玄斎流 |
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天保五年十一月二十五日、父小森貞助と母わかの子として、熊本城下神馬借町に |
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生まれ、河上家の養子になった。称を彦次郎、後に彦斎。名を玄明といった。 |
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明治になって高田源兵衛と改名した。林桜園の原道館で学業を受けた。同門に |
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神風連の首領になった太田黒伴雄や加屋霽堅らがいて親交があった。 |
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文久元年、藩主の名代として上京した長岡護美に随行。それまでの国老付坊主と |
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いう職を免ぜられて蓄髪を許された。その後、滞京して熊本藩選抜の親兵に |
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なった。元治元年七月十一日、松代藩士佐久間象山は、山階宮に御機嫌を伺った |
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が不在だった。帰途、五条河原町の本覚寺に門人蟻川賢之助を訪れてののち、 |
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三条通りから木屋町に入った。七ツ半というから現在の午後五時〜六時頃だった |
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が、象山は西洋馬具をつけた愛馬「王庭」跨り、従者二人に馬丁二人を連れて |
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いた。河上彦斎と隠岐の松浦虎太郎の二人が馬上の象山を斬りつけた。彦斎は |
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左ひざを曲げ、右を地に触れんばかりに後へ流す独特の構えで斬りかかった。 |
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巷間「人斬り彦斎」の異名をとる「玄斎流」剣法である。しかし、象山斬殺後は |
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人斬りを断ったといわれる。明治政府が開国を決めた後、彦斎は反体制発言を |
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繰り返し、愛宕通旭事件に連座して明治四年十二月三日刑死した。 |
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応観法性信士と号し、東京都大田区の池上本門寺に墓がある。 |
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北辰一刀流 |
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文政十三年十月十日、出羽田川郡庄内清川村の酒造業斎藤治兵衛豪寿の子に生まれ |
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称を元司、名は正明、字を士興、号を楽水、震といった。弘化四年、十八歳の折、 |
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江戸へ出て、神田お玉ヶ池の東条一堂の塾に入門して勉学に励んで、桃井儀八や、 |
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江幡五郎とともに、一堂門下の三傑と謳われた。生方鼎斎の書道塾にも入ったし、 |
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天神真楊流開祖の磯又右衛門の柔術道場の門も叩いた。 |
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弘化四年十一月二十九日、北辰一刀流千葉周作道場の玄武館で行なわれた寒稽古の |
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納会を見学して、剣術の修行に励むようになった。その後、関西、四国、肥前長崎 |
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への旅を通じて攘夷論者になった。 |
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安政六年、神田お玉ヶ池に文武指南所を開いて同志を募り、虎尾の会を結成した。 |
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文久元年五月二十日、市井の輩を無礼討ちにしたことで幕吏に追われて、関東、 |
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東北、そして京都と逃避した。ところが文久二年十二月二十九日、幕議によって |
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赦免、上京浪士隊を束ねて京都へ上った。しかし、清河は生麦事件の処理問題が |
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こじれて戦にでもなった時の戦闘要員としての帰府を言上、三月十三日、上京した |
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道と同じく、中山道の帰途についた。江戸に戻った八郎は、攘夷実行の日を四月 |
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十五日と定め、外国人居留地の焼き打ちを決行した二日前の十三日、佐々木只三郎 |
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らによって赤羽橋附近で殺害された。 |
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東京都文京区の伝通院と山形県東田川郡立川町の歓喜寺に山岡鉄舟書の墓がある。 |
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■ 幕末人名鑑 ■ |
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神道一心流 |
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安永九年、櫛渕儀左衛門玉周の次男に生まれ、斧吉、弥司馬、太左衛門などと |
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称した。神道一心流の開祖櫛渕弥兵衛宣根の養子となった。伯父の宣根が養父 |
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となり、武術の師でもある。剣術と薙刀を学んで、十五歳で切紙。十八歳で |
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目録、二十一歳で免許を授った。養父宣根とともに一橋家に仕えた。 |
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寛政十一年、御徒見習になって以来、目付、徒頭、徒目付組頭、書院番などを |
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歴任して二十五石五人扶持を食んだ。文政十一年、門人三百五十人の名を認めた |
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大扁額を王子稲荷に奉納した。天保八年、病に冒されて生死をさまよったが、 |
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回復して、主君徳川慶喜の御前において、栄ある演武を行なった。 |
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嘉永五年十一月十日、七十三歳の天寿を全うした。次男太左衛門が不浄軒と号し |
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三代目を襲名した。 |
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田宮流居合術 |
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天明八年、小普請窪田助左衛門武楽(延寿斎)の子として生まれ、称を助太郎、 |
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後に源太夫、名を勝栄、後に清音といい、号を修業堂といった。大番与力から |
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納戸、広敷番頭取から納戸頭にすすんだが、同僚羽倉外記と論争して閉居の身に |
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なった。講武所の開設とともに勤仕並となり、得意の山鹿流兵法を講じた。 |
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兵学としては、黒野源太夫義方に山鹿流を学び、皆伝師範免許。甲州流は都築 |
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勘助の門人。越後流は松本三甫門人で、長沼流は斎藤三太夫の門人でそれぞれ |
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免許を得ている。武術は田宮流居合術を主として、十種余の免許並びに皆伝と |
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多芸を誇っている。 |
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田宮流居合術 平野匠八門人 皆伝師範免許 |
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吉富流居合術 星野源太夫門人 |
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宝蔵院流槍術 鈴木大作門人 免許 |
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無辺夢極流槍術 和田孫次郎門人皆伝 |
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関口流柔術 平野匠八門人 皆伝 |
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小笠原流弓術 小笠原舘次郎門人 |
