平野国臣 
 ひらの くにおみ 

福岡藩士
 
  文政11年3月29日、筑前国福岡城下地行下町に、福岡藩足軽  

  で、六石三人扶持の平野吉郎右衛門の次男として生まれる。母は都甲  

  周助の女。初め巳之吉、後、乙吉、源蔵、次郎。諱種徳、のち国臣。  

  号は月廼舎、友月庵、柏舎、独醒軒、雲外。また都甲楯彦、宮崎司、  

  草香江水際、佐々木将監と変名した。  

  亀井暘洲に儒学を学び、青柳種信の子種春に古典を学ぶ。  

  天保12年、14歳の時、大頭役所属吏小金丸彦六の養嗣子となり、  

  小金丸雄助種言と称す。嘉永元年その女と結婚した。  

  弘化2年、普請方属吏となり、翌3年、初めて江戸に赴く。ついで、  

  領内宗像神社造営掛役となったが、安政2年、長崎諸用聞次定役の  

  属吏となり勤仕する。この間嘉永5年、会沢正志斎の「新論」に感奮  

  して喫煙を絶つ、また支藩秋月の坂田諸遠に啓発されて、武家故実  

  の研究につとめ、安政四年職を辞し、その折に養家を去り本姓に戻る。  

  同年5月、藩主黒田長溥に犬追物復興を駕前直訴し蟄居一ヶ月。この  

  ときより剃刀を用いず総髪体となり、また王朝の風を慕って太刀を  

  用い、烏帽子、直垂の風を好むようになった。  

  同年9月許されて秋月に赴き、坂田諸遠の塾へ入る。  

  翌5年8月、脱藩上京し、西郷隆盛らと交わり、安政の大獄の追求  

  を受けた月照の入薩を斡旋し共に鹿児島に入るが、薩摩藩の庇護は  

  得られず、月照の水死に至る。その後潜行して帰国、次いで上京し、  

  また、備中連島に潜伏、後に下関の白石正一郎宅に隠れたが、福岡  

  藩の追捕は厳しく、さらに薩摩、肥後、下関を転々とした。  

  万延元年9月、久留米郊外水田に蟄居中の真木和泉とはじめて面会  

  し、決起を呼びかける。  

  文久二年、島津久光の上京を機に、薩摩藩尊攘派および真木和泉ら  

  浪士たちと挙兵し攘夷決行を企てたが、寺田屋騒動で挫折すること  

  となる。同4月、参勤交代途上の福岡藩主黒田長溥を播磨国大蔵谷  

  に迎えて拝謁し、薩摩藩と提携して尊皇攘夷の軍を挙げることを説き、  

  長溥は病と称して帰国となった。国臣も帰国の途中藩吏に捕縛され  

  福岡枡木屋の獄に投獄される。獄中捻紙をもって「神武必勝論」ほか  

  多くの書を著す。  

  翌三年三月、朝旨により出獄、四月、徒罪方属吏となったが、七月  

  上京の命を受け、8月16日、朝廷から学習院出仕を命ぜられる。  

  翌17日、中山忠光一行の天誅組挙兵鎮撫の命を受け、大和五条に  

  赴いたが失敗。  

  この間京都では、8月18日の政変によって、三条実美及び長州藩  

  勢力が一掃されたため避けて但馬に入り、天誅組応援の挙兵を計画  

  した。次いで三田尻に赴いて、三条らに謁見し、長州藩の支援を求め  

  たが容れられなかった。  

  10月2日、七卿のひとり沢宣嘉を擁して但馬に走り、文久3年生野  

  代官所を襲撃占拠する生野の変を起こす。翌日論告文を発表した。  

  しかし、近隣の諸藩出兵の報があり、この夜沢が脱出したため兵を  

  解散し、城崎に走る途中豊岡藩士に捕らえられ、投獄される。  

  翌元治元年正月、姫路藩獄舎を経て、京都六角獄に移される。  

  同7月20日、禁門の変の騒擾に際し、江戸幕府大目付永井尚志、  

  京都東町奉行小栗政寧らの判断により、罪状未決のまま処刑される。  

  享年37歳。髪すでに雪の如く老翁同然であったといわれ、真木  

  和泉により、「禁閥ヲ慕フコト第一等人也」と評された生涯であった  

  という。  

  遺体は獄舎一隅に仮埋葬され、明治10年、竹林寺に改葬、同43年  

  碑表建立となる。  

■ 御 家 紋 ■




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