山川大蔵 
 やまかわ おおくら 

会津藩家老
 
  弘化2年11月6日、会津若松城下本二之町の山川家で生まれた。  

  幼名、与七郎、長じて大蔵、維新後は浩と改める。  

  山川家の祖先は信州高遠の出で、代々治大夫を襲名した松平氏の  

  世臣であったが、父の尚江重固が安政七年、早くして没したために  

  藩の家老で財政に長けた祖父の兵衛重英を父代わりに、また自らは  

  幼い弟健次郎、妹拾松(後の大山巌婦人)の父代わりとなる。母は、  

  西郷十郎兵衛近登之の姉娘で、妹文子は、白虎隊で生き残った飯沼  

  貞吉の母である。  

  藩主松平容保が京都守護職になると、大蔵は主君に従い上京した。  

  慶応2年、22歳のとき、樺太国境協議のためにロシアに向かう  

  外国奉行小出大和守に随行しヨーロッパ諸国を見聞。パリ万国博も  

  見学をして帰国した。このときに大蔵は世界の大勢を知り、攘夷の  

  非を悟ったといわれている。  

  慶応4年正月、鳥羽伏見の戦いに敗戦後も大坂城に最後まで残り、  

  多くの負傷兵を紀州経由で江戸へ護送するのにつとめた。  

  帰藩後、フランス士官シャノアンから洋式練兵の伝習を受け、また、  

  軍事会計を担当し二分金などの金銭鋳造を城の西出丸で行い、軍事  

  費をたすけた。  

  その後、日光口の防備にあたり、旧幕軍総督の大鳥圭介を副総督と  

  して助け、西軍の板垣退助軍と善戦した。このときの敵将谷干城から  

  注目を受け、後には親交を結ぶ。  

  明治元年8月22日、西軍が母成峠を突破し猪苗代城に迫った急  

  報に、大蔵は若松城危しと日光口の前線を退陣し、途中の本郷近く  

  の三本松で小松の彼岸獅子を借りて、この笛太鼓を先頭に若松城を  

  包囲する敵中を突破し、一兵も損ぜずに入城したという話は有名で  

  ある。篭城戦では家老に昇進して防衛総督を務めるが、力戦の末降伏  

  開城となる。  

  維新後は松平家復興と旧藩士援助のため斗南藩の責任者である権大  

  参事に就任し、一万七千三百の藩士と家族を移住させ、まだ二歳の  

  藩主松平容大を助けて斗南藩運営の先頭に立った。しかし明治四年  

  の廃藩置県と同時にそれも終わり、その後、谷干城のすすめで陸軍  

  に奉職、西南戦争では熊本城を包囲する薩軍を撃破し、場内にいた  

  谷干城と最も早く連絡をつけるなどの功績を上げ、のちに陸軍少将  

  まで進んだ。軍人現役のまま東京高等師範校長、貴族院議員となり  

  この間、郷党の青年のために力を貸すことが多かったという。  

  明治31年、死の直前に男爵となり、華族に列したが、同年2月4日  

  病没する。  

  享年54歳。墓は、東京青山墓地にある。  

  大蔵と弟健次郎が発刊を計画し、大蔵没後明治44年に刊行され  

  た「京都守護職始末.旧会津藩老臣の手記」は、それまで勝者官軍的  

  な戊辰戦争史を敗者の立場から記し、客観的な維新史観を生ませた  

  といわれている。  




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