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小笠原流弓術 小児平格門人 免許 |
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日置流弓術 土井主税門人 |
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大坪流馬術 浅井金兵衛門人 免許 |
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外記流砲術 井上左太夫正清門人 |
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中島流砲術 窪田助左衛門勝英門人 皆伝師範免許 |
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剣術の門弟としては、講武所の剣術師範役をつとめた戸田讃岐守忠道や依田 |
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伴蔵直恒がいた。岡田真澄に千蔭流の書を学び、文筆にも堪能で、兵書や剣術書 |
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など百三十部に及ぶ。慶応二年十二月二十五日、七十六歳で没した。戒名は清音 |
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院殿聴学道弘居士と号し、東京都港区青山の玉窓院に墓碑がある。 |
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神陰流 |
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文政八年、備中松山藩士熊田武兵衛矩清の次男として現高梁市川端町の松山城下 |
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本丁に生まれ、名を矩芳といった。兄は病によって廃嫡となり、恰が父の跡目を |
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相続。近習から物頭、番頭を経て執政となった。有終館で勉学にいそしみ、剣を |
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伊予宇和島で修行して奥義を極め、藩の剣術指導に当たった。 |
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慶応四年正月二十二日、藩主板倉勝静の親衛隊長として大阪にあったが、藩主の |
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帰藩命令によって、この日現在の倉敷市玉島に着いた。新政府軍は、熊田の鳥羽 |
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伏見戦の参戦を疑い、熊田の首級を要求した。熊田は身を殺して衆を救い、乱を |
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一方にとどまるばかりか、主家への忠ばかりか皇室に忠なりなす〜と、親族熊田 |
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大輔に介錯を頼み、門人井上謙之助を介添に切腹した。行年四十四歳。その首級 |
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は城南に位置する道源寺に葬られ、同寺に墓碑が建立されている。 |
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流派不詳 |
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長州萩藩士二百五十石蔵田信豊の長男。天保元年二月二十三日萩土原に |
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生まれた。名は信勝。武芸群を抜き、藩校明倫館の道場で柔術、居合、 |
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長刀の家伝三流の師範を勤めた。文久三年、馬関攘夷戦のあと高杉晋作 |
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が藩に上申して、奇兵隊とは別個に七月上旬門閥士族による先鋒隊を |
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創ったとき、幾之進も隊士に選ばれた。しかし奇兵隊との身分的な対立 |
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感情が、四百石の藩士で奇兵隊に入っている宮城彦輔をめぐって暴発 |
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した。八月十六日高杉や宮城ら奇兵隊数十人が、裏町教法寺の先鋒隊 |
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本陣に押しかけた。先鋒隊の大部分は裏口から逃げたが、居残った五人 |
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は白刃を抜いて奇兵隊士と斬り結んだ。腕に覚えのある幾之進はもっと |
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も奮戦して重傷を負い、その晩絶命した。行年三十四歳。嫡子千弥は、 |
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高杉晋作を相手に父の仇討を願い出た。藩は乱闘なので犯人不確かと |
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いう理由で許可しなかった。宮城は切腹となった。 |
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神夢想無楽流 |
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享和三年、会津藩御側医師の羽入義英の次男として生まれ、名は義信、後に |
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兼規といった。黒河内治助兼博に師事して、神夢想無楽の居合術を学び、 |
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その養子になって指南役になり、十三石二人扶持を給された。武術としては |
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外に、白井流の手棒手裏剣術や穴沢流薙刀。さらには稲上心妙流の柔術も |
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指南した。珍しいのは吹針での妙技も披瀝した。和歌もよくし正に文武両道 |
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に長けたが、晩年は失明して苦慮した。 |
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慶応四年八月二十三日、この日の早晩、西軍が接近することを知らせる早鐘 |
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が城下にこだました。軍事奉行黒河内式部は六日町で戦死した。伝五郎の伜 |
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百太郎も天寧寺口で戦死した。また少年白虎隊が飯盛山で自尽し、西郷頼母 |
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邸では妻の千重や母の律など多くの女性が自決した。藩士の家族は城内に急 |
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いだが、伝五郎は足手まといになるのをいとい邸内で命を断った。 |
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流派不詳 |
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萩藩無給通中船頭三十二石六斗神代一平の嫡男。周防吉敷大道で生まれたが |
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生年も経歴も定かでない。慶応元年一月の御楯隊名簿に相図方として名が |
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見える。その後脱走した。コチコチの攘夷党で、四月高杉晋作が馬関開港を |
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画策したとき命を狙ったという話も確証はない。無頼の剣客として知られ |
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始めたのはその頃からか。慶応二年初め大楽源太郎が大道に開いた西山塾 |
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にも入ったが長くはいなかった。大道の隣村鋳銭司出身の大村益次郎が、 |
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明治二年七月兵部大輔に進んで兵制の近代化を断行する。それに憤慨した |
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浪士仲間十数人と暗殺を企てた。九月三日萩藩京都控屋敷に大村を襲って |
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一太刀浴びせ右膝を深く傷つけたのも神代かどうかは分らないが、大村は |
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その為、敗血症で十一月死亡した。神代は事件後、豊後姫島に隠れた。 |
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大楽に呼ばれて周防に戻ったところを捕らえられ、十月二十日斬首された |
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とも、捕まる前に屠腹したともいう。 |
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天然理心流 |
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天保五年十月九日、現在の調布市野水一ノ六の武州多摩郡上石原村宮川久次郎の三男に |
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生まれた。初め勝五郎と称し、天然理心流三代目近藤周助の手ほどきを受け、周助の |
