影流の師範で |
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あったから、当然その手解きを受けたが,槍術に才を発揮。種田流素槍を極めた |
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安政三年、お家断絶になって大阪へ出た。中山大納言の侍医岩田文碩の知遇を |
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得て、南堀江二丁目に道場を構えた。その後、新選組に入り、兄三十郎や弟の |
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昌武とともに池田屋騒動で奮戦する。弟は近藤勇の養子になった。 |
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新選組島田魁の記録に「種田流槍術免許皆伝、備中松山藩谷万太郎門人」と明記 |
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されている。新選組大阪屯所の頭取的存在であった万太郎は、大利鼎吉を斬り、 |
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藤井藍田を捕らえた。明治十九年六月三十日、五十一歳で没。自証院本覚日遊居士 |
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と号し、本伝寺に谷三兄弟の墓がある。 |
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■ 新選組家紋 ■ |
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新影流 |
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天保六年備中松山藩士秋庭善次の四子に生まれ、同藩団藤弥兵衛の養子となる。 |
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姓は藤原で、名が得義という。同藩熊田恰矩芳に新影流剣術を学び、若くして |
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これを極める。また神妙流剣術を伊勢津藩の渡辺氏に学んで極意を得る。後に |
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筑後久留米藩加藤田平八郎重秀の真陰流に入門して修行し、これも極めた。 |
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時に、神道無念流斎藤弥九郎道場練兵館の塾頭をつとめた、作州津山藩の剣術 |
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師範井汲唯一と二日にわたっての試合で勝ちを収めて剣名をあげた。一代切士 |
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格から中小姓となり、剣術教授として、藩士や郷士に指南した。善平は六尺を |
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超える偉丈夫であったが、性格は温厚だったと伝えられている。明治十二年 |
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十月十八日、四十五歳で病没。岡山県高梁市大工町の正善寺に葬られ、同寺に |
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墓がある。戒名を武真院釈心静海松居士と号す。現最高裁判所判事団藤重光氏 |
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は、善平の令孫である。 |
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北辰一刀流 |
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天保四年、北辰一刀流の開祖千葉周作成政の次男に生まれ、名を成之という。 |
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幼少時から父周作に剣術を学び、若くして北辰一刀流の奥義を極めた。十四、 |
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五歳の頃には「玄武館の小天狗」という異名をとり、十八、九歳にして名人と |
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呼ばれるほどの天才剣士であった。弘化四年十一月二十九日、玄武館を訪ねた |
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清河八郎が、十五歳の栄次郎の稽古風景を見て「門下これに秀る者なし」と感 |
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嘆せしめた。神道無念流の斎藤弥九郎や海保帆平、松崎浪四郎などと試合をして |
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相手にならなかったという。父周作とは別に、嘉永六年五月、水戸藩江戸定詰の |
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小十人組に召し抱えられ、十両三人扶持を給され、安政二年十一月には馬廻組、 |
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文久二年正月十一日大番組に進んだが、翌日。三十歳で病死した。 |
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北辰一刀流 |
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北辰一刀流開祖千葉周作の実弟。祖父の千葉吉之丞常成は磐城国相馬藩 |
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で北辰夢想流の剣術師範であったが、浪人となり安永の頃、陸前栗原郡花山 |
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村に住した。その娘婿になった幸右衛門に三人の男子が生まれた。長男が |
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又右衛門成道。次男が周作成政。三男が定吉政道である。周作が北辰一刀 |
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流を開いた時、定吉はこれを授けたが後に独立して道場を開いた。 |
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嘉永七年の切絵図には鍛冶橋外の狩野屋敷、狩野新道南側東端にその名 |
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がある。その後、京橋桶町に移り「桶町千葉」「小千葉」と称された。 |
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嘉永六年四月、鳥取藩の江戸屋敷に剣術師範として仕える。定吉の長男が |
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重太郎。次男東一郎は兄周作の匿し児。女子が三人あり、佐那、里幾、幾久 |
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という。三人とも薙刀をよく使い「北辰一刀流長刀目録」にはその名がある。 |
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明治十二年に没した。墓は東京の雑司が谷霊園にある。 |
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北辰一刀流 |
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北辰一刀流開祖千葉周作の姪。千葉定吉の長女。剣、薙刀に優れ、『鬼小町』の |
