島田左近 
 しまだ さこん 

九条家諸大夫
 
  九条家の諸大夫。諱は正辰、または龍章。その出自や生立ちは  

  さだかではないが、石見の農家に生まれ京地商売の手代となり、  

  宮家侍奉公より次第に九条家に取り入り、遂に同家の諸大夫  

  になったともいい、また、はじめ烏丸家に仕え、後に九条家に  

  入ったとも云う、また美濃のさる山伏の子で、九条家の臣、島田  

  氏の入婿となり、妻の母千賀浦が九条家の老女をしていたので  

  同家に勢力を得たという話もある。九条家にはいった左近は諸  

  大夫となり、従六位下左兵衛権大尉という地位を得る。  

  安政五年以降、左近は幕府の擁護者と目された関白九条尚忠の  

  家令として親幕的な姿勢を貫き、井伊直弼の謀臣として京都工作  

  に上京していた長野主膳と通謀策応し、一橋慶喜擁立派の運動を  

  妨害阻止して紀伊公景福の嗣立に成功した。  

  京での安政の大獄における浪士狩りには表と裏の動きがあったと  

  いわれ、表は井伊の命を受け上洛した老中間部詮勝と京都所司代  

  酒井忠義であり、裏の指揮は長野がとり、左近はその参謀長格だっ  

  たといわれる。また左近は私生活も派手で、政治活動に携る傍ら、  

  表立って金貸しも営み、膨大な利益をあげていたという。  

  和宮降嫁の折には斡旋に努め、幕威の回復をはかり、尊攘志士の  

  憎むところとなっていた。  

  万延元年3月3日、左近の最大の庇護者であった井伊直弼が桜田  

  門外の変で倒れ、また、和宮降嫁で協力した岩倉具視、千種有文ら  

  公家も朝廷の要路から退けられ、左近の近辺も危うくなる。  

  左近は京都に居づらくなり、中国路や彦根に潜むなどして所在を  

  隠すが、清河八郎や小河一敏らに付け狙われ、遂に伏見で見つけら  

  れ、文久2年7月20日、京都木屋町の別寓にて薩摩藩の田中新  

  兵衛らに襲撃され討たれた。  

  左近の首級は鴨川筋四条北の先斗町川ぎわに、斬奸状と共に晒さ  

  れ、幕末京都の所謂天誅を受けたさきがけとなった。  

  享年は、38歳、あるいは35歳といわれる。  




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