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実家島崎家の養子になって島崎勝太と改め、さらに島崎勇といったが、改めて近藤周助 |
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の養子になって近藤勇と称した。姓は藤原で、名は宜昌といった。後に甲府城接取の為 |
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甲陽鎮撫隊を結成した時、徳川慶喜より大久保剛を拝命した。また近藤勇平、大久保 |
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大和の変名も用いた。天然理心流の宗家四代目を襲封した勇は、土方歳三、沖田総司ら |
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の同志とともに上京浪士隊に応募。京に残留して松平肥後守御預となって、粗暴な |
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大幹部の芹沢鴨と新見錦を粛清して、組織の一本化を図って、新選組の局長を務めた。 |
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元治元年六月五日(一八六四年七月八日)三条小橋の池田屋を襲撃。一夜にして新選組 |
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の勇名を馳せた。組織強化で入隊した伊東甲子太郎と袂を分ち、彼を油小路に討ったが |
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その残党によって狙撃されて右肩貫通の重傷を負った。 |
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鳥羽伏見の戦いには参戦せず、富士山艦で帰府。甲府城接収に失敗。敗走して下総流山 |
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で、新選組再編成の隊伍を整えるが、西軍の急襲によって一人投降。土方らの救出を |
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図って、十二日目の慶応四年四月二十五日(一八六四年五月十七日)平尾一里塚の処刑 |
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場において、横倉喜三次の太刀取リで斬に処された。その首級は京の三条河原に晒され |
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胴は生家の菩提寺である三鷹の龍源寺に葬られたと伝えられる。 |
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近藤勇の胸像は龍源寺ほか三ヶ所、墓や遺髪塔は京都壬生寺など六ヶ所にある。 |
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貫天院殿純忠誠義大居士と号す。 |
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■ 新選組家紋 ■ |
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神道無念流 |
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斎藤篤信斎の三男で「鬼歓」とあだ名されたほどの奇才だった。天保四年の |
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生まれ、名は歓道。突きが得手で、嘉永二年練兵館道場を訪ねてきた腕自慢 |
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の長州藩士たちを、みな一撃のもとに倒した。 |
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嘉永四年肥前大村藩に百名で召抱えられ、安政元年五月大村城下に神道無念 |
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流道場微神堂を開いた。この年岩国の宇野金太郎が大村に来て試合をした時 |
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は、逆に一撃で敗れてしまった。安政四年歓之助が雪辱の為、岩国を訪ねた |
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時は、あいにく金太郎が眼を患っていたため、門弟たちを相手に散々苦しめ |
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たという。中風にかかって半身不随になったのはその直後であろう。 |
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体は不自由になっても、稽古は師範代にまかせながら道場に出て厳しく指導 |
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を続けた。廃藩後は大村を辞して東京に戻った。明治三十一年一月三日 |
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麹町で永眠。六十六歳であった。墓は日暮里の本行寺にある。 |
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神道無念流 |
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斎藤弥九郎嫡男。文政十一年七月江戸に生まれた。後に弥九郎の名を襲っている。 |
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諱は龍善。十九歳より東北、北海道や西南諸国を武者修行してまわった。萩には |
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嘉永二年と五年に訪れた。二年のときは吉田松陰兵学門下となり、五年のときは |
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桂小五郎ら七人の藩士を練兵館道場に連れて帰った。 |
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文久二年、萩藩江戸桜田屋敷の有備館剣術指南に招かれ、また水戸や越前屋敷でも |
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教えた。文久三年幕府講武所の剣術師範となる。慶応二年、幕府遊撃隊肝煎役。 |
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翌年には幕府歩兵指南役並として西洋錬兵の伝習に携わった。 |
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明治後は官に仕えず、帰農して製茶を試みたが失敗。道場のあった麹町三番町が、 |
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招魂場の敷地となったため、牛込見付内に移り、後さらに本郷元町に転じて武芸の |
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ほか、文学、書画を楽しみながら、明治二十一年八月五日、六十一歳で没した。 |
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神道無念流 |
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業の千葉周作、位の桃井春蔵、力の斎藤弥九郎と云われた江戸三剣士の一人。 |
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越中氷見郡仏生村斎藤信道の長男に生まれたのは寛政十年一月十三日。名は善道、 |
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篤信斎と号した。十五歳で江戸に出て神道無念流岡田十松の撃剣館に入門、代教授 |
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に進んだ。同門の江川坦庵の後援で文政九年、飯田町俎橋に練兵館道場を開いた。 |
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天保九年、火災に遭って九段坂上三番町に移る。それより先、天保六年坦庵が伊豆 |
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韮山代官を継いだ際、支配地の実務を頼まれた。天保十二年には江川の下僚、高島 |
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秋帆の徳丸原演習にも参加した。水戸藩主徳川斉昭に目をかけられ、弘道館仮開館 |
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には門弟を連れて水戸で指南した。また萩藩世子毛利定広の好遇も受け長女象子を |
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定広の侍女に入れている。戊辰の役で彰義隊から首領に迎えられようとしたが動か |
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なかった。明治四年十月二日、七十四歳で死去。墓は現在代々木の福泉寺にある。 |
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一刀流・無外流 |
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天保十五年、御家人山口裕助の次男に生れる。父は明石藩の足軽で後に御家人株を買った |
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と言われるが真意は定かではない。斎藤は、江戸で試衛館の面々と認識があり、誤って人 |
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を殺めてしまい、京に逃れている時に、佐伯ら四十人程が、京で募集したときに試衛館の |
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面々を尋ね隊に入隊し、残留組に残った、二十四人の一人である。池田屋事件の際には、 |
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土方と行動し十七両の褒賞金を得た活躍をしている。陰の行動では、谷三十郎、武田観柳 |
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斎の暗殺も伝えられている。だが、時期的に武田の暗殺は高台寺に分離の後であり、新選 |
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組からの指示で篠原とともに動くとは考えられない。 |