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渾名があったという。周作の制定した北辰一刀流薙刀の伝系は定吉−重太郎− |
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佐那と受け継がれている。 |
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坂本龍馬が土佐から出てきて、定吉の門に入った時、その頃、中目録の腕前であった |
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佐那と剣技を闘って、歯がたたなかったという。のち、龍馬の許婚となったが、婚姻 |
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には至らなかったので、生涯、独身であった。 |
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龍馬が伝授された「北辰一刀流長刀目録」には千葉定吉の名と共に、千葉佐那女、 |
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千葉里幾女、千葉幾久女と三姉妹の名が記されている。明治十五年に、学習院女子 |
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部の舎館となり、明治十八年から、東京千住に住み「千葉灸治院」を開業して、 |
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灸治療で生計を立てていた。明治二十九年病没。墓は小田切謙明の妻、豊次により |
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山梨県甲府市朝日の清運寺に、東京の谷中霊園から分骨されている。 |
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■ 女傑名鑑 ■ |
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北辰一刀流 |
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寛政六年正月元旦(一七九四年一月三十一日)陸前栗原郡花山村千葉幸右衛門の |
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次男に生まれ、姓を平、名を成政、字を観、号を屠龍といい、称を初め於菟松、 |
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後に周作と改めた〜と千葉栄一郎の『千葉周作遺稿』は認めているが、佐藤訓雄 |
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著『剣豪千葉周作』では、父の名を千葉忠左衛門成胤といい、陸前高田の気仙村 |
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生まれとし、ほかにも諸説がある。 |
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千葉周作が浅利又七郎義信の養子になって、浅利又七郎と称したが、技の開発で |
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衝突して離れる。その後、一流を興して「北辰一刀流」を唱えて、神田お玉ヶ池に |
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道場「玄武館」を構えて隆盛を極めた。 |
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安政二年十二月十日(一八五五年一月十七日)六十二歳で病没。戒名を高明院勇 |
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誉智底敬寅居士と号し、浅草誓願寺塔頭仁寿院に葬られたが、関東大震災により |
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昭和二年練馬に転じた折、豊島区巣鴨の本妙寺に改葬された墓がある。 |
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北辰一刀流 |
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千葉周作の実弟定吉の長男。文政七年、江戸杉ノ森に生まれる。幼少より父 |
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定吉から北辰一刀流を習う。定吉が嘉永六年から鳥取藩剣術師範となったので |
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父に代わって京橋桶町道場では重太郎が門弟に稽古をつけた。 |
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万延元年から重太郎は父と同じく、鳥取藩に仕え、文久二年には周旋方になり |
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大阪へ出張。文久二年十二月二十九日の「海舟日記」には、坂本龍馬と重太郎 |
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が兵庫の海舟を訪ねてきたことが記されている。 |
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戊辰戦争の時には鳥取藩の辰ノ吉歩兵頭となり、明治二年六月、剣術教授頭取 |
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となっている。明治二年六月、剣術教授頭取となっている。明治四年、父定吉 |
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が隠居したので家督を継いだ。明治政府のもと、鳥取県へ出仕。その後、開拓 |
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使、京都府などで官吏としての務める。明治十八年、六十二歳で没す。墓は、 |
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東京の雑司ヶ谷霊園にある。 |
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北辰一刀流 |
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文政二年、塚田多右衛門の子として、信州更級郡力村で生まれ、名を直智という |
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天保六年、十七歳の時江戸へ出て、北辰一刀流千葉周作に入門し、稲垣定之助、 |
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庄司弁吉、森要蔵とともに玄武館の四天王と謳われた。師の周作に従って水戸藩 |
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に出入りし、会沢正志斎や藤田東湖と深く交わった。全国諸藩を遊歴、世の動き |
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をつぶさに観察、幕府の衰退を感じ取ってか、後年、幕府の招きに応じなかった |
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という。嘉永三年、芝愛宕下松代町に道場「虎韜館」を構えて指南する。 |
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文久三年三月二十二日の夜、京都三条大橋に足利三代将軍の木像梟首を行ない、 |
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因州の捕吏と戦って死んだ高松平十郎信行は塚田孔平の門人で、師範代であった |
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信州松代藩主真田幸貫に召し出されて士籍に列し、明治二年七月二十九日 |
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五十一歳で没した。 |
