五代友厚 
 ごだい ともあつ 

薩摩藩士
 
  天保6年12月26日、薩摩城下城谷に鹿児島藩士五代秀尭の次男  

  として生まれる。母は本田氏。名は友厚、通称徳助、才助、号は松陰。  

  変名を関研蔵といった。  

  13、4歳の頃、書役務めの父が預かっていた世界地図を二部模写し  

  て、一部を藩主に献上し、一部で地球儀を作り、世界の事情を調べて  

  終生身近に置いたという話が残っている。  

  嘉永6年、藩で郡方書役の初任につく。  

  安政4年、藩命で長崎の海軍伝習所に入りオランダ仕官に、航海術、  

  砲術、測量、数学などを学び、全国から集まった藩士たちとの交流も  

  得られた。  

  文久2年、藩命により、千歳丸に便乗して上海に渡航し、ドイツ汽船  

  を購入し、長崎に回航した。その船を天祐丸と命名し、船長となり、  

  船奉行添役となった。上海では長州の高杉晋作とも会い、太平天国の  

  乱も実見している。またイギリスの商人グラバーとも接触した。  

  文久3年7月、薩英戦争では、寺島宗則とともに船奉行添役として  

  藩船の支配役であったが、天祐丸が英国側に拿捕され、英艦に捕虜  

  とされ、薩摩藩士たちからは、命を狙われる羽目になる。五代はこの  

  薩英戦争で欧州列強の武力を目の当たりにし、以後進歩的開国論者と  

  なったのであった。 横浜で脱走上陸し、武蔵国熊谷に身を隠すが、  

  英艦交渉が長崎であると聞き、死をも顧みず長崎に向かい、開国貿易  

  と留学生派遣を藩吏に説いた。留学生派遣については島津斉彬の素志  

  であり、市来四郎が琉球で交渉したことでもあり、五代の熱意は入れ  

  られた。慶応元年、グラバーの仲介で、藩が留学生をイギリスに密航  

  させることになり、五代は寺島と先導役を務め、渡英した。  

  イギリスでは産業革命後の近代産業を主に視察し、ロンドンで騎兵銃  

  五十、大砲隊小銃二百、常短小銃二百、短銃五十五、小銃二千三百、  

  元込小銃十二、双眼鏡四、その他洋書などを購入。ドイツ、フランス、  

  オランダなどを廻り、ベルギー人モンブランと、貿易商社の契約を  

  結んだ。それには薩摩の殖産興業をはかる技師派遣の件のみではなく  

  大坂を日本の商都にする諸計画も含まれていたという。  

  慶応2年帰朝し、納戸奉行格用人席外国掛を命ぜられ、藩の通称貿易  

  にあたり、また、薩長同盟では高杉晋作、坂本竜馬、桂小五郎、井上  

  聞多らとともに勤皇運動を行った。  

  明治元年、明治政府の参与兼外国事務掛、外国事務局判事大坂在勤に  

  なり、備前兵争闘事件、土佐藩士堺浦事件、パークス襲撃事件等の  

  外交処理にあたった。また、外国事務局、大坂造幣局寮設置、大坂  

  為替会社、通称会社設立に尽力したが、薩摩藩武断派の排撃に遭い、  

  明治2年、官を辞して帰国することとなる。  

  まもなく藩を出て大坂に行き、金銀分析所を開き、在官時代に開設  

  した造幣寮に貨幣材を納入して資本を蓄積し、鉱山、特に半田銀山の  

  開発、経営、紡績、製藍業に乗り出す。  

  明治8年の大坂会議では、五代が裏舞台の役を勤めたという。  

  在官時代から大久保利通とのつながりは深く、大久保の財政力であり、  

  また、官権を利用した御用商人のそしりは免れなかったといわれる。  

  明治11年、大阪商法会議所、大阪株式取引所、大阪商業講習所  

  (大阪商科大学の前身)を設立し、大阪鉄鋼、関西貿易社、阪堺鉄道、  

  神戸桟橋会社などにも関与した。大阪商工業の近代化に大きく貢献  

  し、大阪の恩人として大阪商工会議所に銅像が建立されている。  

  明治14年、黒田清隆と共に開拓使官有物払下げ事件を計画するが、  

  政変に飛び火することとなる。  

  明治18年9月25日、没。享年51歳。  

  墓は大阪阿倍野区天王寺にある。  

  当時は薩摩人には好まれず、太平洋戦争後、大久保と共に鹿児島に  

  銅像が立てられた。  

■ 御 家 紋 ■




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