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伊東甲子太郎が入隊後、土方の命により伊東らに近づき監視を行う。御陵衛士を拝命し分 |
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離しても、同調して離脱したのはその為である。油小路の変が起こる前に帰参し、伊東ら |
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が、近藤暗殺計画をしているのを報告。慶応三年十一月十八日油小路の変の当日、紀州三 |
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浦休太郎の護衛をしていた斎藤は、山口二郎と称して新選組に戻る。 |
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鳥羽伏見の戦いに参戦するが、惨敗し江戸に戻る。近藤らと共に甲州鎮撫隊に参戦するが |
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勝沼で敗れ江戸に敗走。近藤勇の指示を受けて、野州を転戦後、会津城下に入る。 |
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怪我の土方の代わりに隊長を務め、新選組の指揮を執る。土方歳三と確執が生じ、喧嘩別 |
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れして会津に残ったとされるが、事実は異なる。この時期に土方が会津公から指示を受け、 |
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桑名公と松本良順を落とし、援軍を要請するために米沢に向かったのである。だが米沢に |
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入れなかった為、奥羽列藩同盟主である仙台に向かったという事情があり、この時点では |
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山口ら新選組は、土方が仙台に向かったのは知らないのである。 |
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高久の戦いに出陣した島田魁らの留守に奇襲された山口らの本隊は四散し、島田魁らは、 |
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大鳥軍に従い行動。虎口を脱した山口ら数名は会津城下で参戦するも会津藩が降伏、山口 |
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らもこれに従った。西軍に囚われて新選組に戻る事が出来ず、斗南に配流。一戸伝八と称 |
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し戦後、藤田五郎と称した。警視局に勤務し西南の役にも出征する。警視局退職後は、女 |
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子高等師範学校に勤め、大正四年九月二十八日 |
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■ 新選組家紋 ■ |
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直心影流 |
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寛政四年八月十八日越後高田藩士洒井総右衛門憲福の次男として、江戸下谷の |
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藩邸で生まれた。初め捨吉と称し、名は成大といった。師は藤川整斎と墓碑銘 |
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に刻まれているが、良佑とはわずかに一歳の年長であるところから、少年期の |
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入門と考えれば、整斎の御見人赤石郡司兵衛孚祐が事実上の師ではないかと、 |
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「全国諸藩剣豪人名事典」を編んだ間島勲氏の弁に同意したい。 |
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洒井良佑の名を世に知らしめたのは、神道無念流の秋山要助正武との立ち合い |
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である。良佑二十四、五歳の頃のことで、秋山は四十四、五歳という。良佑 |
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五本勝負でたちどころに三本を取った。敗れた秋山は「拙者もし若かったとし |
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ても、五分に立ち合えたかどうか」と讃えた。 |
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天保八年九月二十二日、四十六歳で没した。戒名を観機院勇俊智策居士と号し |
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墓は東京都文京区本郷五丁目の喜福院にある。 |
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直心影流 |
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天保元年十一月七日か十九日の酉の日、小普請奥田主馬支配榊原益太郎の長男と |
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して生まれた。名は友善といい、十三歳の天保十三年、直心影流男谷精一郎信友 |
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の本所亀沢町の道場に入門した。男谷の道場は麻布狸穴から下谷に転じたが、 |
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遠い道を毎日通って修行に励み、嘉永二年正月十二日免許を授かる。安政三年 |
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三月一日講武所の開設とともに男谷の推挙によって、剣術教授方として出仕した |
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同年十月十六日には小十人組御番入となるが、出役としてこれまで通り剣術教授 |
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方をつとめる。文久元年四月五日奥詰、同三年十二月二十六日、二ノ丸御留守居 |
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格布衣講武所剣術師範役となり、四百俵を食む。役手当を外に十五人扶持を与え |
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られた。慶応二年十月十八日講武所の廃止により、遊撃隊の頭取に転じた。その |
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頃、下谷車坂与力町の岡部彦四郎の借地に町道場を開設した。慶応四年八月、 |
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徳川家達が静岡へ移ったとき、鍵吉も追従したが、明治三年に東京へ戻った。 |
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そして禄を失った武芸者を一堂に会して「撃剣興行」を催した。明治十九年十一 |
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月十日、伏見宮邸において兜割りに成功した。男谷精一郎、榊原鍵吉とつづいた |
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直心影流は野見℃沽Yを経て現在の石垣安造に至る。明治二十七年九月十一日、 |
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六十五歳で没した。戒名を義光院杖山倭翁居士と号し、墓は新宿区須賀町西応寺 |
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小栗流・北辰一刀流 |
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土佐藩郷士。天保六年、高知生まれ。高知城下、築座敷の小栗流・日根野弁治 |
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道場へ嘉永元年、十四歳で入門した。小栗流は柳生新陰流から派生した総合 |
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武術の古流である。剣術、和術、組打、槍術、居合、薙刀、水馬、水泳、騎射 |
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棒術、縄術、小太刀などを教えたが、幕末期には剣術が中心となっており、 |
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土佐藩校文武館(のち致道館)では剣術六流派の中に小栗流を加えている。 |
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龍馬は嘉永六年「小栗流和兵法事目録」嘉永七年「小栗流和兵法十二箇條并 |
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二十五箇條」と三種の許状を伝授されている。その剣術をみてみると、太刀が |
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五本(天刀、地刀、抜切刀、右曲、左曲)小太刀が六本(附入、分割、一味、 |
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魚鱗、清眼、絶妙刀)、居合の五方(向詰、右詰、左詰、後詰、四方切)、 |
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出合、當、附込、附退、抜討、請流、介錯などが含まれている。伝統な型を |
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習得する古流であったことが判る。それと対照的に江戸で入門した北辰一刀流 |
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は、新しい流派であった。千葉周作によって創始されたこの流派は防具、竹刀 |
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を使い、型よりも実戦に近い試合稽古を中心とした練習方法をとっていた。 |