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津田一伝流 |
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筑後久留米藩士。諱は正之。文政四年〜明治五年。早くから父伝教明について |
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浅山一伝流を学び、二十歳前後には一流の域に達していたという。鍛錬に鍛錬 |
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を重ねて、ついに会得するものがあった。江戸に出た折、諸流派と試合を行った |
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鏡心明智流の桃井春蔵にも勝ったと伝えられる。直心影流の男谷精一郎信友と |
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親しく交わるなかで、一流を立てることを勧められた。一左衛門は藩主の許可を |
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得て、家伝の浅山一伝流を津田一伝流と改称した。これを藩内では「御流儀」と |
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称するようになった。そして嘉永六年、流派の隆盛と自身の名声により、一左衛 |
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門は藩の剣術師範役となった。一左衛門の名声は藩外にも聞こえ、諸藩から度々 |
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招かれている。慶応年間には藩内の門人百八十九人、藩外の門弟は五十六人を |
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数えた。しかし、明治になって剣術指南役が廃されると、一左衛門は流儀の |
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家伝書を焼いて自刃した。 |
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浅山一伝流 |
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寛政四年、家禄四百五十石の久留米藩士津田一左衛門教正の子に生まれ、 |
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名は教明。父教正に浅山一伝流剣術を学ぶ。さらに上州館林藩士森戸三 |
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太夫金制の江戸道場に入門して、同流の免許を授かる。父の跡目を継いで |
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出仕。大小姓格から使番格、御側物頭に進む。五十石の加増があって都合 |
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五百石を食む。江戸詰から国許に転じて、剣術指南に精励。その剣名は |
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遠くまで鳴り響き、他藩からの入門者が相次いだ。 |
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長男一左衛門教安、次男岩尾教清、そして三男竹井安太夫之堅ら三人の |
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息子たちも、それぞれ剣術で一家を成した。安政五年正月十三日六十七歳 |
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で没。円満院乘誉究竟居士と号す。久留米市本町の無量寺に葬る。師の |
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森戸三太夫金制が、一千六百人からの門人名を認めた扁額を目黒不動尊に |
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奉納したが、その扁額に津田伝の名があるという。 |
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心形刀流 |
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文政十三年七百五十石の御小納戸坪内主膳公武の長男として生まれた。 |
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号を真斎といった。元治元年九月十一日、父主膳の隠居願いによれば、 |
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父七十一歳、主馬が三十五歳で、御小納戸役の三百俵と録されている。 |
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安政三年十一月十二日部屋住召出され、四番御小姓組新見豊前守正興組 |
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に入る。その後、岡部日向守長保に変った元治元年七月二十六日小納戸 |
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に転じた。坪内主馬は現在の東京都千代田区富士見町二丁目、東京警察 |
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病院の裏側に当る牛込御門内田安御留守居町六百四十九坪の内に、心形 |
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刀流の道場を構えていた。門人には、池田屋騒動から箱館戦争を戦った |
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新選組の島田魁がいた。明治十四年七月三十一日。五十二歳で没す。 |
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法名を常照院殿真月日確居士と号し、墓碑は、東京都杉並区堀之内の |
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日蓮宗蓮光寺墓地にある。 |
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大石神影流 |
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土佐藩士。名は友篤。文化六年生まれ、小姓組格、五人扶持。高知城下。 |
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江ノ口に道場を開いていた。実兄寺田小膳と共に筑後柳河藩から大石進 |
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(種次)を高知に招いている。大石流は遠く上泉伊勢守信綱の新陰流を |
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汲んだもので、柳河で大石遊軒入道種芳、同太郎兵衛種行と父子相伝して |
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大石進(種次)にいたって新流をたてた。特に五尺三寸という長い竹刀を |
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使うことで他流を畏怖させた。忠次は嘉永五年、江戸の剣客石山孫六に |
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従って九州へ修行に出て、大石進を知り、高知に招くことになったらしい |
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寺田道場ではこの新しい剣法が評判となり流行した。吉田東洋、後藤象二 |
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郎も大石神影流を習った。文久二年藩校文武館(のち致道館)が設立され |
