相楽総三 
 さがら そうぞう 

赤報隊
 
  天保10年、江戸赤坂に広大な土地をもつ裕福な郷士小島兵馬の四男  

  に生まれる。本名小島四郎、また四郎左衛門、諱は将満、雅号を武  

  振という。小島家はもともと下総国相馬郡椚木新田村出身の郷士で、  

  旗本に金を貸すなどして資産を蓄え江戸に土地をもち、移り住んだ。  

  兵馬には四男一女の子がいたが、長男次男は早くに亡くなり、三男  

  は旗本彦坂家に養子入りしていたために、四郎は生まれる前から小島  

  家の後継と決まっていた。  

  四郎は武芸にも学問にも秀で、早くから国学と兵学を学び、二十歳の  

  時には門人二百人を集めていたといわれる。  

  文久元年、尊皇攘夷の気運が広まると、四郎は父から金を引き出し、  

  信州、越後、秋田などを巡遊し、同志を集めた。幕府や朝廷、藩など  

  の政治的、金銭的背景を持たない、いわゆる草莽の志士として動き  

  始めたと言える。  

  その後、赤城山挙兵に加わったり、水戸の尊攘過激派である天狗党の  

  筑波山挙兵に加わったりするがいずれとも相容れず、独自に伝手をた  

  より、西郷隆盛、大久保利通、乾退助らと通じる。  

  慶応3年10月、四郎は江戸芝三田の薩摩藩上屋敷を借り、新しい部隊  

  を創設する。この時より四郎は、一貫して相楽総三の名を使っている。  

  このときの薩摩邸には用人等もおらず、西郷の内意を受け浪士隊の活  

  動援助をすることになっていた薩摩藩留守居役篠崎彦十郎らおよそ百  

  人がいただけであったという。相楽は各地の同志に檄文を送る一方で  

  毎晩江戸市中に出かけてはけんかを売り、使えそうな浪人を降参させ  

  三田の薩摩屋敷に誘った。それらの浪人や無頼の徒などを加え、11  

  月末までには薩邸の浪士隊は五百人になっていたともいわれる。これ  

  は藩が組織した隊と違い、出身地も様々で郷士をはじめとする豪農商  

  や在地出身者がほとんどで、出身藩を出て久しい脱藩士が五人ほど居  

  ただけであった。その運営費もまた相楽の父より援助を受けていた。  

  相楽らは薩摩藩西郷隆盛の意図する江戸の錯乱を手がけることになる。  

  まず、江戸に入る諸道を押さえるか佐幕諸藩の動きを押さえることを  

  目的に、奥州道では野洲出流山で挙兵、甲州道での甲府城攻略、東海  

  道では相州荻野陣屋襲撃を計画したが、成果は得られず、隊の活動は  

  江戸市中に集中することになる。12月23日の江戸城二の丸の火  

  事や関東取締出役の渋谷和四郎、木村喜蔵の屋敷の襲撃など薩邸から  

  出た浪士の仕業とわかる事件が相次ぐと、幕府は、浪士隊対策を急ぎ、  

  25日未明、薩邸の焼き討ちを行った。邸内にいた相楽初め、浪士  

  約二百人は脱走をはかった。京都に再集結した浪士たちは多くはなか  

  ったが、相楽らの、幕府を挑発して発砲させ朝敵に仕立て上げる目的  

  は達したといえる。  

  慶応4年1月5日、相楽らが京都にたどり着いた時にはすでに薩長軍  

  が鳥羽伏見の戦いで勝利をおさめており、西郷は、戊辰内乱に突破口  

  を作った浪士隊の活動に感謝するが、結成されようとしていた総督府  

  軍の前方進軍する先鋒隊に参加するように指示し、相楽らはこれを、  

  赤報隊と名づけ、三隊に編成して東に向かった。この時、太政官坊城  

  大納言からは、戦争に苦しむ万民のために、幕府領の租税は半分に減ら  

  すという勅定書を下されていた。しかし、新政府軍には軍資金がなく、  

  身動きの取れない状況となり、結局、三井などの特権商人に金を借り  

  ることになる。商人は無条件で金を貸すことはなく、年貢米の請負を  

  要求し、勅定にある年貢米半減の撤回を条件に出した。金のない新政  

  府は条件をのまざるを得ない。布告の撤回は、新政府の信用に関わる  

  問題であるから、年貢米半減を旗印にすでに進撃している赤報隊を呼  

  び戻さなくてはならなかった。  

  二番隊、三番隊は呼び戻しに応じたが、相楽の率いる一番隊は引き返  

  さず、年貢米半減をしめしながら、攻撃許可の下りていない東山道に  

  まで進撃した。相楽は東海道総督府付属であったが、東山道へ侵入し、  

  碓氷峠を確保する計画で、美濃から伊那谷へ入り、信州下諏訪を根拠  

  地とした。さらに、北信州佐久地方の農民が次々に加わり、年貢半減  

  だけではなく農民救済を唱える市民運動的な展開になってきていた。  

  一方、新政府軍は益々商業資本との結びつきを深め、また、多くの藩  

  は新政府に忠誠を誓い、諸藩の戦力を官軍編成にいつでも組み込める  

  体勢が整ってきていた。相楽らの動きは、中央集権の政権を握るうえ  

  で新政府軍の妨げとなる。この障害を取り除くために2月10日、新政  

  府軍は信州の諸藩に、赤報隊を「偽官軍」とする布告を出した。  

  この布告が出された時、相楽は大垣に滞陣していた総督府に出頭して  

  いたが、信州に戻ると、赤報隊は信州諸藩の攻撃を受け、隊士の大半  

  が捕まるか戦死していた。相楽は同志釈放に努力するが、甲斐はなく、  

  自らも捕縛され、取調べもないままに慶応4年3月3日に処刑された。  

  墓は、長野県諏訪郡下諏訪町、魁塚。  




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