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剣技の上達は古流より早く、若者の人気を得ていた。龍馬は千葉定吉の門下生 |
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となった。しかし、龍馬が伝授された許状は安政五年正月の「北辰一刀流長刀 |
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兵法目録」しか現存していない。他の許状は伝授されなかったのだろうか疑問 |
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が残るところである。しかし、道場主の娘の婚約者となったところから推定 |
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して、剣の実力がなかったとは云えないと思われる。 |
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■ 幕末人名鑑 ■ |
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神道精武流 |
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天保四年、会津藩士佐々木源八泰道の三男に生まれ、佐々木矢太夫の養子となった。 |
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名を高城という。文久三年二月四日(一八六三年三月二十二日)鵜殿鳩翁の上京浪士 |
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隊に加わり、取締並出役として、小石川伝通院から中山道を京へ出立。しかし、清河 |
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八郎の建言によって、生麦事件の処理問題がこじれて戦争になるかもとの危懼、関白 |
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鷹司政通から帰府の達文があり、佐々木も江戸に戻った。その時、松平容保から清河 |
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殺害の密命を帯びて、同年四月十三日麻布一之橋で斬殺した。 |
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京都見廻組の誕生の時、蒔田相模守広孝組与頭勤方大御番次席となり、慶応三年十一月 |
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十五日(一八六七年十二月三日)坂本龍馬や中岡慎太郎襲撃の指揮をしたと云われる。 |
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鳥羽の戦いで銃創を負い慶応四年正月八日和歌山で没し、紀三井寺に葬られたが、後に |
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会津若松の武家屋敷に改葬された。 |
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北辰一刀流 |
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天保五年、現在の八王子市左入である武州多摩郡左入村の農民小峰久治郎の |
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長男に生まれ、初め軍司と称し、氏を真田、称を範之介と改め、号を玉川狂夫 |
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といった。神田お玉ヶ池の北辰一刀流千葉周作道場の玄武館で苦行をつんだ。 |
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周作の次男栄次郎の代になって塾頭をになった。水戸の藤田小四郎や武田耕雲斎 |
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さらには田丸稲之衛門と交わり、元治元年、水戸の天狗党が筑波山の挙兵に合 |
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すべく、玄武館の塾生を率いて馳せ参じた。しかし、藤田らは下山の後だった。 |
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範之介は江戸へ戻って永代橋の水戸舟屋敷に身を隠したが、新微組の探知する |
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ところとなって、元治元年十月十七日踏み込まれ、修羅場と化した血刃の下に |
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三十一歳の命を散らした。その屍体は千住小塚原の回向院に棄てられたという。 |
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二天一流 |
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肥後出身、熊本藩士。諱は清秀。初めは作十郎と名乗り、のちに瓢箪先生と |
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呼ばれた。生没年は宝暦六年〜天保二年。彦右衛門は武芸全般に秀で、剣術 |
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は宮本武蔵が創始した二天一流、吉田喜右衛門正弘から揚心流柔術、小堀流 |
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踏水術を池部弥八郎春近に学び、それぞれ奥義に達したという。とくに |
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剣術に優れ、藩士の多くがその門を叩いたので、常時数百人の門弟を数えた |
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子の半兵衛清明も二天一流の系譜を継いだ。踏水術においても、彦右衛門が |
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水に入ると、泳法が真に鮮やかで、まるで鴨か鴎が戯れているようで、神技 |
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と形容されるほどだった。晩年、七十歳を過ぎても水に入り、平然と川を |
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上下に泳ぎ、衰えをみせなかった。剣術、柔術、踏水術の師範をじつに五十 |
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三年も勤め、七十六歳で他界。城下宝町の安養寺に葬られた。 |
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野太刀自顕流・常陸流 |
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薩摩・鹿児島城下平町中小路の出身。通称冬一郎。天保七年十二月五日生まれ。 |
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国幹は馬術を比志島静馬、槍術を梅田九左衛門、そして剣術を野太刀自顕流の |
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薬丸半左衛門兼義と常陸流の和田源太兵衛に学んだ。常陸流は示現流の分流、太 |
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刀流から分れたものである。長じて国幹は尊攘激派となり、文久二年、有馬新七 |
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らと寺田屋で決起を図ったが鎮圧され、藩命により謹慎となった。 |
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戊辰戦争では城下三番隊長として出征した。とくに彰義隊との上野戦争では、 |
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激戦となった黒門口を担当、西郷隆盛の退去命令があっても「黒門は敵の最も要 |
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害とする所。吾人、一歩も退くこと能わず」と猛進、ついにこれを突破した。 |
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西南戦争では挙兵を強硬に主張し、一番大隊長として出陣、吉次越を守る。 |
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陣頭で督戦しているところを政府軍により狙撃されて落命。享年四十二歳。 |
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大島流 |
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長州徳山藩で槍の遣い手として知られた勤王七士の一人。名は徽胤、号を秋栞 |
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という。文政十二年、徳山藩士信田十左衛門の長男に生まれ、俊才の聞えが高 |
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かった。安政元年三月筑後柳川に遊んで、加藤喜右衛門の門で槍術の修行を積 |
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み塾頭に進んだ。福山藩にも招かれて槍の指南をしている。文久二年上京して |
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尊皇攘夷運動に加わる。十一月攘夷督促勅使東下の際、副使姉小路公知の護衛 |
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を命じられた。翌春京都に戻って周旋方となり、親兵に選ばれて禁門の守衛に |
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あたった。八月十九日の堺町門の変により帰国。元治元年禁門の変後、藩内の |
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俗論党が実権を握り、勤王正義派の諸士を弾圧。作太夫も八月十二日捕えられ |
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て入獄した。慶応元年一月十四日、浅見安之丞ら同志とともに新宮浜に誘い出 |
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されて首を締められた。屍体は砂中に隠された。行年三十七歳。寺町の八正寺 |