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た時、剣術は無外流、一刀流、小栗流、神影流、大石神影流が課目となり |
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各流一人の教官が任ぜられ、寺田もその一人となった。 |
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神道無念流 |
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文化四年、戸賀崎二代目有道軒熊太郎胤芳の長男に生まれ、初称を和一と |
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いい、喜道軒と号した。文政元年の十二歳時、父胤芳が亡くなったため、 |
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祖父知道軒熊太郎暉芳以来の高弟である木村定次郎友善と中村万五郎政敏 |
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に神道無念流を学んだ。文政六年、十七歳で免許皆伝になった。この年の |
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二月二十八日、父胤芳が亡くなって、そのまま道場を継いだ。 |
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その後、各地を武者修行に出て、天保十二年江戸牛込藁店に道場を設けて |
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名声を得る。水戸斉昭公に招聘されて剣術師範を務め、五人扶持を給され |
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たが、後には五十人扶持になった。藤田東湖や武田耕雲斎ら、水戸の傑物 |
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と親交を結んだ。慶応元年五月二十九日(一八六五年六月二十二日)、 |
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五十九歳で没し、戒名を神徳院熊山芳栄居士と号す。 |
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直心影流 |
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天保十三年正月十五日、上野沼田藩士得能隼人の子として、芝江戸見坂の |
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藩邸で生まれ、名は通久。安政三年、十五歳で、芝愛宕下田村小路に道場 |
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を構える。同藩剣術指南役長沼笑兵衛恂教に入門して、直心影流を学んで |
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文久二年十二月十七日、二十一歳で免許皆伝になった。そして、恂教の子 |
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の可笑人とともに塾頭を務めた。明治十九年二月十日、鹿鳴館の舞踏会で |
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外務卿井上馨の警護を命じられ、その夜、井上を襲ってきた暴漢たちの凶 |
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器を持った手首をステッキで打ち砕き、得意の小手打ちで井上を護衛した |
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真貝忠篤や根岸信五郎とともに、明治後期における東都剣道界の三元老と |
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謳われたが、明治四十一年七月十七日の早朝、芝西久保神保町の自邸で、 |
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鮮血に染まった得能の死骸が発見された。咽喉の傷深さ一寸、幅一寸二分 |
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ただの一掻きで六十七歳の命を自ら奪った。 |
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直心影流 |
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文化七年三月十七日生まれ。父は伊予大洲藩士戸田勘助。通称を栄之助、 |
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名は良茂という。幼時より剣術を好み、赤石軍次兵衛孚祐の門に入って、 |
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直心影流を学ぶ。文政八年、十六歳で、奥羽地方へ武者修行の旅に出た。 |
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次いで三年後の十一年には、伊豆から相模、駿河などに出かけて腕をあげ |
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名声が高まるにつけ、諸侯の引く手あまたになるが戸田はそれに応じるこ |
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とはなかった。天保四年、二十四歳のとき京都へ移住し、河原町に道場を |
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構えた。往時、京都で一番大きな道場であったという。一心斎が年老いて |
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からは、同郷の高山峰三郎に代稽古をさせた。大石進や奥村左近太、篭手 |
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田安定といった豪の者たちが多数出入りしていた。明治四年十二月六日、 |
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六十三歳で没す。是精院瑞応一心居士と号し、墓は京都市左京区黒谷の熊 |
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谷堂前の北端、西に面している。 |
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神道無念流 |
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天保十年九月十二日、長倉甚次二男と除籍謄本に記されているが、小樽新聞に |
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連載された「永倉新八」には、天保十年四月十一日、松前藩江戸定府取次役 |
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永倉甚次の一人息子として、下谷三味線堀の屋敷で生まれたとしている。 |
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そして、もう一点、北海道樺戸郡月形村戸長役場の明治十六年一月に認められ |
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た「寄留戸籍簿」には、弘化二年四月生まれと六歳も若く録しているが、天保 |
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十年生まれとすべきであろう。父の名も甚治、甚次、蔵吉とあるが、すべて |
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同一人物の異称と考えれば問題はない。姓を源、初称栄治、名を載之といった |
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問題があるとすれば、永倉新八の剣術修行の事例である。 |
