中野竹子 
 なかの たけこ 

 
 
  弘化3年、陸奥会津藩江戸詰勘定役中野平内の長女として江戸に生  

  まれる。母は、こう子という。幼くして聡明で容貌艶美であったと  

  いわれる。学を好んで、佐瀬得所に書を学び、黒河内伝五郎に薙刀  

  を習い、また後に赤岡大助に書及び武技を学んだ。その成果は男子  

  を凌ぎ、女丈夫と評せられる。その一方では、和歌にも親しみ雅号  

  を小竹と称する。  

  備中庭瀬藩主夫人に召されて祐筆役を嘱託されたこともあった。  

  のち、赤岡の養女となり江戸から後に若松城下西方三里の坂下宿  

  に住まうが、戊辰戦争動乱の中会津へ帰り、生家に復した。  

  慶応4年8月23日、会津若松城下へ新政府軍参謀板垣退助が  

  突入し戸ノ口原で開戦した。城下のいたるところで銃撃戦が始ま  

  ったため藩士婦女子の入場を促す警鐘が鳴り響くが、母のこう子、  

  竹子、妹の優子の母子三人は直ちに髪を切り、着物に義経袴、白鉢  

  巻に襷の行装を整え、大小を腰に白足袋に草鞋をはいて薙刀を抱  

  え屋敷を出た。かねてより、親交のあった二十余人が一隊となって  

  出陣する約束をしていたが、すでに城門は閉ざされていて入城で  

  きず、合流した依田まき子、菊子姉妹と岡村咲子ら三人と照姫様  

  警護に坂下宿へと向う。しかし宿場内に照姫様の姿は無く、その  

  夜は虚空山法界寺で明かし、24日、坂下に滞在中の会津軍に  

  従軍を懇請するが許可されなかった。手を尽くし、古屋作左衛門  

  の衝鋒隊に合流し鶴ヶ城へ入城するべく若松へ向う。翌25日  

  城下の越後方面からの入り口、湯川にかかる柳橋(通称泪橋)近くで  

  長州大垣藩兵からなる敵部隊と激突する。しばらく続く銃撃戦に  

  埒があかず、古屋は突撃戦を発令し、竹子らも加わり戦いの中銃弾に  

  倒れた。優子はじめ他の女達は激戦の中から脱出し、奇跡的に坂下  

  宿へ帰還できた。その際、母こう子が敵を薙刀で払いながら竹子の  

  首を介錯し、農兵の上野吉三郎がその首を小袖に包んで運んだと  

  いわれている。竹子が最期まで手にしていた薙刀には  

  「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば   

                 数にも入らぬ我が身ながらも」  

  と記した短冊が結ばれていたという。享年22歳。  

  墓は福島県河沼郡会津坂下町光明寺東甲法界寺にある。  




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