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に葬られている。 |
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直心影流 |
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天明七年、現在の千葉県君津市である上総望陀郡の久留里藩士芝山正授の子と |
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して生まれ、名は正善で、号を溪幽といった。藤川弥司郎右衛門近義に直心 |
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影流を学んだ久留里藩の吉村弥次平次時に師事した正善は、十四歳にして信州 |
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高遠藩の岡村忠雅に天山流砲術を修行して、師を歓嘆せしめたといわれる。 |
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藩歴としては、郡奉行や寺社奉行、そして大目付に任じられ、知行百石の用人 |
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に累進、江戸藩邸に勤仕した。観世流の謡曲にも精通し、文武両道に達した。 |
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笛と鼓に達しており「高音吹き」と呼ばれる笛で、将軍家に招かれたことが |
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あるという。後に帰省して、剣術は勿論のこと砲術から謡曲、書に至るまで |
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指南した。文久三年正月五日、七十七歳で没した。戒名は陽雲院溪幽正善居士 |
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と号し、久留里の真勝寺に埋葬された。 |
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鹿島流 |
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文化六年、笠間藩士石井勘平盛郷の長男に生まれ、称を八郎、庄吾、名は |
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龍雄といった。子供の頃から父に示現流を学んだ。後に津山勝馬に師事して |
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北辰一刀流を学び、鹿島流を創始した。文政十二年、二十一歳のとき笠間藩 |
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を辞し、島男也を唱える。その後、伊勢の白子御園村の無住の寺や大阪の生 |
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魂神社の境内などに道場を構えて数多くの門人たちを指南した。安政四年、 |
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島が極めた剣槍、居合、薙刀など武芸十八般を総じて「皇道剣法」を主唱した |
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土浦の国学者佐久良東雄と親交を結び、大納言中山忠能に仕え、尊攘運動に |
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加わる。安政七年三月三日、桜田門外に井伊大老を襲撃した高橋多一郎と義 |
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するところを幕吏に捕らえられ、文久元年十一月五日、伝馬町の牢で獄死。 |
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墓は笠間市の月崇寺、都内荒川区南千住の回向院と墨田区千歳の要津寺にある |
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直心影流 |
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文化十一年四月三日豊前中津十万石奥平大膳大夫昌高の臣で、三十石を食む料理方 |
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島田市郎右衛門の四男として、現在の大分県中津市島田の豊前下毛家郡島田村に |
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生まれた。姓は源で名が直親。号を硯山といった。文政六年十一月、十歳のとき、 |
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肥後人吉藩祐筆役の叔父宮原兵衛之助の養子になったが、養父といさかいが生じて |
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離縁、中津へ戻る羽目になった。文政九年、十三歳で、藩の剣術師範をつとめる |
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外他一刀流堀太郎太夫の門に入って修行し、三年後の文政十二年、十六歳で九州 |
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一円の武者修行の旅に出た。萩藩支配地吉田宿の笹尾羽三郎正矩道場の「諸国武術 |
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御修行者姓名録」に、次ぎのような記録がある。 |
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文政十二年丑五月 豊前中津家中 外他一刀流堀太郎太夫門人 嶋田虎之介 |
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天保六年未七月廿七日 一刀流 嶋田金十郎 同 虎之助 |
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天保八年酉九月二十四日 一刀流堀太郎太夫門人 嶋田虎之介 僕一人 |
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この後、虎之助は江戸へ出た。同年十一月二十四日、男谷道場における試合に名を |
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連ね、翌九年二月七日、男谷道場に入門、すぐさま免許を授かった。天保十四年、 |
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東北への武者奉行から戻った後、浅草新堀に道場を開いた。 |
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天保十五年辰 直心影流嶋田虎之輔門人 出羽山形家中 鈴木英佐 |
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という前記笹尾道場の記録がある。嘉永五年九月十六日、三十九歳で没した。 |
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政殿院達誉見山居士と号し、東京都台東区松葉町の正定寺に兄鷲郎と連刻の墓がある |
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家川念流 |
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寛政五年、柳河藩で千石を知行した立花内膳寿ュの四男に生まれ、名は隆治で |
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洗心と号す。後に清水重矩の養子になる。実父立花内膳は、三池角左衛門鎮光 |
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から家川念流の皆伝を授って、自邸に道場を設けて指南した。太郎左衛門は、 |
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父の門人長島鉄三郎に家川念流を学んだ。藩の小姓頭から番頭に転じ、用人を |
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兼ねた。天保六年、日置流弓術師範、同十四年、宝蔵院流槍術師範、弘化二年 |
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家川流剣術師範になり、安政四年に隠居したが、慶応元年、宗徳流砲術師範を |
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命ぜられて復職。慶応二年には中老格に進んだ。明治元年十一月二十八日、 |
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七十六歳で没し、愛山院頑水洗心居士と号し、柳川市の天叟寺に墓がある。 |
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太郎左衛門の長兄種董は剣槍弓馬砲の達人であったが、次兄親博も家川念流の |
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師範であった。 |
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北辰一刀流 |
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嘉永元年五月、下野宇都宮藩士下江秀之助恒貞の子として生まれ、名は恒明 |
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号が一刀斎といった。幼時より父恒明から北辰一刀流の手ほどきを受け、 |
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安政五年、十一歳で江戸へ出て、神田お玉ヶ池の千葉栄次郎の玄武館に入門 |
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栄次郎が文久二年正月十二日、三十歳で没した後は、弟の道三郎に学んだ。 |
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慶応二年、十九歳で千葉道場玄武館の塾頭になった。往時、十代の塾頭と |
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いうことで大評判になった。翌三年、宇都宮藩の剣術教授方になり、明治 |
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三年二月、刑部省から後の巡査なる逮部に任命されて撃剣世話掛になり、 |