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弘化三年、八歳の折、父に剣術の手ほどきを受け、神道無念流岡田十松利章に |
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入門。十五歳で「切紙」を許され、十八歳で「本目録」を授けられた。 |
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この年、つまり安政三年元服して、通称を新八と改めた。翌安政四年、十九歳 |
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で本所亀沢町の同流百合元昇三道場に住みこんだ。四年間、道場の塵にまみれ |
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て修行し、友人市川宇八郎と武者修行に出かけた。文久元年のことである。 |
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この年の八月、江戸へ戻り、百合元塾で道場を開く坪内主馬という北辰一刀流 |
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の師範代に招かれたというが、この方は心形刀流であり、牛込に道場をもって |
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いる。本当に関与したのか疑問がある。天然理心流の近藤勇と交わり上京。 |
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新選組幹部として池田屋騒動等での活躍は周知の通りだが、近藤と袂を分ち、 |
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二君にまみえず〜と云いながら反政府側の松前藩に復し、大正四年一月五日、 |
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七十七歳の生涯を小樽で終えた。 |
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■ 新選組家紋 ■ |
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直心影流 |
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文化五年十一月六日、長沼忠兵衛義郷の三男として江戸で生まれ、通称を |
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鍋三郎、忠三郎、正兵衛、さらに笑兵衛といい、蚤牙と号した。 |
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天保二年五月十六日、直心影流長沼五代目の次兄正兵衛輝郷が病死した為 |
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二十四歳で六代目を継いだ。初め三十俵三人扶持を給され、御取次役となり |
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後に十代藩主になる頼寧へ稽古指南を続けた。九代藩主土岐山城守頼功から |
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学問の薦めがあり、文武両道を兼備、初代綱郷を凌駕したといわれる。 |
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天保九年十一月二十七日、正兵衛を襲名。後に二十人扶持からさらに二十五 |
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人扶持に加増され、笑兵衛と改称。土岐家上屋敷の長屋を道場に改造した。 |
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慶応元年九月二十六日、五十歳没。泰賢院黙翁義笑居士と号し、東京都 |
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中野区上高田の功運寺に墓がある。 |
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直心影流 |
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直心影流長沼六代目笑兵衛恂郷の子として、天保十五年に生まれ、可笑人と号 |
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して七代目を継いで長沼家最後の剣豪である。父恂郷の稽古は厳しく臨機応変 |
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の心がけをもって修行。長じて天下遊歴し、その術精妙を極め、名声益々高く |
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なった。父恂郷の死去により、慶応元年二十二歳で家督を継ぎ、可笑人と号し |
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門人二千人が道場に溢れて、名声さらに高まった。門人に旧桑名藩士で、箱館 |
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新選組の生還者石井勇次郎がいる。沼田藩に在籍のまま尾藩に招聘され、藩校 |
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「明倫堂」の剣術教授をつとめた。明治になっての廃校後は東京に帰り、門弟 |
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に謝して道場を閉鎖。以後、刀を手にすることはなかった。明治二十八年十月 |
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十一日、東京江戸見坂の土岐旧邸で五十二歳の生涯を閉じ、芝三田の功運寺に |
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葬られた。大正十一年、中野の万昌院と合併移転す。 |
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不二心流 |
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島原藩で百石を食む中村喜兵衛の子として、天明二年に生まれた。通称は八平、 |
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左膳、宮門、加藤曇龍正清といい、名は正清といった。字が一知で、号を不二翁 |
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剣、そして一心斎といった。一時、同藩花村小三郎の婿養子になって花村の氏を |
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称している。寛政元年八歳で島原藩士島原藩士板倉勘助勝武に浅山一伝流を学び |
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寛政十一年十一歳で江戸へ出て、都築与平治と津田武太夫に同流を学んだ。 |
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その後、病のために一時帰省、再度出府して、神道無念流を修め、鈴木大学の塾 |
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頭をつとめていたと云われる。その後、江戸八丁堀に道場を構えた。 |
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文政元年六月、富士山へ単身登頂し、岩窟に籠ること百日、大悟して一流を立て |
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「不二心流」と称した。嘉永七年十月二日七十三歳で没す。千葉県木更津市の成 |
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就寺と八日市場市の地蔵院に墓がある。 |
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