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五月には逮部伍長にのぼって二十三石を給す。明治四年、刑部省が廃され |
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司法省が設置され、司法権少検部に任命されたが、ほどなく職を辞して |
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栃木県の鹿沼に身を引いた。その後十二年警視局の四等巡査となって剣術 |
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教授を命ぜられ、十四年に警視庁と改称された後も職務は続けたが、明治 |
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十七年八月、依願退職して鹿沼に帰った。その後の下江は、水戸、静岡、 |
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そして警視庁に復職し、下谷署、京橋署、名古屋の門前町署、さらには |
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仙台へ転じた。明治三十七年五月三日、仙台で没した。行年五十七歳。 |
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墓は東京都中野区上高田の猿寺こと松源寺にある。「大日本剣道史」を |
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編んだ堀正平が、元警視庁師範で、大日本武徳会本部剣道教授をつとめる |
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三橋鑑一郎に「下江先生は強かったそうですね」とたずねると、言下に、 |
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「下江が一番」と答えたという。 |
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北辰一刀流 |
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文政二年生まれの弁吉は、九十歳の天寿を全うした水戸藩士庄司秀実の弟で |
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あるが、父についての記述は皆無である。庄司弁吉の名は秀嶽といい、北辰 |
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一刀流千葉周作門下の稲垣定之助義路、塚田孔平真智、森要蔵景鎮とともに |
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「玄武館の四天王」と謳われた。嘉永二年閏四月二日、神田和泉橋通りの |
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藤堂和泉守高猷邸で行なわれた直心影流と北辰一刀流の試合に出場し、島田 |
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虎之助の門人山岡永久之助、男谷精一郎門下の天野将曹や横川七郎と手交せ |
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をして、一方的な勝利を収めた。いつのことか時期は不詳ながら、常州宍戸 |
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藩に召し抱えられたが、元治元年秋、水戸藩内抗争鎮撫のために、徳川慶篤 |
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の名代として水戸へ下向した藩主松平頼徳に随従して失敗。その責を問われ |
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元治元年十月十六日、水戸城下の下市赤沼の獄舎で斬罪に処された。 |
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天真白井流 |
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天明三年、備前岡山藩士を父に江戸藩邸で生まれ、初め大治郎と称し、名は |
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義謙、号を鳩洲といった。父の身分については、諸書岡山藩士とするが、 |
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間島勲著「全国諸藩剣豪人名事典」では、旗本稲葉家(のち安房館山一万石) |
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の公用人をつとめていた信州中野の郷士だった白井彦兵衛の次女が江戸の町人 |
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大野家に嫁いで、一男一女を生んだ。その男子が大治郎で、後の白井亨といっ |
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ている。旗本の稲葉とは、三千石の稲葉越中守正明のことだが、祖父白井彦兵 |
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衛の養子となり、白井の氏を称したが、彦兵衛の死後、跡目を継がずに浪人し |
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て、生涯仕官しなかった。八歳で機迅流の依田八郎秀復に入門し、十五歳の時 |
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一刀流中西忠太子啓に入門。高弟寺田宗有に学んで。名人の域に達す。天保十 |
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四年十一月十四日、六十一歳で没し、顕明院栄誉徳昌秋水居士と号し、台東区 |
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蔵前の法林寺に「鳩洲白井先生之墓」の墓がある。 |
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柳生新陰流 |
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秋田藩士。名は親重。幼名は亀松、のち彦兵衛。そして蔵人と改める。家禄は |
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十五石。天明二年、十六歳のとき出仕して大番組に入る。赤須某に柳生新陰流 |
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の剣術、真宮定広に無辺流の槍術を学び、いずれも免許皆伝を得る。そして、 |
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剣、槍の師範として仕える。とくに槍は達人の誉れが高く、小貫彦八郎と共に |
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並び称された。文化十年幕命よって秋田藩が蝦夷地に出兵した折に、箱館まで |
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行っている。天保四年、永年にわたって門人を教えた労に、藩から銀一枚が賜 |
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われ、同九年に藩主から紋付の裃が与えられている。 |
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蔵人は常に武人としての心得を守り、越中に宿泊の時は、草鞋と焼き飯を用意 |
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していた。蔵人が学んだ柳生新陰流は、渡辺七郎右衛門綱正が秋田に伝えた |
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心陰柳生流のことと云われている。 |
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天保十一年に七十四歳で没し、墓は秋田市旭北寺町の大悲寺にある。 |
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新真影流 |
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天保四年、鈴木岩七の次男として生まれ、名を良直といった。天保十二年、九歳で |
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越前勝山藩の剣術師範波多野塵也の門に入る。弘化四年、江戸に出て男谷精一郎に |
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入門、直心影流を学び、嘉永五年には、斎藤弥九郎に入門して神道無念流も修めた |
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安政二年、二十三歳で、越前勝山藩の剣術師範に召し抱えられる。定七が流儀を、 |
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「新真影流」と自称することで、藩内の名声があがった。藩の大目付や町奉行に任 |
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じられ、明治平定後は少参事などを務めたが、廃藩に伴なって職を免ぜられた後は |
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区長や小学校取締といった官職に携わった。その後も剣術家としての名声を失う事 |
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なく、勝山長山講武台における剣道大会は、大変な人気を得た。明治三十九年七月 |
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十三日、七十四歳で没す。戒名は節心宗忠居士と号す。 |
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鈴木派無念流 |
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天明四年、江戸に生まれる。通称を斧八郎、名を重明といった。巷間、忠也派 |
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一刀流の鈴木が、神道無念流の戸崎熊太郎暉輝に挑んで敗れ、神道無念流に改 |
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めたといわれるが、その実は、岡田十松吉利が相手だったという。 |
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その後、剣理を追究し、創意工夫を加えて一流をたて、鈴木派無念流の名の |
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もとに、麹町六番町に道場を開いた。尾張藩の先鋒物頭として召し抱えられ |
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江戸詰藩士たちの師範に任じられた。門弟に中村一心斎正清と一宮琢磨成幸と |
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いった達人を輩出している。ともあれ、道場は大いに繁昌して、門弟一万人と |
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いわれるほど、門前群れをなしていたということだろう。天保二年六月二日、 |
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四十八歳で没し、市ヶ谷左内坂の曹洞宗永昌山宗泰院に葬られたが、明治四十 |
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二年、現在地の杉並区高円寺南二−三一−五に移転改葬された。 |
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天辰一刀流 |
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陸奥国(宮城県)遠田郡大貫村伊藤久兵衛の三男として生まれたが、 |
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出生年はわかっていない。名は明光という。小野派一刀流坂本庄右衛 |
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に学び、奥義を極めた。その後、江戸へ出て、神田お玉ヶ池の千葉 |
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周作に北辰一刀流を学んで郷里に帰った。遠田郡桶谷村の伊達邦隆に |
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招聘されて、剣術を指南した。万延元年、准使番格になった。 |
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鈴木の剣技は実に精妙、門人たちを唸らせ「我が里に、先生以前に |
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先生はなく、先生以後に先生なし」と、仙台藩中一番の遣い手と言わ |
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しめた。鈴木は一流を興して「天辰一刀流」と称した。門人の数、 |
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およそ千五百。その中にあって、千葉三郎治が傑出していたという。 |
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明治四年八月に没し、桶谷の華勝山に葬られたが行年は分っていない |
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神道無念流 |
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文政十年、常州玉造芹沢郷の芹沢貞幹の三男に生まれ、姓は平、名は光幹、 |
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幼称を龍寿といった。近藤勇の書簡に「水府脱藩士下村嗣司事改芹沢鴨」と |
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認めている。しかし、水戸藩に下村継次という尊攘の士がいた。 |
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安政六年の勅書返納事件で、阻止運動に奔走した天狗党の一員で、獄に投ぜ |
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られ、後に処刑された人物である。芹沢は、その男の名を騙ったものと思わ |
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れる。本名はあくまでも芹沢鴨平光幹である。芹沢は、江戸に出て戸崎熊太郎 |
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芳栄に神道無念流の剣術を学び、免許皆伝に達し、元心流居合術も極めたと |
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いわれている。常日頃「尽忠報国ノ士芹沢鴨」と刻んだ鉄扇を持ち歩き、 |
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気に入らぬことがあれば、その鉄扇で傍らの人を打ちつけたという。 |
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清河八郎が言上した上京浪士隊に加盟し、近藤勇とともに新選組誕生の礎に |
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なった。芹沢が上京の途次本庄で起した「かがり火事件」はさて置き、文久 |
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三年六月三日、大阪の蜆橋で大阪力士の熊川熊次郎を斬った一件と京都葭屋町 |
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一条上ルの生糸商大和屋庄兵衛宅の砲撃事件を引き起こした粗暴ぶりに、 |
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松平肥後守容保の密命が下り、近藤勇、土方歳三ら天然理心流一派の闇討ちに |
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遭遇する。時に文久三年九月十八日(一八六三年十月三十日)のことである。 |
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芹沢横死の日は、土砂降りの雨だった・・・・・という話しから、この事件を |
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二日前の十六日とする気運が高まっているが、これは新選組宿舎に同居する |
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八木為三郎に言を借りた子母沢寛の虚構とふんでいる。 |
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■ 新選組家紋 ■ |
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東軍流 |
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天保二年、下総古河藩士千賀只右衛門義風の長男に生まれ、名は頼風、 |
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号を雲溪、有成、頼風化竜堂などといった。曽祖父只右衛門、祖父作右 |
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衛門、父只右衛門義風、そして牧太まで四代続いて東軍流の免許を授か |
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った。牧太は片山勇次郎重義に東軍流剣術の免許を授け、外に起倒柔術 |
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や高島流砲術、それに弓槍、馬術と多芸を誇った。元治元年八月九日、 |
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父只右衛門が五十五歳で没すると百七十石の跡目を相続した。 |
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嘉永三年から慶応二年までの十六年間に試合をした相手の数は、二千五 |
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十八人にもなるという。その豪剣ぶりに「鬼千賀」とか「鬼牧太」と呼 |
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ばれた。また幼少より画を好み、山水、花島の作品を残し、明治六年 |
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四月二十四日、四十三歳で没した。戒名を直禅院無門透閑居士と号し、 |
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茨城県猿島郡総和町の鮭延寺に葬る。 |
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玉影流 |
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宝暦十三年十一月二十九日、五千石の旗本近江守守節の嫡男に生まれ、 |
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姓は源で、幼称を豊松、後に善左衛門、伊勢守から近江守、そして |
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近江守に復す。中奥の御小姓をつとめる父守節が三十四歳で没し、守富 |
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が明和五年十一月四日、六歳で五千石の遺領を継いだ。天明六年十二月 |
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十八日、従五位下伊勢守を斜任。小姓組番頭に進んだ後、西ノ丸書院番 |
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頭、本丸書院番頭から大番頭等を歴任した。守富は若い時から武を好み |
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剣術に執心すること並大抵でなく、直心影流をはじめとして、一心流、 |
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一宮流、信心流など「心」五流を修め、一流を創始して「玉影流」と称 |
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した。天保五年二月二十四日、七十二歳で没し、麹町の浄土宗村高山栖 |
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岸院に葬られたが、同寺は大正九年、杉並区永福町に移転、今日に至る |
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